第三節「二人の橋姫」

 この世界に秘密があるように。「橋姫伝説」にも秘密がある。


 長者の一人娘には、一人、幼い頃からの街娘の親友がいたのだ。


 親友の名前は、千影。


 千影は、私と瓜二つの姿をしていた。


 十八夜じゅうはちや観音堂かんのんどうでの断食の、三日目の夜だったと思う。


 空腹による憔悴しょうすいで、存在する己が夢か幻かも分からぬ中、私は、堂の天井に現れた気配に気がついた。


「愛姫様、お久う」

「千、影……」

「天命を、果たしに参りました。竜神様のお怒りを鎮める人柱には、愛姫様ではなく私がなりましょう」


 思い出すのは、童心でいられた輝かしい日々。この十八夜観音堂も、幼い私と千影の遊び場の一つだった。堂を駆けて床に足をめり込ませてしまったり。帳を破いてしまったり。建物を熟知している千影には、天井裏に忍び込むのも造作もないことなのかもしれない。


「私と愛姫様が同じ姿に生まれたのも、今日、この天命を果たすためだったのでしょう」

「天、命?」

「ここが、私と愛姫様の宿命を交換する場所となるのも、あるいは天の必然だったのでありましょう」

「千影、何を?」

「だから、交換、ですよ。竜神様の御心は、私の命で鎮めます。代わりに愛姫様は、街へと出てください」

「それは、できない。千影が死んで、みんなが生きるなんて、おかしいもの」

「誰か一人が失われ、多くが生きる。その世界の道理を覆す術を、私たちはまだ持ちません。だったら、『つなぎ』を定められた愛姫様の方が『先へ』と生きるべきです」

「『つなぎ』って?」


 ああ。どこかで、私は受け入れ始めている。


「生きて、子をなしなさいませ」


 あるいは全ての世界のために。ここで私は、千影と宿命を交換して、「つなが」なくては。情念はなくとも、それが今の私と千影にできる全てだと、どこかで分かってる。


「生まれながらの体と心のあり方で、私は子を産むことができません」


 私は、お腹が空いていて。


 天井からふわりと舞い降りた千影を抱きしめて、耳元に吐息を零した。


「ごめん、なさい」


 栞の命を置いて。


 堂の外へと飛び出した私の背中に、千影が言葉をかけた。


「ここから先は『宿命』ではなく『運命』。運ぶ命、運んでみせる命です。どうか、ご健闘を」


 こうして、私は「日常」へと逃避した。


 これが、『橋姫伝説』の影の物語。


 光があてられて紡がれた正史に対する、影に息づく物語。


 本当にあったのか、なかったのかも知れぬ、物語の隙間に浮遊する『橋姫影物語』である。


 石碑の前で、栞と共に短く黙祷もくとうし。


 並んで、刻まれている文章に目をおとす。


 伝説そのものに加えて、石碑が立てられた由来が記されていた。



―――


●橋供養の石碑は、長町の伝説である橋姫を供養するために、現在の根岸町にあった木場に働く人々が藩政時代の文政6年(1823年)に建立したものと伝えられていること


●時が流れ、広瀬橋たもとで営業してきたそば屋の家が石碑と橋姫祠を預かり、長い間祭祠を執り行ってきたこと


●その後、都市計画道路によってそば屋は移転する運びとなり、昭和57年(1982年)に仙台市に橋姫明神社と橋供養碑、そして永町橋の礎石を寄贈したこと


―――



 といったこれまでの経緯れきしを私たちに伝えていた。


「何か感想は?」

「感想、というか感慨。私は、橋姫様を愛しいと思う」

「愛しいって何?」

「誰かを助けたくて、自分の身を捧げたということでしょう。とても、『強い』ことだと思うもの。いいえ。『強い』よりも先の何か。上手く、言葉にできないけれど」


 栞は、自分が千影であったことを思い出した様子はない。純粋に、今の世界に生きる七宮栞としての感慨ということだろう。


 私は、栞をくすぐるように言葉を編んだ。


「橋姫様の気持ちは、何処へ行ってしまったんだろう?」

「浮遊してるんじゃない?」


 栞が紡ぐ言葉は朗らかで裏表がなく、本当に心でそう思ってることを伝えてきてるようで。


「浮遊って?」

「この辺りに」


 栞が、宙に向かってくるくるとてのひらで円を回してみる。


「ふむ」


 これが、1996年の初夏の話。私と栞は言葉と言葉をリボンで結んでいる。


 飾っておくだけじゃなくて、バースデープレゼントみたいに空に投げたら面白いのに。そんな想いが私の心に巡った。

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