懲罰

 本所松坂町に枸橘長屋と呼ばれた粗末な長屋があった。

 

 翌日の昼下がり、その長屋の三番戸を訪ねる街娘がいた。

 近所の居酒屋の看板娘、たえである。

 たえは手に手拭いを掛けた小さな桶を抱えていて、三番戸に声も掛けずに引き開けた。


「おパイちゃん、怪我したんだって?」

「おたえか……戸を開ける前は声を掛けろ」


 開口一番そう言うと、たえは家主の侍が文句を言うのを尻目に土間から居室に上がり、煎餅蒲団に伏せる幼子の元に近寄った。


「今は眠っている。大したことはない」

「あんたねえ、おパイちゃんにあんまり無茶させるんじゃないよ。まだ小さな子供なんだからサァ。御萩をこさえて来たから、おパイちゃんが目を覚ましたら食べさせてやっておくれよ」

「おたえ」

「なんだい?」


 笑顔で振り向いたたえの胸を、侍の刀が一閃した。


『ぎにゃぁぁあああああッッッ!!!』


 悲鳴は「胸」から上がった。


 分断され、はだけたたえの着物の胸の裂け目からずるり、と巨大な二つの乳房がまろび出る。それは水揚げされタコのように長屋の部屋の床を這うと、壁の角にうずくまって肩で息をした。這い回る乳房の姿の魔物には、侍の刀が作った傷が真っ直ぐに赤い口を開けていた。そこからのべつどくどくと鮮血が流れ出る。

 たえは糸の切れた人形のように倒れた。息はしているようだった。


『何故……』

「胸の大きさが変わって、気付かない男ばかりを餌にして来たのか?」

 しわがれた老婆のような声で喋る乳房に応えた侍はそのまま刀を手に、乳房の妖怪を追い詰めるように動いた。


『ま、待て……お前に色欲はないのか? 俺が取り付いた女は男に至極の快楽を与えることができる……! その娘、お前も憎からず思っておるのだろう! お前の好きなだけ、お前の好きなやり方で、この娘を抱かせてやるぞ! それも豊満な乳房となったこの娘を!』

「お前は三つ誤解している。偽乳の魔物よ」

 侍はだん、と偽乳を踏みつけた。

『ぐぎぃっ』

「一つ。大きな乳が好きな者ばかりだと思うな」

 二つの手で刀を構え、それを上段に構えた。

「二つ。全ての男が、色欲の前に無力だと思うな」

『ひいいいっ! たっ、助け……!』

「三つ。俺は、女だ!!!」


 振り降ろされた刀が揺れるように動くと七つに増えて偽乳の魔物を細切れの肉片に変えた。


「──懲罰」


 侍は刀の体液を懐紙で拭うと鞘に納め、自室を眺めると溜息をついた。


 胸元が裂けた着物の街娘。

 よだれを垂らして眠る天狗の子。

 血と肉片まみれの床と壁。


 後片付けと街娘への説明のことを思い、非人改め方物の怪同心、松平板宗まつだいらいたむねはもう一度、更に深い溜息をついた。


***


 時は元禄。花のお江戸の八百八町の夜を騒がせる物の怪があった。

 闇に蠢き、人の乳に化け、女に取り憑き、男を誑かして生き血を啜る異形の化生、偽乳。


 だが、その偽乳を狩り退治する奉行直属の特務同心がいた。


 非人改め方、夜回り同心組。


 人呼んで──偽乳懲罰侍。




*** 了 ***

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偽乳懲罰侍 木船田ヒロマル @hiromaru712

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