第二十二話 逆恨み
改札を抜けて地下道へ出た。天井から下がる案内板の時計は二十時五分を表示している。
エスカレーターは黙々と人々を地上へ押し出していた。
生温かい風が散冴の足元から吹き上げていく。少し浮きあがった山高帽を右手で押さえた。
交差点に立つと、高層マンションやショッピングセンターが威圧するかのように見下ろしている。古くからあった町の面影はわずかしか残っていない。
それでも時折ながれてくる潮の香りとともに、
家路を急ぐ人の流れに沿って大通りを渡る。
左へ曲がると、運河沿いに建つマンションの群れが見えてきた。
一人、また一人と明るいエントランスに飲み込まれ、道行く影が少なくなっていく。
ひとり残された散冴は向こうから歩いてきたスーツ姿の中年男性とすれ違った。
と思った、そのとき。
「静かにしろ」
スーツの男が彼の背中へジャケット越しに硬い何かを押しつけた。
すぐに見知らぬ男たちも両脇へ駆け寄る。
「そこを曲がれ」
促されるまま横道へ入ると見覚えのある黒いミニバンが停まっていた。
塾帰りなのか、自転車に乗った小学生がこちらへ向かってくる。
男たちに近づくと不思議そうな視線を送り、両側をはさまれた散冴と目が合った。
彼が微笑みかけると、男の子はそのまま走り去っていく。
「乗れ」
後部座席の中央へ押し込まれる。
スーツの男はもう拳銃を隠そうともしない。
「
ミニバンが静かに動き出した。
十五分ほど走り、降ろされたのは海沿いの倉庫街だった。
フォークリフトが出入りする大きな鉄扉の横にあるドアから中へ入る。
そこには積み上げられた木材と三人の男が待っていた。
一人はあごを覆うように包帯を巻いている。
散冴は椅子に座らされ後ろ手に手錠を掛けられた。
その周りを七人の男が取り囲む。
「随分と余裕じゃないか」
スーツの男は
「私を殺すのが目的なら、こんな
散冴は落ち着いた口調で続ける。
「すっかり油断していました。まさか、あの場所が分かるとは」
「我々を甘くみない方がいい」
スーツの男も椅子に腰を掛けた。
「山高と呼ばれているそうだな。あの鮎川という女はお前の
「依頼された案件で知り合っただけですよ」
「なら、お前は何を調べている?」
「別に何も」
右前に立っていた背の高い男が散冴の頬を殴りつけた。彼を拉致したときにもいた顔だ。袖口から右手の甲に龍のタトゥーがのぞいている。
「もう一度聞く。何を調べているんだ」
「あなたたちが何者か調べただけです。ご存じのように、この前ちょっとしたトラブルに巻き込まれたのでね」
包帯の男をちらりと見やる。
奴の眼は激しい敵意を放っていた。
「そうか。じゃあ、なぜ
「あなたたちと同じことを聞きに来たんで、同じことを答えてやりましたよ。どうせなら一緒に来てくれれば手間が省けるのに」
「山高。お前、自分の立場が分かっているのか?」
スーツの男が二重の目を細める。
「ええ」
散冴は目を合わせてにやりと笑った。
「私の行方が分からないとなれば、真っ先に疑いの目が向けられるのはあなたたちだ。警察にとっては強制捜査を行う口実にも使える」
少し間をおいて反応があった。
「なるほど」
片頬を上げたスーツの男が立ち上がる。
「だから俺には手を出せないだろ、ってことか。さすが、大企業を相手に危ない橋を渡って来てるだけの度胸がある。だがな、道理が通らないこともあるんだよ」
包帯の男も目顔で促されて壁に立てかけてあった二メートルほどの棒を取りに行く。
「お前を帰すにも黙ってこのままと言うわけにはいかない。分かるだろ」
手錠を外され立ち上がった散冴へ、今度はにやりと笑い返した。
周りを囲んでいた男たちは数歩後ろへ下がる。
入れ替わりに包帯の男が棒を持って進み出た。
それを見やりながら散冴は山高帽を取り、椅子の上へ置く。
ジャケットを椅子の背に掛け、マフラーをほどいた。
細身ながら筋肉質の体がシャツ越しにも分かる。
黒革の手袋を外すと、
「あごを砕かれた恨みを晴らしたいそうだ」
スーツの男に紹介され、包帯の男が両手に持った棒を上段に構える。
そのまま振りかぶるように床へ打ちつけた。
乾いた音が響く。
それが合図となった。
相手は明らかに棒術の心得があるといった動きだ。
両手を使い、二メートルもの棒を体に沿って滑らかに回転させる。
威嚇するように右脇へ抱えて見得を切った。
素手の散冴はどう見ても分が悪い。
包帯の男は中段に構えたまま、じりじりと右に回りながら間合いを詰めようとする。
それを拒むように散冴もゆっくりと右へ動く。
先に仕掛けたのは包帯の男だった。
いきなり踏み込むと右から棒を振り下ろす。
散冴は左に回り込み、かわされた棒が床を打った。
男は素早く切り返し、棒を半回転させ左下から斜め上へと薙ぎ払う。
上半身を逸らすように後ろへステップして避ける散冴。
ギャラリーたちもさらに後ろへ下がり、二人の勝負を見守る。
散冴が鈍色の左手を顔の前に掲げた。
右手を軽く握りあごの下に構え、小刻みなリズムをとるように
「ほぉ、ボクシングスタイルか」
スーツの男が楽しそうに声を掛けた。
「こいつの棒術は
返事をする余裕は、いまの散冴にはない。
男から視線を外さずに上体を動かしながらステップを踏む。
再び男が襲い掛かる。
さっきと同じように右から打ち下ろしてきた攻撃を、今度も左に避けた――誰もがそう思ったとき、棒がさっと伸びてきた。
「うぅっ」
右肩を突かれて山高がうめく。
包帯の下で男の目が笑っている。
打ち下ろすと見せかけて左手で棒を押し出し、突き攻撃に切り替えていた。
まるでビリヤードでキューを突くようなトリッキーな動きだ。
男は前への圧を強める。
ステップを踏みながら後ろに下がり、距離を取ろうとする散冴を逃がさない。
上段からの攻撃で畳みかける。
また左へ回り込んだ山高だが、さっきの攻撃を意識したのかステップが小さい。
一撃目をかわしたものの切り返しを右上腕に受けてしまった。
「ぐぁっ!」
痛みに顔を歪める。
続く三撃目はバックステップでかろうじてかわした。
流れは包帯の男へと傾いている。
スマホの着信音が流れた。
スーツの男は画面に目をやり、軽く舌打ちしながら通話を始める。
二人の戦いは途切れない。
男は中段に構え直し、ゆっくりと散冴へ圧を掛けていく。
間合いを保ったまま壁際まで追い詰めた。
ここで決める。
そう思ったに違いない。
散冴の動きを見ながらいつでも突きに変えられるよう、右から振り下ろす。
そのとき、山高が初めて右へと動いた。
素早く身を低くして頭を左手でガードしながら相手の間合いへ一気に飛び込む。
左へ避ける先入観があったのか、男の動きが一瞬遅れた。棒を打ち下ろしたときには既に
棒術は遠心力を利用するため、間合いが近いと威力は半減以下となる。
その攻撃を散冴が鈍色の左手ではじき返す。がら空きとなった包帯男のあご目がけて、体を
「うがゃあっ!」
声にならない声をあげ、男は膝から崩れ落ちた。
骨折していた箇所を殴られてはひとたまりもない。
「
見守っていた奴らが怒気をあらわに散冴を取り囲む。
「
面白くなさそうにスーツの男が怒鳴った。
さきほどまでの機嫌のよさが嘘のようだ。
勝負の結果に腹を立てているわけではないらしい。
「
指示された部下たちも戸惑いを隠せない。
「
包帯の男を見下ろし大声を張り上げると、右腕を押さえている散冴へ歩み寄った。
「うちのトップがお前と話したいことがあるそうだ」
ぶっきらぼうにメモを差し出す。
「そこへ十一時に行け。あの人も気が短いから、遅れるなよ」
「帰りは送ってくれないんですか」
半身のまま、スーツの男は低い声で答えた。
「山高、またちょろちょろと嗅ぎまわってると次はこんな甘くはないからな。覚悟しておけよ」
それだけ言い残し、振り返ることなく倉庫を後にした。
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