第十六話 奪還

 新宿区役所を通り過ぎたところでタクシーが停まった。

 先に降りたラファが辺りを見回す。散冴はスマホを手に立ち止まる。

「あの信号を右ですね」

 歩き出した散冴のあとをラファは黙ってついて行く。

 時折スマホに目をやりながら新宿駅から遠ざかり、せまい裏通りへと入っていった。


「どうやらこの建物のようです」

 ラファへ見せたスマホの画面には、赤い点滅と重なるように青く点滅しているポイントがあった。

「この青は私たち、赤が鮎川さんのスマホに取り付けたGPS発信機です」

「どこにいるんですかね」

 ラファは目の前に建つ古い雑居ビルを見上げた。二階に掲げられた看板にはセーラー服を着た若い女性の写真が、三階にはショッキングピンクで書かれた店名がある。一階はシャッターが閉まったまま、四階は明かりが点いていない。

 そのまま中へ入ろうとしたラファの腕を散冴の右手が掴んだ。目顔でさした方からスカジャンを着た金髪の若い男が歩いてくる。

 二人は鉄骨階段の陰に隠れた。

 男は両手にレジ袋を下げ、彼らに気づくことなくビルの中へ入っていく。

 散冴たちが様子をうかがいながら後を追うと男の姿がない。動いていたエレベーターの表示ランプが一番上の五階で停まった。

「行きましょう」


 三階でエレベーターを降りた二人は非常口から外へ出た。

 音を立てないように鉄骨階段を上っていく。

 五階の扉を細く開けて様子をうかがう。エレベーターホールに人の気配はない。

 中へ入ると何も書かれていない鉄扉が一つ。看板もない。

 散冴の合図で再び外へ出た。

 さらに階段を上る。屋上の手前には一メートルほどの高さの格子扉があったが、それを乗り越えた。

 道路に面した方から明かりが漏れている。

 上から覗き込むとバルコニーが見えた。


「行けますか」

「オゥケィ」


 散冴が脱いだロングコートをロープ代わりにして、ラファがロッククライミングのように壁を降りていく。半袖からのぞくラファの上腕に血管が浮かぶ。

 慎重に降りながら右足を下へと伸ばした。

 バルコニーにあったエアコンの室外機につま先が触れる。

 降り立ったラファは顔を上げて親指を立てた。

 見下ろす散冴の顔にも笑みが浮かぶ。

『部屋の様子は分かりますか』

 すぐにLINEのメッセージが届いた。

 窓にそっと近づき中をうかがう。 

『彼女は縛られてる。ヤバい。男が四人』

『窓のカギは?』

『掛かっていない』

『了解。待機してください』

 メッセージを打ち終えると、散冴は階段へと戻る。

 五階のエレベーターホールへ来るとスマホを取り出した。

『今から部屋へ入ります。あとの判断は任せるので、彼女の救出を最優先に』

『OK』

 散冴は山高帽をかぶり直すと扉の前に立った。



「デカいなぁ」

 あらわになっためぐみの乳房を見て、克己がはやし立てた。

 上林はブラジャーの肩紐をナイフで切る。

「もぉ止めて!」

 また彼女の頬が張られた。その目には涙が浮かぶ。

 ナイフを後ろポケットにしまい、ジャケットを脱いだ上林が彼女の腹の上にまたがる。征服した者の目でめぐみを見下ろし、左の口角を上げた。そのままブラジャーに手を掛けようとしたときだった。


 入口の鉄扉を叩く大きな音が三回、ある種の緊張感が満ちていた室内に響いた。

 四人の男の視線が一斉に扉へと注がれる。

 男たちは顔を見合わせるとけげんな表情へと変わった。

 再び扉が叩かれる。

「新井総合病院からの使いの者です」

 扉の向こうから男の声が漏れ聞こえてきた。

「ここを使うことを知っているのは組長オヤジ若頭カシラだけのはず……」

 つぶやいて立ち上がった上林が、アキラにあごで指図した。

 アキラはうなずくと扉に近づき鍵を開けた。

 入ってきたのは黒いコートを左手に掛け、山高帽をかぶった男だった。


「なんだ、てめぇは」

 声を荒げたワタルが詰め寄る。

 それには取り合わず、散冴は男たちの顔を端から一瞥いちべつしていった。

 首を回し終えると少し戻し、三番目の男へ近づく。

月翔つきかけといいます。あなたがこの件のリーダーですね」 

 上林も一歩前へ出た。

「名前を聞いてわかったわ。おかしな帽子をかぶった山高やまたかと呼ばれる裏稼業の男というのがお前か」

 散冴は薄い笑みを浮かべた。

「新井病院の使いだといったな。何の用だ」

「その女性を返していただきたい」

 後ろ手に縛られたままセーターだけを身につけ、下着をあらわにしているめぐみへ散冴は視線を落とす。彼女と目が合うと軽くうなずいた。

「バカなことを言っちゃ困るな。こっちは、その新井院長から頼まれてんだ」

「新井院長は一切関係ないと、さきほどおっしゃっていましたが」

「何だとぉ?」

 眉間にしわを寄せた上林が散冴をにらみつける。


「私たちも院長から依頼を受けていましてね。すでに彼女からデータを入手したこと、彼女の身に何かあったら各マスコミへ公表するのを条件に取材を中止したことを報告しました。そのときに、どうやら彼女が拉致されたようだとお話したら、私は一切知らない、関係ない、と慌てていましたが」

「あのクソたぬきめ」

 上林が横を向き舌打ちをした。

「そういうことなので、あなた方が報酬を手にすることはありません。ここは穏便に彼女を返していただけませんか」

「そうはいかねぇ。あのじじいから金をふんだくれないなら、俺たちは別の方法で稼がせてもらうよ。こんな上玉じょうだまが手に入ってるんだからな」

 めぐみの体をあらためて値踏みするように上林が視線を這わせた。


「分かったらとっとと帰れよ!」

 克己が声を張り上げた。

「嫌だと言ったら?」

 散冴は表情を変えない。

「てめぇ、いい気になってんじゃねえぞ」

 アキラが彼の胸ぐらをつかんだ。

 その手首を右手で上からかぶせるようにつかみながら、散冴は体を左にひねる。

 バランスを崩したアキラは手首をキメられてうめきながら片膝をついた。


 それが合図かのようにバルコニーの窓がゆっくりと開いていく。


「この野郎!」

 振りかぶるように殴りかかってきた克己にコートを投げ、がら空きになった腹へ鋭い前蹴りを放つ。

 腹を抑えて後ずさりした克己と入れ替わるように突っかかってきたワタルには、手首をキメたままのアキラを投げ飛ばした。

 ひるんだ所へ素早いステップで横蹴りを入れる。

 きれいに伸び切った右足にはじかれ、ワタルは照明の三脚へ背中から倒れ込んだ。後ろで束ねた長い髪が床に広がる。

 いつの間にか後ろへ回り込んだ克己が、力任せに散冴を羽交い絞めにする。抜け出そうともがいている腹をめがけて、頭を下げたアキラが突っ込んだ。

 両腕を取られたまま、散冴は飛び上がるように両足をそろえて蹴りだす。

 カウンター気味の一撃を金髪に喰らって、アキラは前のめりに膝から崩れ落ちた。


 男たちが散冴に気を取られている間にラファがめぐみへ近づいた。

 彼女の体を起こしロープをほどこうとしている。

「おまえはあのときの……どっから入ってきやがった!」

 羽交い絞めをしたまま大きな声をあげたのは克己だった。

 ラファへ気を取られた隙をついて、散冴は腰を落としながら前へ巻き込むように克己を投げた。


 その声に上林も反応した。振り返ると開いていたバルコニーの窓に気づき、みるみる顔が紅潮していく。

「なめた真似しやがって」

 そう吐き捨てると飛び出しナイフを取り出した。

 大股おおまたでラファの背後へ近づいていく。

 ロープをほどくのに集中していてラファは背後の上林に気づかない。

 めぐみの目に光るやいばが映った。

「危ないっ!」

 彼女が叫び声をあげる。

 ラファが振り返ったときには、もう目の前にナイフが迫っていた。


 そこへ黒い影が飛び込む。


 上林が突き出したナイフの先には散冴の左手があった。

 黒革の手袋をしたまま手の平で受け止めている。

 山高帽のつばが触れそうな距離で二人が顔を見合わせた。

 唖然あぜんとして目を見開く上林に、散冴は悠然ゆうぜんと微笑んだ。

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