第二節「碑文への逃避行」
バスの中で、私の隣に座っている栞の横顔は、母親を信頼して眠る赤子のように穏やかだ。「あの日」以来、千影としての栞は私の前に現れていない。それゆえ、私が橋姫様であったという記憶も、私だけが抱いている幻めいて感じられてしまったりして。
バスに揺られていると、意識が遠くへと漂っていく。広瀬橋の碑文には、今日にいたる前に私一人で既に一度訪れている。
仙台は一級河川、「広瀬川」の「広瀬橋」に伝わる『橋姫伝説』について少し。碑文には、ざっくりとはこのような
―――
『橋姫明神由来』
藩政時代。
この地に初めて永町橋――今の広瀬橋を架けることになったのだが。
長い雨が続き、広瀬川は荒れくるい、橋を架けようとしても架けることができなかった。
これは竜神様のお怒りに違いない。
いつしか、誰言うことなく信心深い若い娘を人柱にしないと橋は架けられないという噂が広まって。
その時。
長町根岸(百代の里)の長者の一人娘が「私が参ります。」と申し出た。
娘は儀式に従って
祈りの声と
すると川に光が射し、辺りが金色に包まれた。
大水は見る見る間に引いて、無事に橋を架けることができた。
交通の
日常を生きる街の人々の息遣いの中で。
娘は「橋姫」として、今も地元で供養が行われている。
―――
広瀬川を訪れ、碑文を読んでも私の自覚は揺るがなかった。私は、「前の世界」でここに記されている「長町根岸(百代の里)の長者の一人娘」に違いなかった。前の世界での名前は、愛姫。
今一度、栞と、千影と共に碑文を目にすることがあれば、何かが変わるのだろうか。私と栞の間に結ばれていたリボンのようなもの。今はほどけかけてしまっているようなその真紅の
荒町でバスを降り、坂を下り、
この辺りを市電が通っていたというのは、この世界での父と母から聞いていたけれど、私が生まれた時には廃線になっていたので、私に実感はない。
今では、地名と標識にだけ存在した名残が残っている。
コンクリートで固められた舗装路を、栞と並んで、一歩一歩、歩いて行く。
やがて水の匂いが鼻をくすぐり、広瀬川が近づいてきたのが分かる。
そのまま、私と栞はごく自然に広瀬橋に踏み入れた。橋を超えて向こう側が、かつての世界で私が生きた長町である。
橋の真ん中で
激流になったなんて信じられないような、穏やかで優しい流れから、透き通った水の香りがほのかに立ち上っている。
街の日常は、全てを祝福しているかのよう。
その時、一陣の風が吹いて、橋の上の私たちを包んだ。
揺れる髪が撫でる栞の横顔に、静かに祈りを捧げながら、私は。
――犠牲になったのは、あなただ。
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