第一話 闇市
「――辻斬りに遭って意識不明だと?」
秋片は電話の向こうに聞き返す。
苛立った声の仙田が答えた。
「そうだ。橋本が刃物で斬られて重傷、意識不明の状態で病院送りだ。俺との通話中だったから、秋片の事務所から帰ってくる途中だな」
「俺に電話を掛けるってことは疑ってるわけじゃなさそうだな。犯人は?」
「下層区で起きた事件だぞ。足取りすらわからん。だが、橋本は銃で応戦しようとした形跡があった」
「弾は?」
「全弾が残っている。利き手首が内出血していた」
発砲前に銃を叩き落とされたのだろうと正確な予想をしつつ、秋片は窓の外を見る。
「麻薬組織の仕業か?」
「断定はできないな。橋本の意識が戻れば詳しい話を聞けると思う。ともかく、注意してくれ」
「分かった」
通話を切り、秋片は部屋の隅に目を向ける。
事務所スペースの隅、バカに大きく育った観葉植物の影に体育座りをしている帆町がいた。
「そんなところでなにしてるんだ、お前」
「ん、落ち着く、ので」
「まぁ、いいけどよ。何か足らない物はあったか?」
帆町に割り当てた部屋を指さして尋ねる。
「歯ブラシ、歯磨き粉、ボディソープ――」
「その辺の雑貨はこれからまとめて買ってくる。どうせ振り込みに行かないといけないしな」
情報屋『百目』への報酬振り込みの面倒さを思い出してげんなりしつつ、メモ書きに必要なものを書かせる。
「一緒に連れて行きたいところだが、昨日、ここに来た刑事が辻斬りに遭ったと連絡が入った。帆町は留守番だ」
「ん、わかり、ました」
帆町はあっさりと頷き、どこからともなく取り出した携帯端末を操作し始めた。
ゲームでもしているのかと思ったが、どうやら仕事を探しているらしい。
「身元保証人には俺がなってやる。住所もとりあえずここでいいぞ」
「ありが、とう、ございます」
「おう、それじゃあ、頑張れ」
財布を掴んだ秋片は靴につま先を入れた直後、人の気配を感じて身構える。
事務所の外の廊下に誰かがいる。
しかし、秋片の警戒を余所に外の誰かは事務所前を素通りしたのが足音から分かった。
続いて聞こえるインターホンの微かな音。どうやら、隣の部屋に来客らしい。
珍しいこともあるものだ、と秋片は靴べらを手に取りつつ思う。
隣に人が住んでいるのは度々聞こえる洗濯機の音で知っていたものの、その顔を見たことはない。部屋に出入りする姿も見かけず、窓のカーテンは常に閉ざされていた。
再びインターホンの音が聞こえてくる。どうやら、隣の部屋は留守らしい。
秋片が事務所を出ると、隣の部屋の玄関前に立っていた男から声を掛けられた。
「あぁ、すみません、ちょっといいですかね?」
眼鏡をかけた、人のよさそうな男だ。ジャージの上にコートという珍妙な出で立ちをしていた。
「なんだ?」
扉に鍵を掛けながら、男を警戒する。コートの膨らみに違和感があった。
七十センチほどの棒状の何かを体に沿わせるようにして携帯しているらしい。ここが下層区である以上、護身用の武器は必須だが、長物を持ち歩くのは珍しい。
秋片の警戒を見て取ったのか、男は困り顔で続ける。
「ここの部屋にどんな人物が住んでいるか、知ってますか?」
「人が住んでいるのは知ってるが、姿を見たことはないな。中で死んでいても誰も気付かないんじゃねぇか?」
「あぁ、そうですか。ちなみに、このアパートの住人はこの部屋とあなただけ?」
「一階に一人暮らしの若い男が二人、カップルが一組住んでいる。いや、カップルの方は先月に出ていったんだったかな。管理人への連絡先が一階の郵便受けの横にあるから、連絡してみればいい」
「そうしてみます。どうもすみませんね」
低姿勢で男は一階の郵便受けへと向かっていく。
どうにも怪しいその動きに、秋片は廊下のベランダ越しに様子をうかがった。
郵便受けの横の連絡先に電話をかけていた男は、しばらくして溜息をつき、秋片の視線に気付いて顔を上げた。
「繋がりませんね。日を改めます」
「そうかい。最近は物騒だから帰り道には気を付けてな。あんたには要らん心配かもしれねぇが」
「ははは、こんなものは虚仮脅しですよ」
コートの上から護身用らしい長物を指さして笑った男は歩き去る。
秋片は男の姿が曲がり角の向こうに消えたのを見届けてから、改めて廊下を見る。
この狭い廊下において、男は常に長物を振り回せるよう端に立っていた。
「虚仮脅しねぇ……まぁ、棒術は血が出ない分、平和的かもな」
やはり下層区は治安が悪い、と再認識しながら、秋片はアパートの階段を下りる。
帆町が話していた足りない物リストのメモ書きを眺めつつ、闇市に向かう。
食料品や日用品、化外のモノの必需品などが揃う闇市は下層区の治安の悪さも手伝って密集することで自衛力を高めている。
ある意味総合デパートのようなもので、闇市に行きさえすれば大概のものが手に入る。銃や麻薬も扱っている分、上層区の総合デパートよりも品揃えがいいなどと皮肉交じりに言われるほどだ。
闇市で扱われている商品には上層区からの横流し品が含まれているため、質がいいものもいくらかはあるが、ほとんどは下層区で生産された粗悪品である。
上層区育ちの帆町が満足する物があるとは思えないが、もともとは秋片の金で買う以上文句を言わせるつもりはない。
闇市には人がごった返していた。ここでなければ物が買えないのだから人が集まるのも自然なことだが、中にはスリや置き引きを狙った犯罪者もいる。秋片は人に触れないように注意しながら闇市の中へと入っていく。
闇市は元小学校の校舎を中心に、周辺の民家が行政の許可も取らずに改築されて店舗となっている。
主に個人店であり、自作した商品を扱っている。何の肉を使っているのかわからない自家製ソーセージやら、チーズやらを商う肉屋。どこで仕入れているのかをはぐらかしてばかりの八百屋。干物ばかりが並ぶ魚屋。
惣菜弁当の販売を主に行う割烹屋、中華料理屋といった個人経営の飲食店の前を通り、秋片は中心である元小学校の敷地に入る。
おそらくもっとも人が多いだろう校庭で配給を行っている非営利団体のプレハブ小屋の前を横切り、秋片は元校舎を見上げた。
廃校となって十年以上経つこともあり、壁の塗装にひびが入っている。元が古い建物だが、学校の校舎は頑丈に作られているためまだまだ現役だ。
小学校の元校舎には各教室にそれぞれ店舗が入っており、上層区から横流しされてきた衣料品や雑貨などが売られている。ほとんどの場合、どこかのヤクザがバックについていたり、下層区をターゲットにした企業の直営店が入っている。
この元校舎で扱われる商品は下層区で購入できるものの中で非常品質が良い。上層区でも売れないことはない、といった品質のモノが並んでいるからだ。
上の階に行くほど高品質のモノが売られているが、最上階である五階の店はすべてヤクザが経営している。どうやって仕入れた品かは聞かないのが肝要だろう。
秋片は一、二階の店舗を回ってシャンプーなどを購入していく。化学製品は曲がりなりにも企業の直営店で買うのが長生きの秘訣だと心得ていた。
「全部で三千八百円です」
「現金で」
企業の直営店だけあって電子マネーでの決済も可能だったが、秋片は財布から千円札を四枚出してお釣りをもらう。企業系の店でなければ電子マネーが使えないため、小銭を増やしておきたかったのだ。
買い物を進めていた秋片は女性用服飾店の前で足を止める。
帆町の着替えも必要かと、考えての事だったが、ふと思う。
「……三十路男に服を買われても気持ち悪いか」
今度、帆町も連れてきて選ばせるよう、と考え直して秋片は別の店に向かった。
校舎から出た秋片は来た方角とは真逆に足を向ける。
こちらは化外のモノが購入する変わった商品を扱う店が連なっている。ろくろ首用の縦長枕は手書きの広告に曰く、寝違える割合が格段に減ると評判らしい。
他とは違う独特な雰囲気の店が連なっているこの区画には流石に人通りが少ない。下層区とはいえ化外のモノしか住んでいないわけでもなく、一口に化外のモノといっても特注品が必要な者はそう多くない。
秋片はアングラ感が漂う化外のモノ専門店の通りを抜けていく。
日用雑貨の類を買い揃えて重くなった買い物袋をぶら下げ、闇市の外れにある平屋建ての広々とした個人店舗の前で足を止めた。
看板にはデカデカと『喫茶ニャン亭』の文字が書かれている。
「はぁ、畜生が」
盛大なため息を吐いた秋片が覚悟を決めて一歩を踏み出した時、個人端末が着信を告げた。
「なんだよ。――『百目』か」
通話相手の表示を見た秋片は少し悩んだ後、店の入り口横に立って電話に出る。
「秋片だ。何か追加の情報か?」
「そだよー」
相変わらず軽薄な機械音声が続ける。
「上層区でエンゼルボイスをばらまいているのが大学生グループだって判明した。学生証のコピーを秋きんのPCに送ったから後で確認してちょ。あとあと、こっちが本題なんだ。今、喫茶ニャン亭の前にいるでしょ? 通話維持してね」
「……なんで通話を維持してほしいんだ?」
「そんなん決まってるにゃん。アッキーが例の挨拶をするところを録音し――」
容赦なく通話を切った秋片は携帯端末の電源を切り、手持ちのハンカチでグルグル巻きにする。ハンカチを巻いている間に遠隔起動されたらしい携帯端末が起動音を発し、ハンカチでくぐもった機械音声が「会話ブッチはひどいじゃんさー」と抗議しているが聞き流す。
「本当に質が悪いな、こいつは」
止めとばかりにポケットに携帯端末を入れた秋片は気合を入れ直して喫茶ニャン亭の入り口を潜った。
空調の効いたやや乾燥した店内の空気が秋片を迎え入れる。続いて感じるのは深煎りコーヒーの香ばしさと無数の猫の視線。
「いらっしゃいにゃー!」
お手玉で遊んでいた店主が立ち上がり、秋片を出迎える。
二十代半ばの女の姿をしているが黒い猫耳と尻尾が生えている。その耳と尻尾が飾りではないことを秋片はよく知っていた。
「ほらほら、みんなも一緒に、いらっしゃいにゃー!」
「にゃー」
店主に合わせて店中の猫が唱和する。
満足そうに頷いた店主は秋片を見て両手を上げた。
「今日の秋片はどっちのご利用かにゃー?」
猫の手を作った両手をこまねく店主に、秋片は視線を逸らしつつ答える。
「仕事で振り込みだ」
「にゃんにゃん、秋片、いまさらここの利用説明が必要かにゃ?」
「くっ……」
やはりごまかしは利かないか、と観念した秋片は右手を緩く握って頭の高さに上げてこまねき、この店のルールに従い合言葉を口にする。
「……に、にゃんにゃん」
「銀行のご利用にゃー。右手の奥へどうぞにゃー」
「いい加減にこのルールをどうにかしろ」
「嫌にゃ」
テへペロ、と店主が舌を出す。
この喫茶ニャン亭は店主猫元が経営する猫カフェと銀行が併設する特殊な店だ。入店時には招き猫をまねて右手を挙げれば銀行利用客、左手を挙げれば喫茶店利用客となる。どちらの場合でも「にゃんにゃん」と口にしなければ叩き出されるルールだった。
三十歳男が猫のモノマネで羞恥に染まりながらも利用せざるを得ないのは、この店が『百目』の指定する銀行だからでもある。
悪態つきながら仕切りの向こうにある銀行部分に入り、ATMを操作する。『百目』の口座を指定して金を振り込んでいると店の入り口が開く音がした。
「いらっしゃいませにゃー!」
「金を出せ!」
「ニャ? 貸出業務はやってないにゃ」
「死にたくないなら金を出せってんだよ! 早くしろ! 撃つぞ!?」
「強盗かにゃ? お客じゃないなら帰ってくれにゃ。営業妨害するなら祟っちゃうにゃー」
「ふざけんなてめぇ!」
どうやら銀行強盗らしい。
余所から流れてきたのか、上層区から落ちてきてまだ下層区のルールが分かっていないのか、どちらにしてもバカな奴だと秋片は憐れみつつ、振り込みを終える。
直後に発砲音が響き、続いて重いものが倒れるような音が聞こえてきた。
「は、ははは、馬鹿にするからだ! そ、そうだ、金」
仕切りから顔を出して覗き込むと、震える手で拳銃を握る男がカウンターに飛びついていた。
店主の猫元が立っていた位置の壁に真新しい赤い血痕がある。
心臓を撃たれて後ろに倒れ、壁にもたれてずり落ちた、そんな痕だ。
「おい、そこのオッサン、何見てんだよ! お前も死にたいのか!?」
秋片に気付いたらしい男が拳銃を向けてくる。
秋片は男を一瞥して、苦笑した。
「君は無関係の人間を撃てないだろ」
「――っ!?」
秋片の言葉に怯んだ男の指が引き金から外れる。
ど素人だな、と呆れる秋片は男に続けて声をかける。
「あんた、名前は?」
「な、名前? なんで? それどころじゃ――」
「なんでって、墓を建てる時に困るだろ」
「え?」
「――こんな輩、無縁仏でいいにゃ」
秋片との会話に割って入った声に、男が反射的に銃口を向ける。
しかし、引き金に指がかかっていない銃が牽制になるはずもない。男の横っ面を張り倒す強烈な猫パンチがさく裂し、打撃音が木霊した。
床に倒れ込んだ男のみぞおちに踵が振り下ろされる。
「危うく店の壁に穴が開くところだったにゃ」
ゲシゲシと追い打ちに踏みつけてくる猫元を見上げた男が驚愕で声も出ないのか、口をパクパクと開閉する。
銃弾が直撃したらしく、猫元の服の胸当たりが血に赤く染まっている。猫元は血まみれの服を鬱陶しそうに脱ぎ捨てた。
「お、ブラは無事だったにゃ。トップレスで接客するわけにもいかないからにゃ」
「な、おま、な、なんで?」
「下層区で金が集まる銀行を経営してる奴がまともな人間のわけがないにゃ」
「……まさか、化外?」
「正解にゃ。耳と尻尾を着けてるコスプレイヤーだとでも思ったのかにゃ? あとは地獄で考えるといいにゃ」
猫元が舌なめずりして男の心臓あたりを容赦なく踏みつける。
骨が折れる音がした直後、男から力が抜けた。
飽きっぽい猫のように男から興味の対象を真新しい血痕が付いた店の壁に向けた猫元が天井を仰いで嘆く。
「あぁ、クリーニング代がかかるにゃー。秋片、コーヒー飲んで行かないかにゃ? ちょっとでも稼ぎたいにゃ」
「死体の隣でコーヒーを飲めってか?」
「おねがいにゃー。なんなら、下着姿で給仕するにゃ」
「血だらけじゃねぇか。死体回収業者の手配はしておくから着替えてこい」
「ありがとうにゃ。じゃあちょっと店を頼むにゃ」
猫元が住居部分と繋がっているらしい戸口へ走っていく。
秋片は死体を抱え上げて裏口から外に運び出した。
業者に連絡し、死体の横に腰を下ろす。
「ここの店主は猫又でな、魂が九つあるんだよ。減った分の魂はお前みたいな馬鹿の魂を食って補給するから、実質不死身なんだ。喧嘩を売っていい相手じゃねぇんだよ」
もう必要がないだろう情報を死体に教え、地獄での考え事を無くしてやった。
闇市の喧騒が届いてくる。聞くともなしに聞いていると、裏路地の入口にワゴン車が停まった。
ワゴン車から出てきた金髪の男女は秋片を見て片手をあげる。
「秋片さんじゃないっすか。殺しは珍しいっすね」
「俺がやったんじゃねぇよ」
「分かってますって。猫元さんでしょ? お金を預けている身としては頼もしいすけど」
「うっひょー、綺麗に死んでるぅー」
死体を検分して感想を口にした金髪の女は両手を合わせてから担架に死体をのせる。
「そんじゃ、運んじゃうっすね。できたてほやほやの死体なので御代は結構っすよ。あ、こいつの骨とかいります?」
「いらねぇよ。赤の他人だ。名前も知らん」
「そっすか。んじゃ、もらっていきまーす」
ワゴン車に死体を載せた金髪の男女が手を振って去っていくと、裏口が開いた。
「コーヒーを淹れたにゃ」
「おう、ありがとよ」
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