第20話 〈滅びの真実と『女神の鍵』〉
【!】男性同士の性描写があります
「……『戦火のファム・ファタール』?」
艶めかしくも悍ましい響きを持つその異名は、くわんくわんと耳の中で木霊する。
……美しい銀髪。黒衣。その特徴には見覚えがあったが。いやいやまさか。
それに、彼にはちゃんと脚が生えていたではないか。どう見ても人間だった彼が人魚だなんて、アンデルセンのおとぎ話じゃあるまいし。
「それが……その人の名前?」
「うん……正確には仇名みたいなものだけどね。そいつには決まった名前が無いんだ。
僕らの前に現れた時はシレヌ・ブランシェと名乗った。けれど、そんな男はどこにもいない……」
私の問いかけに、カルムは苦い顔で頷き答えた。
シレヌ、という名を口にするだけでも、憎悪に喉を掻き毟られるような思いに苛まれているのだろう。彼の目の、いやなぎらつきが更に増した。
「そのこと……タリスさんは知ってるの?」
重ねて聞けば、今度はゆっくりと首を振った。
俯き、絞りだすように話し出す。
「ううん……僕だけしか知らない。だって夢だと……悪い夢だと思ったんだ。
全部、だって……彼があんなことをする人だとは……思わなかったから……」
吐瀉するように言葉を吐きながら、カルムは次第に蹲ってしまう。
後悔と憎悪に押しつぶされる少年の姿は、酷く痛ましく思えた。
彼の瞳も、唇も、重い。
その先を話させるのは酷だと、私にも分かった。
幼い少年にこんな表情をさせてしまう何かを……その『戦火のファム・ファタール』とやらは行ったのだ。自然と、その顔も知らぬはずの人物に怒りが沸いてくる。
私は、それ以上追求するつもりは、決してなかった。
だが。
「……あんなこと?」
────それは、スプーン一杯の黒い好奇心だった。
無意識化に眠っている、野次馬根性だった。
『一体何があったのか知りたい』。
僅かに抱いたそんな悪心を────あの女神の杖は感知した。
「……う゛っ?!」
急にぐわんと、視界が揺れる。やけになって度数の強い酒を呷った時のような、気持ちの悪い揺れだった。
慌てて駆け寄ってくるカルムの声が、急に聴きなれない言語になる。杖の翻訳機能がイカれたのか、それとも私の耳がイカれたのか。それを判別する術はない。
「何よ急に、なんなのよっ……!」
叫び、叫び、目を閉じる。
ぐにゅぐにゅとドブ水色に混ざる景色を、視界から何としてでも追い出したくて。
震える瞼を力任せに閉じ、ばつんと視界をブラックアウトさせた。
……数十秒して、恐る恐る目を開く。
場所は、深夜の森ではなくなっていた。
慌ててあたりを見回せば、そこはまるで宮殿のような場所だった。
セピアに色付きぼやけてはいるが、豪奢でありながら上品な美しさを持っていることが分かる。
壁の蝋燭は残らず消されていて、暗い。こちらの時間も、誰もが寝静まる夜中なのだ。
『……おとうさまぁ』
不意に、自分の身体をすうっと小さな影が通り抜けた。
10歳くらいの、茶髪の少年だ。修復痕の夥しい犬のぬいぐるみを抱えて、ふらふらと長い廊下を歩いていく。……よく見れば少しだけ、細く明かりが漏れている部屋がある。少年はそこを目指しているようだった。
「……何だろ」
なんとなく胸騒ぎがして、少年のあとをついていく。
少年と同じように、漏れる光を追いかけていく。
嫌な予感に苛まれながら、それでも歩みを止めることは出来なかった。
『おとうさま、あの……』
少年が光の向こうへ手を伸ばそうとして、はたと手を止める。
凍り付いたように、その場から動かなくなる。
まるでその光の中で有り得ないことが起こっていると告げるように────少年の、橙色の瞳は、絶望と後悔に揺れていた。
「見るな」と本能が警告する。おぞましい何かがそこで行われているのだと裾を引く。
けれど……もう、遅かった。警告するなら、もっと早く。
私が、「好奇心」なんかを抱く前に言ってくれないと、いけなかったのだ。
『ァ……陛下……ッ』
光の前に立ってしまった途端に、部屋の中の声が聞こえてくる。
少年とも少女ともつかない、美しい声だ。
悩ましい吐息と共に囁かれるその声は、私の脳みそを気味の悪い心地よさで撫でていった。
『ああ……シレヌ、シレヌ、シレヌっ……』
次に聞こえたのは、老人に差し掛かった男の声だ。狂ったように、『シレヌ』の名を呼んでいる。それ以外に言葉を忘れてしまったかのように、熱に浮かされたように、その『戦火のファム・ファタール』の偽名のひとつを呼んでいた。
……目が闇から光に適応する。セピア色の光の中に、ふたりの人物の像を浮かび上がらせる。
続いて、風景も光の中から現れる。私にはその部屋は、礼拝堂のように見えた。
「……あ」
嗚呼。私の目の前には、酷く醜い光景が広がっていた。
足元で固まる少年と────幼少のカルムと同じように、私はその場に凍り付いていた。
目を逸らしたい。逸らして蹲り、嘔吐したい。けれど、それは叶わない。
まるで人形にでもされたかのように、その光景から視線を逸らすことすらできない。
嫌だ。見たくない。助けてくれ。そう叫んでも、誰にも届かない。
幼いカルムにも、光の向こうのふたり────裸身で縺れあう老人と、16歳ほどの美しい少年にも。誰一人、私の声に気づくことは無かった。
『ぁ、ア……ふふ、陛下……あっ』
一糸纏わぬ姿で老人を絡め取り、蠱惑的な喘ぎを漏らすその少年は、まるで月の光を束ねたような美しい銀の長髪を持っていた。妖艶に細められたその瞳は、上等なアクアマリンの色だった。────ああ、知りたくなかった。気づきたくなかった。このふたつとない美しい姿を、私はつい最近見たばかりなのだ。
『シレヌ、シレヌ、おお、わしの美しいシレヌ……』
神に祈るための神聖な場であるはずの部屋の床に散らばった、豪奢な王侯の夜着と鴉のような漆黒の外套。それにも構わず、老人は虚ろな目で少年を犯し続けていた。
ぽっかりと穴が開いたような目で、少年の美しい顔を、美しい瞳を、覗き込み続ける。
まるで、今正に少年の美しさに魅入られ魂を吸い取られているようで……背中が汗でぐっしょりと濡れるのを感じた。
『あっ……あぁ、ア……ふふ、これであなたは俺のものですよ、ウィンドダリア国王陛下……』
少年が老人の耳元に囁きかける。まるで、甘言を与える悪魔のように。
自らの身体を貪る老人がその言葉に碌に反応を返さないのを見て、少年は満足げに微笑んだ。禿げはじめたその白髪頭を、犬でも愛でるように撫でていた。
つい、とその恐ろしい美少年────在りし日のジークリードが、気まぐれにこちらに視線を向けた。そしてあろうことか……にい、と美しい造形の唇を歪めて、私達に、幼いカルムにわらいかける。まるでこの目撃を分かっていたかのように。敢えて、自分の父親が淫魔に絡め取られる様を見せつけるように。
その笑みは、瞳は、美しく、冷たく、酷薄で────静かで激しい憎悪に燃えていた。
ああ、鴉が鳴いている。
どこかで、けたましく、嘲笑うように鳴いている。
かあかあ、があがあ、窓の外で飛び交って、この国の滅亡を、世界の終わりの始まりを、嘲笑いながら祝福している────────
「……ん、……キさん、ユウキさん!」
「わぁあっ!!!!」
ばん!といきなり両のほっぺたを叩かれて我に返る。
気が付けばそこは元の深夜の森で、目の前にはビオスとタリスがいた。
「よ、良かった気が付いた……急に目を回しちゃうから……」
心配そうな顔のカルムが、タリスの後ろから顔を出す。
急にぶっ倒れられて、可哀想に気が気じゃなかっただろう。
狼狽える彼は、年相応の少年といった印象を受ける。
「大丈夫ですか?どこか、具合が悪いとか……」
タリスが清潔な布で、私の汗を拭いてくれる。その優しい手つきは、他人の世話をし慣れていることを感じる。その手に甘えつきたくなってしまうほどに。
……けれど、それよりも先に。
私は、その名を口にしなくてはいけなかった。
「……ジークリード。ヴァローナ商会の、ジークリード……」
「えっ?」
三人が、脈絡なく吐かれたその名に目を丸くする。
私の唇を動かしたものは、何だっただろうか。
恐怖心か。怒りか。カルムへの罪滅ぼしか。あるいは……これもあの女神の意志なのか。
私は仇の名を、復讐者に告げる。
「……カルムの過去を、篭絡される王を、見たの。そして、私達はその篭絡した男を見たことがある。……ヴァローナ商会の、ジークリード。彼は、そう名乗っていた。月光のような髪の男。鴉のような黒衣を纏った、美しい男……」
言葉を並べながら、私の心に恐怖と罪悪感が纏わりついた。
ああ。ほんの少しの好奇心に駆られて、あんなひどい過去を覗き見てしまうなんて。
こんなもの、きっと他人には見られたくなかっただろうに。私だって、見たくはなかった。
きっと手の中にある女神のステッキを睨めば、それは相変わらず亜麻色の宝石を中心に据えて、黒く輝いていた。
それに……いつの間にか小さな鍵がぶら下がっている。古風な、杖と同じ漆黒の鍵。
「『女神の鍵』……?」
訝し気に持ち上げた杖を見て、その名称を口にする声がひとつ。
それはあの年若い神父────ビオスの声だった。
〈21話につづく〉
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