偽乳懲罰侍
木船田ヒロマル
偽乳
遊女姿のその若い女と町人風の男の身の重なりは、情の炎が照らし出す睦み合いではなかった。
女は人に非ず。
八百八町の夜を騒がす吸血夜叉だ。
その美貌と豊満な乳の魅力に抗えず、暗がりに二人きりとなって、生きて再び陽の目を見た男はなかった。
風に流れた雲が切れて半月の光が路地裏を照らしだせば、女に見えるそれは、既に意識のない六尺半纏の若者の喉に牙を突き立て、ずるずると音を立てて血を啜っている。
「哀れな……」
刀を帯びた編笠の浪人が月明りに照らされて立った。
吸血夜叉は動きを止めた。
「最期に抱いた女が、偽の乳の鬼とは」
鬼と呼ばれた女がゆっくりと振り向く。
確かに一見その顔の作りは美しい。
だが具にこの物の怪の造作を観察したならば、その瞳孔は縦に割れた獣のそれで、真紅の唇から僅かに覗く歯は魚のようにぎざぎざと尖っていて、こと犬歯に於いては人の小指程に長く剥き出しになっているのが分かる筈だ。
「お前さん……何者だい?」
吸血夜叉は口元にべったりと付いた血を嫋やかな白い手で拭いながら目を細めた。
「畜生に名乗る名はない」
後ろに束ねた髪を長く流した蓬髪の浪人は整った顔立ちをしていたが、その左目は二条の縦傷が塞いでいて、残る右目は確かな殺気を孕んでその獲物を捉えていた。
「……非人改め方。奉行のイヌか!」
夜叉が浪人に向かって一足飛びに跳んだ。その速さは人のそれではなく、獲物に飛びかかる狼のそれだった。ぎゅう、と手から音がして爪が伸び、鋭い刃と化して一閃し編笠ごと浪人の頭を一息に斬断した。
いや、違う。
大きな裂け目を穿たれながら宙に舞ったのは笠だけで、そこに既に浪人の姿は無かった。それだけではない。吸血夜叉の振り下ろした腕に、横切るような紅い線が入ったと見えると、その紅い線はどばっと血を吹き出して口を開け、そこから先の腕がぼとりと地面に落ちた。
「くっ、きゃあああああぁぁぁぁぁ!!!」
「人の命を喰らう鬼も、喰らわれそうになれば悲鳴を上げるのか」
浪人は吸血夜叉の後ろに立った。
彼女は玉のような汗を額に浮かべながら跳躍して浪人から距離を取る。
「……やるじゃないか。物の怪同心。勝負は預けるよ!」
虫のように地に伏せた吸血夜叉は、手足の膂力にものを言わせて高く飛び、長屋の瓦屋根を軽々と超える高さに飛び上がった。
ばきいっ!
「!!?」
空中の遊女の背中を強かに打つ金剛杖があった。
どっ、と地面に叩きつけられた血吸いの魔女は苦痛に顔を歪めながらぐうと呻いた。
「おパイは天狗の子でな」
浪人の声が静かに告げる。
「おパイ……?」
「変わった名だが、天狗では普通だそうだ。生意気な小娘だが、高僧に調伏される所を俺が助けて、以来俺の務めを手伝っている」
見上げれば、結い髪三つ身小袖の童子が一人、身の丈の倍もある金剛杖を持って宙の一点に留まっている。
「生意気な小娘は余計じゃぞ貧乏同心」
「
おパイと呼ばれた幼女は苦々しさを顔に出すと、首に嵌った金属の輪を気にする仕草をした。
だがその顔に、さっ、と緊張が走る。
「後ろじゃ!」
「!!!」
血を吸われ倒れていた六尺半纏の男が、仕掛け玩具のように跳び上がると異様な手足の動きを見せながら片目の侍に掴みかかった。
「傀儡の術か!」
刀を盾にその襲撃を受け止めた侍だったが、妖力に突き動かされた亡者の力は尋常でなく、簡単にそれを押し返すことは出来なかった。
天狗の子が動いた。
金剛杖を構え、空から亡者目掛けて急降下するその横面に、だが大きな黒い固まりが飛んだ。
「あうっ!」
女夜叉が水を湛えた天水桶を投げたのだ。
おパイは咄嗟に金剛杖を構えて受け身を取ったが、その圧倒的質量に抗えず、砕けた桶と弾けた水と共に長屋の屋根に落下した。
「おパイ!」
女夜叉は亡者と縺れる侍を見てニヤリと笑うと、夜の闇へゆらりと姿を溶かした。
「くっ!」
侍は亡者に蹴りを入れ強引に間合いを作ると身体の発条を使った短い軌道の貫胴をそのがら空きの腹にお見舞いした。
まともな思考のない操り人形と化していた死体はその一撃で胴体を両断され僅かに背骨の一部と皮一枚とで上下の半身を繋ぐのみの正真正銘の死体と化した。
侍は振り返ったが、吸血夜叉の姿はどこにもない。
侍は溜息をつき刀を納め、着物の身頃を整えると、小さな相棒を助けるために屋根に大穴の開いた長屋に向かった。
翌日。江戸川関宿の船着場で、腕を切り落とされた遊女の死体が上がった。
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