第四十話 散冴

「うがぁっ」

 言葉にならないうめき声とともに片膝をついたのは李だった。右腕を押さえた左手の指の間からは赤黒い血が流れ落ちる。

 まだ白い煙が残るなかをラファは駆け出し、床に転がっていた拳銃を蹴りだした。音を立てて滑っていく黒光りした塊を拾い上げたのは御園だった。

「今度は間に合ってくれてよかった。助かりましたよ」

 散冴が大城たちの後ろから小走りに近づいてくる御園へ声を掛けた。

「二度もヘマはしねぇよ。防犯カメラでこいつらが部屋を出て行くのを見てたからな。それにしてもお前さんへの差し入れが役に立つとはな」

 御園は右手に握ったままの拳銃へ視線を落とした。

 予想もしていなかった男の登場に、大城は腰に差したトンファーへ手を伸ばす。

「まだ仲間がいたのか」

「なんだ、俺のことを知らねぇのかよ。お前らが殺した赤池の相棒だよっ!」

「け、警察……」

 御園の言葉を聞いた新井が壁の方へ後ずさりしていく。それを横目で見た大城が苛ついた声をあげる。

警察サツだからといってびびるな! ほかに警官なんてどこにもいない。こいつが単独で動いてるなら、ここでっちまえばいい」

 新井を一喝すると両手に持ったトンファーで散冴へ殴りかかった。

 李も雄たけびを上げると右腕を押さえたまま、長い脚でラファへ回し蹴りを放つ。


「南条さん、彼女を頼みます」

 めぐみを突き飛ばすようにして南条へ押し出すと、大城の一撃を左腕で受け止めた。硬い音が響き、散冴は顔をゆがめた。

「そりゃそうだな。あれで無傷なわけはない」

 大城が構え直し、片頬を上げる。

 散冴は無言で山高帽を壁際に投げた。

「抵抗を止めて武器を捨てろ! さもなくば発砲するぞ」

「御園さん、こいつらはおとなしく従ったりはしませんよ。それよりも応援を要請して下さい。ここは私たちで食い止めます」

 視線を大城へ向けたまま散冴は叫んだ。黒革の手袋をはめたままの左手を顔の前に掲げて構え、右足を後ろに引いて軽くステップを踏み始める。


「わかった」

 御園は拳銃をコートのポケットに入れ、代わりにスマホを取り出した。

「させるかぁ!」

 右手から血を滴らせた李が御園へ襲い掛かる。

 その斜め後ろから、ラファが低い体勢で肩から当たった。弾かれたように李は壁際へ飛ばされる。

「それはこっちの台詞だよ」

 ラファは言い捨てるとすぐに起き上がり、腰を落として両手を広げて構えた。

 顔をしかめた李もゆらっと立ち上がる。怒気をはらんだ両目をラファから離さない。

我会杀了你ぶっ殺してやる

 二人がじりじりと距離を詰めていく。

 先にラファが仕掛けた。

 両手で李の脚を取りに行く。そこへタイミングよく李が前蹴りを合わせた。鋭い蹴りがラファの両手の間をすり抜け、胸に突き刺さる。

「ぐほっ」

 せき込みながら後ずさりしたラファへ、間髪入れずに李の回し蹴りが襲う。ガードしたラファの太い上腕部に小気味いい音を立てて当たった。

 よろけたラファがいったん下がり呼吸を整える。

 その間に李は左手と口を器用に使って傷口をハンカチで縛った。

 ふたたびラファが間合いを詰めていく。だが、飛び込める距離まで近づく前に李が長い脚で蹴りを放ち、けん制した。

 ラファが入ってこれないと見るや、李が攻撃に転じた。右からの回し蹴りをおとりに大きく踏み込み、右足を軸に体をひねって左の横蹴りを放つ。

 ラファは胸の前で両腕を交差させて蹴りを防御したが、二、三歩後退あとずさった。手を軽く振り、肩を回して構え直す。間合いを一気に詰めて低い体勢で飛び込んでいく。

 李の間合いに入った所でラファが体を起こした。彼の頭を狙った右回し蹴りは横腹に当たる。顔をしかめたラファだがそのまま李の足首を左腕で挟み込んだ。

 片足を取られた李は、抜け出そうとして残った左足で床を蹴り上げラファの顔を狙った。しかしそれもラファが腕を立てて防ぐ。

 すばやく左足をつかんだラファは、李の両足首を脇で固定した。そのまま李を持ちあげるようにして自らが軸となり回転を始める。

 一回転、二回転。床に背をつけて滑っていた李の体が浮いていく。

 回転を増すごとに早くなり、もはや李は足をつかまれたまま宙を回っていた。

 五回転を越えたところでラファが両手を離した。

 李の体が壁に向かって飛んでいく。鈍い音を立ててぶつかると起き上がることはなかった。

「ラファ君、これ」

 見守っていた南条が手錠を放り投げた。

 さきほどまで自分がはめられていた手錠を受け取ると李に近づいた。赤く染まった龍のタトゥーに手錠をかけ、後ろ手に拘束する。そのまま壁にもたれると大きく息を吐き、ゆっくりと床へ腰を下ろした。



 一方、散冴に相対する大城はかなりの使い手だった。

 トンファーを腕の一部のように扱い、防御では盾代わりに、攻撃のおりには棍棒のように襲い掛かる。棒術ほどではないものの、その攻撃範囲は広い。

「防いでばかりじゃ俺を倒せない」

 大城の挑発にも表情を変えず、小刻みに足でリズムを取っている。

「時間稼ぎのつもりか」

 大城が右手をしならせて横からの打撃を繰り出した。手首を返し、トンファーが伸びてくる。

 上半身を後ろに逸らして避けようとした散冴だったが、距離感がつかめなかったのか、顔の横まで左手を上げて防いだ。その衝撃に顔がゆがむ。

 続けざまに襲ってきた右からの攻撃は右に体を開いてかわした。

 大城は空を切ったトンファーをすぐに持ち替えて散冴を突く。それを左手で外へ弾くと、散冴は右のストレートを伸ばした。

 大城は前腕に沿わせたトンファーを盾にして拳を防いだ。攻撃したはずの散冴が右手にダメージを負っている。

「お前さえ首を突っ込んでこなければ、何も問題はなかった」

 大城は右、左と続けて殴りかかる。

 散冴は左右に体を動かし、後ろへステップしてかわす。それを大城が攻撃を続けながら追った。渡り廊下の窓際まで詰めると大きく踏み込んでトンファーを振るう。

 すんでのところで散冴が回り込むと、大城の一撃は勢い余って窓をたたき割った。粒状になった強化ガラスが床に散らばる。

 枠だけが残った窓から吹き込む風が二人の頬を撫でた。

 大城は足元に転がっていた黒い山高帽をいらだたしげに踏み潰す。

 散冴の顔色が変わった。


「なぜそうやって、やる必要のないことをする!」

「楽しいから、とでも言えば満足か」

 いきどおる散冴をあしらうように、大城は片頬を上げた。

 距離を取りながら、散冴はステップを踏み上体を前後左右に揺らす。

「お前らは他人のことを考えない。誰かを苦しめて笑っているような奴を私は許せない」

 そう言うと一気に間を詰めた。

 大城が右からの攻撃で迎え撃つのをしゃがみ込むようにしてかわすと、手袋をはめた左拳をあごへ目がけて下から突き上げる。

 それを左手のトンファーで防いだ大城は、散冴の頭を目がけて右のトンファーを振り下ろした。

 散冴もすぐに左手を掲げてはじき返し、また後ろに下がり距離を取る。

 大城はゆっくりと間合いを詰めていく。

「きれいごとだな。お前だって俺と同じ、裏社会の人間だろうが」

「あぁそうさ。だから私は理不尽な法なんかよりも私自身を信じている」

 散冴は手袋を外した。

 鈍色にびいろに輝くステンレスでかたどられた左手が現れる。

 右足を一歩前に出しサウスポースタイルに変えた。


「サンザ君はもともと左利きだったのかな」

 南条のつぶやきも固唾かたずを飲んで見守るめぐみには届かない。

 大城が仕掛けた。右手を振って手首を返す。

 伸びてきたトンファーを、散冴は大きく後ろにステップしてかわした。

 畳みかける大城は左手をしならせる。これも散冴は後ろに動いて避けた。

 さらに右から迫るトンファーを、その場で膝を曲げて沈み込んでかわすと、散冴は反動をつけて飛び上がるように大城の懐へ入り込んだ。

 大城の左手が散冴の頭へ打ち下ろされる。

 散冴は体を開き、右の前腕でトンファーを受けた。鈍い音がするのにもひるまず、腰をひねり戻す。


 体重の乗った鈍色の左拳が大城の顔へ一直線に進む。


 何かが砕ける音とともに大城が後ろへよろめいた。

 間一髪で防いだ右手のトンファーが真っ二つに折れている。短くなった棒きれに目を落とすと床へ投げ捨てた。渡り廊下の端でラファに手錠をかけられている李へ目をやる。

「どうやら俺に勝ち目はないようだな」

 残ったトンファーも放り投げると、ポケットから煙草を取り出した。火をつけてゆっくりと紫煙をくゆらす。

 散冴は右手をだらりと下げ、大城をじっと見つめる。


「あっ」

 声をあげためぐみが走り出した。その先には逃げようとしている新井がいる。

 追いついた彼女は後ろから蹴り倒した。

「うわぁ」

「逃げられる訳ないでしょ! もとはといえばあんたが一番悪いんだからね」

 はいつくばっている新井をめぐみが見下ろして一喝した。

「怖ぇ」

 床に座ったままのラファがつぶやく。

「あれ、大城がいないよ」

 新井に手錠をかけた南条が叫んだ。その言葉通り大城の姿はなく、吸いかけのタバコだけが落ちていた。傍らでは散冴が床にうつ伏せで倒れている。

「散冴くん!」

 めぐみが駆け寄る。

 体を起こそうとした散冴はガラスのない窓を指さした。

「奴はそこから……」

 めぐみは手を貸して仰向けに抱きかかえた。彼の青いシャツの左胸には濃紫の染みが広がっていた。

「もう、無茶するから……」

「すいません。でも二人が無事でよかった」

 散冴は彼女の腕の中でゆっくりと目を閉じた。

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