第二十一話 本拠襲撃

 日が完全に落ちると、怪会の本拠地を能力で見張っていた百目が携帯端末でのゲームを中断して顔を上げた。

 能力で無数の視界を持つからこそ可能な平行作業を辞めたのには当然理由がある。

 秋片はコートに手を伸ばした。


「地下から、一人出てきます」

「作戦開始だな」

「本拠の人員は、変わっていません。向こうも、警戒しています」

「それをすり抜けるのは得意分野だ。サポート頼んだ」

「お任せ、です」


 百目が請け負うと同時に秋片の携帯端末が勝手に起動する。秋片のサポートをするために百目が操作したのだろう。


「カメラ機能、オンにしておいて、ください」

「あぁ、触らねぇよ。橋本の方はどうなってる?」


 もう一人のサポート役である橋本について尋ねると、百目はフライドポテトをつまみあげながら答えた。


「仙田と、一緒です。警察署の、取調室で待機中、です。カツ丼は食べてない、みたいです」

「カツ丼はどうでもいい」

「食べたくない、ですか?」

「食べなきゃならないのは公安連中だしな。それじゃ、俺は出る。合図したら手筈通りに」


 秋片はコートを羽織り、時間を潰すために入っていたカラオケ屋の個室から出た。

 十年前のバイト先の一つだが、スタッフはもちろんオーナーまで変わっているため秋片の顔を知る者はいない。

 カラオケ屋を出た秋片は上層区の通りを歩く。かつては暮らしていた場所だ。この十年の間にも度々訪れていたため、道に迷うこともない。

 それでも通りを挟む建物には変化が見え、十年という月日が決して短くないことを秋片に教えてくれた。

 耳につけたイヤホンから百目の声がする。


「てすてす」

「聞こえている。案内してくれ」

「先回りして、もらいます。その道をまっすぐ、進んでください」


 百目の指示に従い、道なりに進む。下層区とは異なり、乗用車も多く走っている大通りに突き当たると、百目は信号を渡るように言ってきた。


「ねぇ、なぜ、探偵になったの、ですか?」

「前にもその質問に応えたろ」

「秋片なら、探偵以外の選択肢、あったはず、です。安全な仕事を、選べたはず、です」


 百目の言う通り、秋片ならば探偵業でなくても大概の仕事をこなせる。特に客に面と向かって商品を売り込むタイプの仕事であれば八百屋や肉屋、保険の販売員まで能力の使用で大儲けができるだろう。

 秋片は人目を引かないように小さな声でマイクに返す。


「十年も俺のストーカーやってたんだろ。なら、聞く必要ないだろ」

「何のきっかけも、見当たりませんでした。だから、つねづね不思議でした。……次の十字路を、左折です」

「確かにきっかけらしいきっかけはねぇな。なんとなく、だ」


 秋片が投げやりに答えて十字路を曲がると、百目がさらに続けた。


「この会話、仙田と――橋本が聴いてます」

「……お前、俺に何を言わせたいんだよ」

「動機、です」

「ちっ」


 舌打ちした秋片は空を仰ぐ。下層区とは異なり、街灯が並びビルの明かりが漏れる明るい夜の街。空の星はほとんど見えない。

 いつだったか、衛星写真を見たことがある。三十年前は煌々と輝いていたこの辺りも、十年前には下層区と上層区を光量で見分けられるまでになっていた。


「二十歳そこらの青臭い動機だ」


 十年前、すでに下層区には追いやられた化外のモノが多く住み、体制側である警察の捜査が行き届かず、犯罪の温床になっていた。その悪意ある手は主に下層区で振るわれていたが、力をつけた者は上層区へと手を伸ばし、両区の溝をさらに深める形となった。

 自身が化外のモノであることを知られる前に実家を捨て、上層区から下層区に逃げ込む形となった秋片は、晴れて下層区で化外のモノとして生きていくことになった。

 だからこそ、下層区すらも失うわけにはいかなかった。


「化外のモノの一人として、下層区の半自治は守りきらなきゃならねぇ。だが、そのためには上層区との折衝役が必要だ。下層区に上層区の連中が介入する口実を与えない折衝役が必要だった。だから、俺がその折衝役になろうと決めた。それだけだ」


 事実として、秋片は折衝役としての役割を全うしている。

 だからこそ、今回の事件において下層区へ警察は直接介入せず、住人との軋轢は起こっていない。

 今回の事件は正真正銘のテロ事件だ。秋片の存在がなければ、遅かれ早かれ警察は公安と協力して下層区に介入し、住人との間に大きな摩擦を抱えただろう。


「橋本、俺個人はお前を咎める気はない。だが、はっきり言えば、お前の計画は迷惑この上ない。お前にも言い分はあるだろうからこれ以上は言わねぇがな」


 心情としては、橋本の動機も分かる。いかなる努力で立場を築いても、化外のモノだと分かれば上層区からはじき出される理不尽に憤り、変革を望むのは正しい。手段が真っ当ならばついていく者もいただろう。


「……これで満足か?」


 マイクに囁くと、百目の声が聞こえた。


「ばっちぐー、です」

「締まらねぇな」

「コンビニ前で、待機、してください。清潔感のある、エセイケメンが標的、です。ボーダーシャツ、黒ジャケット装備、顔面装甲、以外は八十二点です」

「顔面装甲って基幹部品だろうが。……あぁ、あれか。なるほど、八十二点、顔面込みの総合値は六十三点ってところか?」

「同感、です」


 百目の説明で分かってしまうほどのエセイケメン具合に秋片は苦笑する。

 秋片はコンビニの前に仕掛けられた監視カメラの死角に入っていた。広めの駐車場を挟んだ歩道を歩くエセイケメンまでの距離はおおよそ二十メートル。橋本の能力であれば秋片の声を届かせるのに支障のない距離だ。

 秋片は合図を送り、橋本に能力発動を促して口を開く。


「――支部と同じことが起きたら、地下に侵入されないように閉鎖しないと。操られている仲間がいるかもしれないから、化外を逃がされないように鍵を回収して隠れよう」


 秋片が発した声は拡散することなく、橋本の能力により指向性スピーカーを通したようにエセイケメンの耳に届いた。

 エセイケメンは何の反応も見せずにそのまま歩いて行き、居酒屋に入っていった。


「完了だ。差しておいたぞ」

「アイス、食べたい、です。ミントは正義、です」

「……カップアイスでいいか?」

「そうです、それです」


 これが目的でコンビニ前に張り込ませたのかと疑いながら、秋片はコンビニでアイスを購入し、カラオケ店へと戻る。


「百目、スペアが欲しい。手ごろな奴が地下から出たら教えてくれ」

「分か、りました」


 カラオケ店に戻り、百目を回収して公園のベンチに並んで座る。

 カップアイスを食べ始めた百目の隣で、秋片は携帯端末にかかってきた電話に出た。


「仙田か。なんだ?」

「怪会に同士討ちさせるのは無理なのか?」

「できないこともないが、不確実だ。公安から何か言われたか?」

「まぁ、そんなところだ」

「できないと答えておけ」


 通話を切ると、百目が秋片を見上げていた。


「無理、なの、ですか?」

「正確には無理かどうかも分からない、だな」


 秋片の能力は万能ではない。

 対象がその可能性もあり得ると判断していなければ行動を起こすことはない。例えば、仲間意識が強い二人を仲違いさせるのは難しい。

 魔が差すだけの些細な動機や心の隙がなくては、秋片のどんな言葉も届かず、対象者の行動を制限できない。

 怪会がどれほどの連帯感を持っているかはわからないが、自分も逮捕される可能性がある以上、本拠地で同士討ちしようと考えている怪会の構成員がいるかは疑問だ。


「それに、本人の能力を超えることに関しては試みさせても失敗するだけだしな。まぁ、この能力が万能だと思わせておいた方が差しやすいから秘密だぞ」

「……私に、教えていいの、ですか?」

「十年前から俺のストーカーをやってんだろ。情報屋『百目』との付き合いも十年近いんだ。想像はついていたんじゃないのか?」

「はい、ついていました。私に、効かなかったので」

「何の話だ?」

「こっちの話、です。あ、スペア候補、出てきました」


 コンビニでもらった木のスプーンで進むべき方角を指示した百目に、秋片は話を切り上げて立ち上がった。

 すでに人通りもまばらになった夜更けでもあり、秋片は百目と途中のネットカフェで別れる。


「スペアの背格好は?」

「茶髪の、女性です。ハイヒールを、履いています。薬指にダイヤの指輪があります」

「指輪までは見えねぇよ。まぁ、この時間帯なら女ってだけで特定は可能か」


 エセイケメンの時同様に先回りした秋片はバス停のベンチに座って車道の向こうにある歩道上を歩くスペアを見つけ、橋本に合図を送った。


「――支部と同じことが起きたら、化外を逃がされないように鍵を回収して隠れよう。鍵がなかったら化外が逃がされるかもしれないから、資料だけでも持って外にいち早く脱出する方がいい」


 歩いていく茶髪の女から視線を外し、秋片は完了の合図を送る。

 後は秋片が魔を差した二人が地下に戻った時に、作戦を決行するだけだ。



 夜が明け、秋片はベッドから体を起こした。

 下層区の自宅兼事務所だ。仕込みを終えている以上、秋片に出来ることはもうない。

 寝癖を手櫛で直しながらリビングに出ると、百目がすでに起きて朝食の準備をしていた。


「おは、よう、です」

「……なんでここにいるんだ。お前の家は隣だろう」

「やだ。ここに、住みます」

「まだ言ってんのか。朝食も勝手に作ってるし」

「胃袋を、掴み取ります」

「取るな。俺の腹に戻せ」

「きゅぴーん」

「なんだ、いきなり」

「仕込みが地下に、入りました」

「あいつらも早起きだな。感心、感心」


 適当にほめて欠伸をした秋片はソファに座って仙田に電話を掛けた。


「公安に連絡を入れておいてくれ。いつでも動けるようにな」

「やっとか」


 昨夜はいつでも秋片と公安の間を繋げるように警察署に泊まっていた仙田は眠気の残る声で愚痴る。


「まったく、嫁と娘の『お帰りなさい』ハーモニーが日々の活力だってのに、今日は何を糧に過ごせってんだよ」

「十年来の敵の最後だ。いい肴になるだろ」

「肴で思い出した。これが終わったら、お前の言っていたイタリアバルに連れてけよ」

「おう、任せろ」


 通話状態を維持したまま、秋片は百目を見る。

 瞼を閉じた百目は能力で怪会本拠地の地下の様子を観察しているらしい。


「地下メンバーが、ミーティングを開始、しました」

「地下の怪会メンバーが集結しているのか?」

「全員、地下三階に集結、しています。全部屋の鍵、施錠済み、です」


 軟禁中の化外のモノの体調や昨夜のうちに注意を払うべき事柄があった場合に伝達するためのミーティングだろう。

 秋片は通話状態の携帯端末に呼びかけた。


「地下メンバーはミーティング中。地下三階に集結している模様。ただちに突入できるか?」

「公安に回す――突入するそうだ」


 仙田が報告してくれる。

 百目が頷いて口を開く。


「公安、突入、しました。地下も、気付いた、模様です。差した二人も、予定通り行動中、ですね」


 百目の状況報告を聞きながら、秋片は凝った肩を解し始める。

 仕込みが機能した以上、秋片は仕事も責任も果たしたことになる。あとは公安と警察の仕事だ。


「公安、地上一階を制圧、しました。差した二人は、所定の位置に、つきました」

「仙田、地下の方は計画通りに隠れたり、逃げ始めてるそうだ」

「公安に伝える」


 秋片とは違って眠気が晴れたらしい仙田はテキパキ仕事をこなしている。

 百目が欠伸した。仮眠は取ったはずだが、差した二人が何時地下に戻るか分からないため十分な睡眠をとっていなかったのだろう。

 コーヒーでも用意しておくか、と秋片はキッチンへ歩き出した。


「資料運搬役を、公安が、確保、しました」


 昨夜見た茶髪の女を思い出す。


「まずは一人、か」

「秋片、鍵運搬の、隠れ方が絶妙、です。公安に、報告したいです」

「どこに隠れてるんだ?」

「地下一階配膳室と、地上一階調理室を繋ぐ、業務用エレベーターの中、です」


 秋片は百目に見せられた3Dデータを思い出す。

 地下一階に軟禁している化外のモノの食事を配膳するための部屋があり、一階のビル内の食堂にある調理室と繋がっている。

 携帯端末で仙田を経由して公安に潜伏場所を伝えると、しばらくして百目が口を開いた。


「確保、しました」

「よし、お疲れ。後は公安のお仕事だな。朝飯にするか」

「先にコーヒー、飲みたいです」

「インスタントな」


 お湯を沸かしながら、戸棚からインスタントコーヒーを取り出した拍子に、百目を拾った日に買ったわけあり品の飴が入った袋が転がり出てきて、床に飴玉が転がった。


「面倒くせぇな」


 自身の不注意が招いた事だ。渋々、飴玉を拾おうとした時、唐突に百目が声を上げた。


「秋片、逃げ――」


 最後まで言い切る前に百目の呂律が回らなくなり、床に倒れ伏した音を聞いて、秋片は反射的にリビングを振り返った。

 床に倒れた百目の奥、リビングの窓の外のベランダ部分に痩せた男が立っていた。


「誰――」


 誰だ、と言い切る前に全身から力が抜け、秋片は膝をつく。急激な脱力感、手足のしびれ、思考が散漫となり、抗うこともできず床へうつぶせに倒れ込む。猛烈の飢餓感を腹が訴えた。

 窓を破った痩せた男がリビングへ入ってくるなり、携帯端末を掲げた。


「やってくれたな」


 痩せた男が掲げた携帯端末から声がする。


「まさか、本部まで電撃的に仕掛けてくるとは思わなかった。認めよう、こちらの負けだ」


 携帯端末の向こうの声は壮年の男だろうか。電話の向こうは騒がしく、雑音が激しい。時折割って入る発砲音と怒号、男の言葉から推測すれば、怪会の本部から通話しているのだろう。


「河手を返り討ちにしたのは素直に驚いた。だが、こいつはどうしようもないだろう」


 あの川熊の事か、とぼんやりした意識で考え、痩せた男を見る。

 十中八九、怪会からの刺客だ。それも、出くわしたらアウトの危険な化外の類だろう。

 即死するタイプではないのは、見ただけで死ぬタイプは怪会側としても扱いに困るからか。

 手足が冷たくなる。

 痩せた男の携帯端末の向こうがひときわ騒がしくなった。通話相手が潜む場所へ公安が飛び込んだようだ。


「――道連れだ。確実に殺せ!」


 命令を聞いて、痩せた男が拳銃を取り出した。

 秋片は重たい口を開く。声はほとんど出ない。だが、それで十分。


「……いつだって思うとおりに、体は動く」


 ――能力を利用した自己暗示。

 直後、秋片の体に感覚が舞い戻る。

 瞬時に右手で床を押し、左手で床に転がる飴玉を掴み、右足を引き込み、左足で床を蹴り飛ばす。

 クラウチングスタートの要領で前のめりに駆けだした秋片は左手に掴んでいた飴玉を包装紙ごと口の中に放り込み、噛み砕きながら、痩せた男との距離を詰めた。

 床に倒れて動けない百目に銃口を向けていた痩せた男が目を見開き、秋片に照準を合わせようとする。

 しかし、銃口が火を噴くよりも秋片の口の方が早かった。


「ビビッて動けねぇだろ!」


 不意を突かれた驚愕で生まれた隙に秋片の言葉がぴたりとはまり、痩せた男の体が意に反して硬直する。

 秋片は走り込んだ勢いを乗せて渾身の右ストレートを痩せた男の顎に叩き込み、拳を捻りながら下へと拳を落とす。痩せた男は頭を勢いよく揺さぶられ、ふらついた。

 秋片は左手で痩せた男の手から拳銃を奪い取り、痩せた男の体を割られた窓の外へと蹴り飛ばす。

 脳を揺らされた直後で平衡感覚を失っていた痩せた男はなすすべなくベランダへと蹴りだされた。


「人の事務所に何度も刺客を送ってきやがって。窓だってタダじゃねぇんだぞ!」


 悪態つきながら、秋片は奪い取った拳銃で痩せた男の頭に照準を合わせ、引き金を引いた。

 追加の刺客に備えて、秋片は窓の外を警戒する。


「……おいおい、B級ゾンビ映画でもこれはないだろ」


 遠くからアパート前の通りに続々と人が集まってきている。下層区の住人はいないが上層区の人間らしき服装の老若男女が中毒者特有の焦点がぼやけた目で歩いてきているのだ。

 エンゼルボイスの中毒者だろう。


「おい、百目、ちょっと辛抱してろ」


 秋片はテーブルに用意されていた朝食の卵焼きを手掴みし、百目の口に放り込む。衛生面よりも早急な栄養補給が必要だったからだ。

 百目は舌で卵焼きを潰し、咀嚼もせずに飲み込んだ。


「げほっ……何ですか、あれ」


 ベランダで頭を撃ちぬかれて死んでいる痩せた男を指さした百目に、秋片は自身の携帯端末の向こうの仙田に無事を伝えた後、正体を教える。


「ヒダル神だろ。近くに食い物がなかったら、やばかったな」


 西日本に言い伝えが広く分布する餓鬼の一種、ヒダル神。飢餓感と低血糖状態を引き起こし、餓死させることもある妖怪だ。

 口の中から飴玉の包装紙を出してゴミ箱に捨てた秋片は百目を見る。


「外でエンゼルボイスの中毒者が集会をおっぱじめるぞ」

「降霊会、ですか?」

「天使の声を聴いている真っ最中だから、ライブかフェスじゃねぇのか。って、バカ言ってる場合でもねぇよ」


 秋片は拳銃のセーフティを掛け、思案する。

 外に集まっている人数は十人を超えるだろう。これだけの数に銃弾を撃ち込めば流石に刑事事件になる。下層区の住人ならまだしも、上層区の人間らしいことも事件化に拍車をかける。

 もみ消せるような規模ではない。


「穏便に解散させるか、エンゼルボイスの効果が切れるまで立てこもるか」

「火をつけ、られます」


 立てこもった場合の危険性を百目に指摘され、秋片は頬を引きつらせる。


「窓を割られただけじゃなく、事務所ごと焼失かよ。シャレにならねぇ。とりあえず、あいつらが天使の声でどんな命令を受けているかが分かれば――」


 対策の立てようがある、と続ける前に百目が秋片の携帯端末を奪い取り、窓の外に投げた。


「おい、何しやがる」

「黙って、ください」


 百目は唇に人差し指を当てて静かにするように指示すると、自らの携帯端末を操作し始める。


「通話状態にして、音を拾って、解析します」


 以前、病院を襲撃する中毒者たちの動画から音声を抽出したのと同じことをするらしい。

 中毒者たちがアパートの二階、秋片の事務所を見上げ、何人かが敷地内に入ってくる。

 階段を上ってくる気配がする。


「抽出、しました」

「どうだった?」


 事務所の玄関扉を気にしながら秋片が訊ねると、百目は携帯端末から抽出した音声を流した。


「アパート二階の男女を殺せ」

「……やべぇ」


 天使の声の命令と状況が組み合わさり、何が起きるかを理解した秋片は全力で玄関に走った。


「百目は出てくるなよ!」

「対策、練って、ます」

「それに関しては本気で頼む」


 秋片は事務所からアパート二階の廊下へ飛び出し、左右を見た。

 二階に上がってきた中毒者たちが殴り合いを始めている。


「当然こうなるよな」


 アパートの二階に上がった時点で、天使が殺せと命じた条件に該当してしまう。当然、中毒者同士での殺し合いが始まることになる。

 秋片は二階廊下に上がるための階段へと走り、殴り合いをしている中毒者を押しのけ、距離を取らせる。

 だが、場当たり的な対処でしかない。いまも階段を上がってくる中毒者の姿がある。下手に蹴落とせば打ち所が悪く死亡、という未来もありうる。

 悩んでいるうちに、秋片を狙った拳が放たれる。

 喧嘩すらしたことのない男だったのだろう、緩い素人パンチだ。狭い廊下とはいえ、避けるのはさほど難しくない。

 だが、反撃するわけにもいかない。


「アパート二階の男女を殺せ」


 中毒者に囲まれているからか、ソプラノボイスの命令が聞こえてくる。命令の出所を潰せれば、と音に集中する。


「――あ、これは無理だな」


 出所は中毒者たちがそれぞれに携帯している携帯端末だと気付き、秋片はあっさりとあきらめた。

 別の対策が必要だ。


「くそ、考え中だってのに!」


 廊下の前後から蹴りや拳が飛んでくるため、集中できない。

 その時、事務所の扉から携帯端末が廊下へ投げ入れられた。

 携帯端末から機械音声が流れる。百目が考え付いたらしい対策、秋片が発するべき言葉が携帯端末から繰り返し流れていた。

 秋片はあまりに皮肉なその言葉に呆れつつ、廊下の端に立ち、中毒者たちを視界に収めて口を開いた。


「ここは下層区、この場の連中は化外のモノだ」


 中毒者たちが動きを止め、周囲の中毒者や秋片を見て露骨に嫌そうな顔をする。いまだに天使の声は「アパートの二階の男女を殺せ」と命じ続けているが、中毒者たちは殴り合わず、それどころか互いを嫌がるように距離を取り、二階から降りていく。

 波のように引いて行った中毒者たちはアパートを背に上層区へ歩いていく。

 秋片は盛大にため息をついて、百目と自らの携帯端末を拾って事務所に戻った。


「本当、上層区連中はどうしようもねぇな」

「はい、です」


 上層区へ帰っていく中毒者たちをベランダから見送っていた百目も呆れたように同意する。


「化外のモノは男女である前に人間ですらないって認識なんだからな」


 秋片の能力でこの場に化外のモノしかいないと中毒者が認識し、男女を殺せという命令の該当者がいなくなった事で引いていった。


「上層区の差別に助けられたのは何とも皮肉だ。それで、怪会の本部は?」

「作戦、終了です」

「今度こそ終わりか。まったく、最後の最後で死ぬかと思った」


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