天使と魔、あるいは教唆の魔薬
氷純
プロローグ
十八かそこらの小娘だ。手入れが行き届いた長い髪に日焼けした事のなさそうな白い肌、服も縫製がしっかりしたそこそこ上等な代物だ。すくなくとも、ここ下層区の住人にとっては、だが。
小娘の衣服に乱れはなく、周りに人もいない。となれば、考えられる可能性は限られる――
「おいこら、おクスリキメて天使の子守唄で昼寝とは言い御身分じゃねぇか」
秋片は小娘には近づかずにそう声をかける。
闇市で買ってきた食材が入った袋をがさごそ漁り、取り出したのはミネラルウォーター。蓋を開けて小娘の頭に中身の水を掛ける。
水の冷たさに意識が覚醒したのか、小娘が薄目を開ける。
「目が覚めたか? さっさと上層区へ帰んな。バカ男に悪戯されないうちにな」
「……お腹、空きました」
小娘の返答に、秋片は手元の食材入りの袋に一瞬意識を向ける。
「……お腹、空きました」
小娘、再度の要求。
どうやら、空腹で行き倒れていたと主張しているようだが、服装から見て上層区の人間が下層区で行き倒れているのは不審すぎる。
「それを俺に言ってどうする。帰ってママにでも作ってもらえ」
「帰る場所、ない、です」
「親はどうした?」
「土の下で、眠ってます」
「――ちっ」
舌打ちして、携帯端末を取り出す。
登録してある電話帳から目当ての名前を探しつつ、小娘に尋ねる。
「名前と住所は?」
「
「やっぱり上層区じゃねぇか。歳は?」
「十八、です」
「そうか。ちょっと待ってろ」
携帯端末の表示された番号にかけると、相手はすぐに出た。
「はい、こちら仙田」
四十過ぎの渋いバリトンボイスが怪訝そうに名乗る。
「秋片から掛けてくるなんて珍しい。どうした?」
「家出人の捜索願いが出てないか調べてくれ。名前は帆町花蓮、住所は――」
つい先ほど聞いたばかりの小娘の名前や住所を告げると、仙田は電話の向こうでパソコンを操作して確認したらしくすぐに返答してくれた。
「半年前に首を吊った製薬会社の重役一家の娘だな。思い出した。この会社、化外のモノを使ったテロ計画を企てた容疑で俺も捜査に入った。胡散臭い死に方だったが、事件性はない。なんだ、その娘がそこにいるのか?」
「路上で行き倒れているのを見つけた。引き取ってくれ」
「犬や猫じゃないんだ。引き取るわけないだろ。俺には愛する妻とかわいい盛りの娘がいるんだ。愛情に余分はない」
「仕事に愛は?」
「私情は持ち込まない主義だ。軽口叩いてないで、見つけたなら拾っとけ。それはそうと、お前の事務所に部下を向かわせている。依頼をしたいんでな。詳しいことは部下の橋本から聞け」
「は? 拾っとけってお前――切りやがった」
携帯端末をポケットに突っ込み、いつの間にか目の前で正座している小娘を見下ろす。
「しかたねぇ。行く当てがないなら俺の事務所に来い」
「おいしい、ご飯、ですか」
「独身男の手料理だ。期待すんなよ」
用意されかけたハードルを蹴り倒しつつ、帆町を連れて歩き出す。
空腹からの血糖値低下によるものか、ふらふらと頼りない足取りの帆町にため息をついて、秋片は買い物袋からのど飴を取り出した。
「これでも舐めてろ」
「ありが、とう、ございます」
闇市で売られていたわけあり品だけあって形が歪なその飴玉を口に入れると、帆町は少しだけ足取りがしっかりし始めた。
こんな飴玉一つでも案外効果があるのだな、と少し感心する。
通りの向こうに自宅兼事務所が見えてきた。二階建てのアパートで、二階にある角が秋片の部屋だ。
「……秋片探偵、事務所?」
表札を見た帆町が首をかしげて秋片を見る。
「探偵、ですか?」
「ヤクザかと思ったか? まぁ、たいして違いがねぇけどな」
自嘲しつつ、自宅兼事務所に入る。
来客に対応できるように中は掃除が行き届いている。肝心の来客はさほど多くないため、半ば暇つぶしで掃除をするせいで床はピカピカに磨かれていた。
「適当に座れ。これから来客があるんで飯は簡単に作る。文句は言うな」
「は、はい」
きょろきょろと事務所を見回していた帆町が思案の末に来客用のソファにちょこんと座る。
キッチンで蕎麦を茹で終えた秋片はシソとミョウガとハムを刻んで持って行った。
「ほらよ。具は適当に乗せとけ」
雑に切られたシソなどを差し出されても帆町は文句を言わずに蕎麦の上に乗せた。
「素麺の具、みたい、ですね」
「同じ麺類だろうが」
「お、同じ……?」
カルチャーショックを受けている上層区育ちに肩をすくめて、秋片は蕎麦を食べ始める。蕎麦の方は風味も豊かで素朴な味わいだが、自家製を謳っているハムの塩気が強すぎて台無しになっていた。
まぁいいか、と食にこだわりのない秋片はさっさと蕎麦を食べ終え、蕎麦湯でつゆを薄めて飲み干した。
「しばらくはここに泊めてやるが、早いうちに仕事を見つけて出て行けよ。下層区暮らしだけあって、俺は人ひとり面倒をみられるほど裕福じゃないんでな」
「は、はい」
食事を終えて食器を片付けているとインターホンが来客を知らせた。
仙田が電話で言っていた部下だろう。
出迎えるために玄関へ向かう。
扉を開けると、そこには若い女性が立っていた。下層区で違和感を抱かれないようにという配慮なのか、私服姿のその女性は懐からそっと警察手帳を出す。
「仙田から言われてきました。刑事の橋本です」
てっきりむさ苦しい男が来るかと思っていた秋片は面食らった。下層区は治安が悪く、いくら刑事とはいえ若い女性を派遣するような場所ではない。
「仙田の奴、何考えてやがるんだ」
思わず悪態つくと、橋本はむっとしたように眉を寄せる。
「心配ご無用です。こう見えて、それなりに腕は立ちますし、銃も携帯していますので。それに、依頼の説明をするにも現場にいた私が適任だろうという仙田さんの判断です」
「そうかい。まぁ入ってくれ。それと、下層区の人間を相手にするなら銃に期待するな。銃が根本的に効かない輩もいる」
「……化外のモノ、ですか?」
化外のモノ、三十年前、秋片が生まれた翌年にその存在が公に認められるようになった、妖怪や神、またはその血を継ぐ者たちの総称だ。
化外のモノの登場で世界は大きく変わり、日本もまた例外ではなかった。
事務所の中に橋本を案内しつつ、秋片は中に声をかける。
「帆町、悪いが席を外してくれ――って、いねぇし」
隣の部屋の扉がわずかに開いていたが、秋片が目を向けると同時に静かに閉じられる。
耳聡く扉が閉まる音を聞きつけた橋本が不思議そうな顔をする。
「えっと、部下の方ですか?」
「気が効く拾い物だ。無視してくれ」
「はぁ……」
納得いかないものの、自分の仕事には関係ないと判断したのか、橋本は追及せずにソファに座った。
「依頼の話をする前に、上層区で四日前に起きた殺人事件についてはご存知ですか?」
「化外のモノの能力を商品開発に役立てようって会社の重役が薬中に殺された事件か?」
「下層区に住んでいるのによく御存じですね。新聞って下層区でも購読できるんですか?」
「できねぇよ。ネットで見ただけだ」
「あぁ、ネットですか」
そもそも、いまどき新聞を紙媒体で読んでいる者は上層区にもほとんどいない。
今や絶滅危惧種となった新聞紙購読者であるらしい橋本はスクラップした記事のコピーを秋片に差し出した。
記事にはネットで読んだニュースよりも少ない情報しか書かれていない。初期の報道記事だからだろう。しかし、要点は押さえられている。
「それで、この事件がどうした? 上層区なら警察も大手を振って捜査にあたれるだろう?」
「依頼したいのは事件解決ではなく、事件の発端となった麻薬、エンゼルボイスについてです」
「エンゼルボイスねぇ」
帆町が倒れているのを見たときに最初に浮かんだ予想が、その麻薬エンゼルボイスの服用者というものだったのを思い出す。
最近出回るようになった麻薬で、煙草と同等程度の依存性しかなく、主な作用は現実感を強く伴う幻聴。天使の声と呼ばれるほどに心地よい幻聴が聞こえてくるらしい。
一般的に、麻薬は依存性が強いほど商品価値がある。煙草と同程度の依存性の麻薬など、リピーターをさほど期待できずすぐに忘れ去られると思っていたが、いつの間にか上層区にまでその魔手を伸ばしているらしい。
「そんなに流行するとも思えなかったんだがな」
「警察内部の意見も今回の事件が起きるまでは同じでした。こんなに流行するとはおもわなかった、と。まぁ、上層区は治安が良くて金銭的にも恵まれていますが、悩みや不安がないわけでもありません。依存性の低さから罪悪感も薄くなるのか、天使の声を聴いて癒されたい、励まされたいという人が多いようです」
「幻聴に癒されたいっていうのも病んでるな」
「昔から同人音声とかあるじゃないですか。求める物はあまり変わってないと思いますよ」
「麻薬と同列に語るなよ」
「ASMRとかは似てませんか?」
「何、ASMR愛好者なの? おすすめある?」
「紗々夜気トーカーズで検索してみてください。作業用BGMにいい感じです」
「あぁ、知ってる。あれ良いよなぁ。高校生の頃に図書館で勉強していた環境を思い出して集中できる。俺も仕事仲間から教えてもらって再生数に貢献してるわ。おっと、話が脱線したな。戻してくれ」
「はい。仲良くできそうで安心しました」
帆町がいる隣の部屋から少し物音がしたのが気になったが、今は仕事中だと意識を外す。
橋本は捜査資料らしきファイルを取り出した。
「エンゼルボイスの作用なんですが、どうやら、服用すると暗示にかかりやすくなるようです。上層区での殺人事件についても、犯人はこう証言しています。『天使様に殺せと命じられた』、と」
「暗示を掛けられて殺人に至ったのか。その手の暗示は理性が邪魔すると聞いたが」
「麻薬に手を出す人の理性に期待しすぎですよ」
「言われてみればそうだな」
もともと素質があったのだろう。天使の声とやらは背中を押しただけだ。
橋本は居住まいを正し、テーブルの上に封筒を置いた。
「依頼内容ですが、麻薬エンゼルボイスの製造流通元の特定をお願いします。前金は十五万円。製造場所、流通元の特定で報酬五十万円をお支払いします。期間は三か月、その間の雑費は請求してください」
「相場より安いな」
「警察でも捜査していますので」
「ほぉ、下層区を警察が捜査できるのか。そんなことができるなら俺に依頼なんかしないよな?」
基本的に、警察は上層区での事件しか取り扱わず、下層区における捜査は民間の探偵に依頼するのが常態化している。
それというのも、能力を危険視されて上層区からはじき出された化外のモノが下層区には多く住み、体制側である警察に対して非協力的だからだ。捜査をするどころか袋叩きに遭うこともしばしばで、上層区と下層区は相互不可侵という暗黙の了解すらあった。
そういった事情を橋本も心得ているのだろう、困ったように視線をさまよわせる。
「……申し訳ありませんが、これ以上の報酬を出すとなると仙田さんに確認を取らないといけませんので、日を改めてということになるかと」
「公僕が予算をケチるのは毎度のことだ。だから仙田もあんたを寄越したんだろう。何度も上層区と下層区を行き来すれば嫌でも目立つ。俺が送り迎えするわけにもいかない以上、行き来を最小限にするしかない。つまり、ここで依頼を受けるか否かを決めるしかない。そこまで読んでるんだよ、仙田の奴は」
相変わらず性格が悪い、と秋片は心の中で仙田の顔面に肘を打ち込む。
秋片はテーブルの上の封筒を手に取った。
「依頼は受けよう。何かわかったら連絡する」
「ありがとうございます」
橋本は連絡用にと電話番号を教えるとすぐに立ち上がった。
「それでは、仕事がありますので私はこれで」
「あぁ、気を付けてな。送ってやれなくてすまん」
「いえ、探偵と歩いていたらそれこそ目立って仕方がありませんから」
玄関から出ていく橋本を見送って、秋片は帆町のいる部屋に入った。
「おい、もう出てきていいぞ。って、掃除していたのか」
物置代わりに使っていた部屋だけあって、物が多いこの部屋を帆町なりに整頓していたらしい。人が過ごせる程度のスペースが確保してあった。
帆町が段ボールを壁際に積んでから振り返る。電気の付いていない薄暗い部屋の中、カーテン越しに入り込む太陽の光が帆町の輪郭を輝かせている。
物置の中で煌々とした輪郭をまとって佇む行き倒れ娘。要素が喧嘩していた。
「……ん、お仕事は終わり、ました?」
「まぁそんなところだ。ついでだから、この部屋をお前の部屋として使え。物置だが、女の子にはプライベート空間が必要だろ」
「ありがとう、ございます」
「おう。足りない物があったら言え」
明日にでも買い物に行くか、と予定を立てつつ秋片は帆町の部屋を後にした。
テーブルの上にある封筒を開けて中身を確認し、携帯端末を操作する。通り名で登録してある馴染みの情報屋に掛けた。
「――秋片だ。『百目』か?」
「へいほーい。あなたをいつでも監視サービス『百目』ちゃんでーす」
軽薄な台詞を喋る機械音声が流れてくる。
「そんで、秋片ちん、なんじゃらほいほい?」
「エンゼルボイスという麻薬について知りたい。いくらだ?」
「お得な知ってること全部乗せなら七万円の所を六万二千五百円でペラペラ喋るぜい」
「いつもの振り込みでいいのか?」
「そうだよー、あっきーの可愛い所が見てみたい!」
「クソが。払うから全部教えてくれ」
※
秋片探偵事務所を出た橋本は早足で上層区へと向かっていた。
「――はい。依頼は受けてもらえました。しぶしぶ、といった様子でしたが」
「よーし、これでエンゼルボイスの流通は止められるだろ」
通話相手の仙田の満足そうな声を聴き、橋本は秋片を思い出す。
三十歳ほどの凡庸そうな男だった。それなりに鍛えているのは体幹がまるでぶれていなかったことからも予想がつくが、麻薬組織を一人で調べられる凄腕には思えない。下手をすれば嗅ぎまわっていることを知られて口封じに殺されかねないくらいだ。
しかし、仙田はもう事件は解決したとばかりに気を抜いている。
「秋片はああ見えてできない仕事は受けない奴だ。任せておけば間違いはない」
「そう、ですか」
自分よりもよほど付き合いが長いはずの仙田が言うのなら大丈夫なのだろう。
「それじゃあ、私も一度戻りま――」
言い切る前に、道の先にたたずむ不審な人影を見つけて立ち止まる。
四十手前の眼鏡の男。ジャージ姿は下層区でさほど珍しい出で立ちではないが、その手に持つ日本刀はあからさまな異物だった。なにしろ、鞘から抜かれ、刀身が不気味に輝いているのだから。
「どうした、橋本?」
通話口から聞こえる仙田の声には返さず、ホルスターの留め金を外し、拳銃のグリップを握る。秋片に言われた、銃を過信するなというセリフが脳裏をよぎった。
「辻斬りですか? 時代劇の練習なら余所でお願いします」
「時代劇ならジャージは着ないでしょう。いや、練習中ならジャージなのかな。ともかく、俺は返り血で汚れてもいい服だからこれを着てるんだけども」
男はニコニコと人のよさそうな笑みを浮かべながら日本刀を片手でぶら下げ、無造作に歩いてくる。
橋本はすぐに拳銃を抜き、銃口を男に向けた。
「それ以上近づいたら撃ちます」
「様になってますねぇ。人を撃ったことがあるようだ」
「撃ちます」
「どうぞ、ご勝手に」
橋本が引き金を引く寸前、虚空に黒い何かが出現した。
「――っ!?」
慌てて一歩下がるが、虚空から現れたそれは橋本の手から拳銃を叩き落とし、空気に溶けるように掻き消える。
何が起こったのか分からない。分かるのは、自分が今、完全に無防備だという事実。
いつの間にか距離を詰めていた男が逆袈裟に刀を振るう。
自分の体から噴き出した赤い血が非現実的に感じられるのは、一種の逃避の表れか。
後ろに一歩、二歩と下がって本能的に体勢を立て直そうとするが、意思に反して体が力を失い、仰向けに倒れ込む。
男が橋本を見下ろしていた。
「……はて、護衛もいないというのは妙な気がしますねぇ」
橋本の顔の横にしゃがみ込んだ男はしげしげと橋本を観察し、何かに気付いた様子で橋本の上着の内ポケットをまさぐった。
取り出した手帳を広げた男が目を見開く。
「あ、あぁ、あちゃー、やっちゃった」
男は呟くと、申し訳なさそうに橋本に手を合わせる。
「すまない。人違いだった。止めは刺さないからひょっとすると生き残れるよ。本当にすまない。恨まないでね。これは返すよ」
身勝手なことを言って手帳を橋本の手に握らせた男は立ち上がり、周囲をきょろきょろと見回してから歩き出す。
「おかしいなぁ。この辺りにいるって聞いたんだけども」
痛みよりも生温かさを感じながら、橋本は意識を手放した。
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