ショウイチのはなし

コオロギ

ショウイチのはなし

 ……ああ、もう大丈夫ですよ。すっかりよくなりました。わざわざすみません。……え、顔色が悪い? そうですか。

 ……僕が小さいころにも、こんなことがありましたよね。ええ、ありましたとも。……あったんですよ、絶対に。

 といって、僕もつい先日、思い出したのですけれど。

 夏でした。蝉の鳴き声と、母が少しでも涼しく感じられるようにとつけてくれた風鈴の音を覚えているのです。風邪をこじらせた僕は、しっかり布団を被せられて、畳の部屋に一人寝かされていました。

 僕はいつも、手足を折って、まるで胎児のような格好で眠るのですが、それはずっと前からの癖で、手足を伸ばした状態というのがどうにも落ち着かないのです。あの布団の長方形からはみ出すのを、とても恐ろしく感じてしまうのです。筏に乗っているわけでなし、落ちるわけもないのですが、なぜかずっと、そのような妄想に憑かれていました。

 いつからだろう、きっと最初からだ、元々そんなだったのだと思っていたのですが、違いました。それは、あのとき、あの夏の日からなのです。

 布団を被っていなさい、ちゃんと汗をかきなさい。そう母に言われて、僕はその言いつけを守っていました。しかしどうにも暑く、僕はこっそり、手足を布団から突き出しました。しかしそれでも、自身の体温で温った布団の上は暑く、僕はさらに涼しさを求めて、手を畳まで伸ばしました。

 手が畳に触れると、そこはひんやりと冷たく心地よくて、僕は両手両足を畳にくっつけようと身体を捩じりました。

 ちゃぷん、という音がしました。それはまるで、水面を叩いたときのような音でした。僕は驚いて手足を引っ込めようとしたのですが、何かが僕の手首を掴み、ものすごい力で下へと引っ張ってきました。僕は為す術もなく畳の下、いえ、もうそこには畳などありませんでした。冷たく暗い水の底へ引きずり込まれたのです。

 目が覚めると、僕は布団の上に寝かされていました。元の部屋によく似ていましたが、違う部屋でした。蝉の声も、風鈴の音も聞こえませんでした。

 枕元に、女の人が一人座っていました。

「おなまえは?」と、その人は優しく僕に尋ねてきました。僕が答えないでいると、「おとしはいくつ?」と、その人は続けて尋ねました。僕はその問いに、「小一」と答えたのです。

 ……ですからね、僕の名前はショウイチではないのです。あれは名前ではなく、年齢に対する回答だったのです。そのことを、僕自身、つい最近まですっかり忘れてしまっていたのです。恐ろしいことでしょう。

 ねえ。

 あなたはなぜ震えて泣いているのですか、お母さん。

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