第14話 〈一杯のスープと鴉の商談〉
「わ、いい匂い……」
木の扉の向こうでは、既に何人もの住人らしき人が、焚火とスープの満たされた鍋を囲っていた。皆疲れたような顔をしているが、どこか明るい表情も見える。
スープから漂う香草と野菜の匂いが、馬車に揺られ森を歩き続けた私の体を虫のように引き寄せた。
ヘーレーの隣は、既に幼い子供達で埋まっていた。
仕方なくまだ隙間のある、襤褸を纏った老婆の隣に二人そろって座る。
ジークリードとラプタは、イルフロンの反対側に座っていた。
「……こんなに具の入ったスープなんて、本当に贅沢なこと」
隣の老婆が、感嘆の声を漏らすように独り言を言った。
確かにスープには、野菜も肉も、小さいながら入っている。
けれど、それだけだ。彼らの夕食はこれだけなのだ。
ジリアの家では、あんなに沢山の種類の料理が食卓に並べられたというのに。
「……いつも、そんなに酷いんですか?」
日向子が八の字に眉を下げて問う。それに、老婆はゆっくりと頷いた。
「さよう。このあたりの土地は、邪悪な魔女ミストの呪いで痩せておる。
アンネリヒト王国の地下深くに封じられておる魔女のせいでの。
……それでも、昔はその呪いの届かぬ森にわしらは住んでおった。
けれど、その森も人間どもに奪われ……残されたこの枯れ森で、わずかな木の実と、痩せた獣と、人間から盗んだ食料を糧に暮らしている、というわけじゃよ。」
老婆は一口スープを飲み、イルフロンの方を見やった。
「……若者は、今の森しか知らぬ。満腹を知らぬ。尽きぬ森の恵み、土の恵みを知らぬ……。わしはそれが、悔しくて悔しくてならぬ。」
人間のお嬢さんがたには分からぬことかもしれんがの、と付け加え、老婆はそれきり黙ってしまった。日向子はどう元気づけたものかと考えるように、長い睫毛の付いた瞼を伏せた。
「これからは腹いっぱい食べられるようになりやすよ」
急に、声が正面からかかる。そこには、ヴァローナ商会の少年ラプタがいた。
スープの器を、老婆に差し出しながら。
「俺も頂いちまったんすけど……俺たちには商会から支給された保存食がありやすから。
どうぞ、あなた達が食ってください」
老婆は仰天したように目を瞬いてから、ゆっくりと柔らかい表情になった。
「……こんな老いぼれより、子どもたちに食わせてやってくだされ。あの子たちは育ちざかりなのに満足に食わせてもやれず、毎日申し訳なくおもっておりますのじゃ……」
今度はラプタが驚く番だった。鳶色の大きな瞳を、一瞬だけさらに大きくする。
「あー……そうっすね。そうします。」
スープの器を引っ込めて、へらっと力の抜けた笑みを見せた。
「優しいんですね。」
踵を返して子供たちの方へ行こうとするラプタに、日向子は微笑んで言葉を投げかける。
振り向いたラプタは何故か後ろめたそうに視線を地面へ向けた。日向子の澄んだ瞳と、目を合わせようとしない。
「……そんなことないっすよ。
俺たちは俺たちの利になることをしている。それだけっすから」
首を傾げる日向子に構うことなく、ラプタはスープを子供達へ分けに行ってしまう。
「……なんだか、狼男さんとは違う印象ですね」
「え、なんでラルフ……ああ、口調が似てるからね。確かに」
確かに……あのユダ地区で出会った狼男よりも、ラプタと言う少年は大人びているように思えた。
いや……大人びているというよりも。
どこか、薄暗い影のようなものを彼からは感じた。
そりゃまあ、あの歳で商人をやっているともなれば、色々嫌なことはあるだろうけど。
ラプタは私達に疑問の香りを残して、ジークリードの隣に戻っていた。
「さて、さっそく交渉に移るか。」
ジークリードが真っ黒なスラックスに包まれたすらりと長い脚を組み替えて、話を切り出す。自然と、全員の視線がそちらに向いた。
「俺たちが欲しいのは、優れた腕を持った彫金師だ。最近、フロスト銀の装飾品の需要が貴族たちの間で高まってきててねェ。それに加えて、魔力を付与した武器のクオリティを上げるために、精密な彫金技術を持った職人が多く必要なんだ。」
ジークリードの美しいアクアマリンの瞳が、イルフロンの隣の老人と女────先ほど優れた彫金師だと聞かされていた────を捉える。
「こちらの集落には、古くから高度な金属加工の技が伝わっていると聞きます。
……元の居住地、今はクラサスの街があるところでは、良質な鉄や銀が出土したという記録、そしてそれを現地のダークエルフ族や獣人族たちが加工し、日用品や装飾品に変えていたという記録が残っていましたから」
ジークリードの言葉に、ラプタが続く。さきほどの少年らしさを残す感じとは打って変わって、真剣な、勝負する男の顔をしていた。
「彫金師の二人には旦那様が管理してる、工房がある領地に移り住んでもらうことになるが……ちゃんと衣食住は保障するし、給金だって、ユダ地区のカスみてえな賃金の100倍は出すぜ。勿論この集落にも食料と、狩り用の良い武器を全員分提供しよう。将来使うであろう、子供たちの分までな」
悪い条件じゃないだろ?とジークリードは笑みを浮かべてみせる。
確かに、私が聞く限りでは悪くなさそうな条件だ。
けれど、当事者からしたらどうだろう。それに……狩りの武器を貰ったって。
「お言葉ですが……本人たちの意向を聞かないことには。
それに……この森にはもう痩せた獣しかいないのです。あとは、魔物しか……」
イルフロンが、ジークリードに意見する。
しかし、その答えを予測していたのだろう。戸惑うことなく、ジークリードは二の句を継ぐ。
「その魔物なんだがな、このあたりにいるのは毒性のない、獣型の魔物ばかりだ。
それに、図体はでかいが鼻が悪く足が遅い。提供する武器に高威力の銃と弓矢、それから魔杖も用意したから、遠く離れた場所から狙い打てば安全に狩れるはずだぜ。」
その言葉に、イルフロンの目の色が変わる。
……確かに、彼らの持っている武器と言えば木製の、原始的そうな弓矢や槍だけだ。
その魔物を見たことはないけれど、あれでは確かに苦労しそうだ。
「よろしい、のですか。銃はまだ量産が始まったばかりで、非常に高価だと聞いたのですが」
「問題ないぜ。最近良い火薬の仕入れ先を手に入れてね。この集落に提供する分ぐらい、安いもんさ」
ざわざわと、集落に動揺が広がる。
無理もない。この集落からふたり働きに出るだけで、食料と良質な武器が手に入る。
しかも二人は王都より好条件で働かせてもらえるというのだ。この集落にとっては、利点しかない。
……タダより高いものはない。嫌な言葉が、脳裏をよぎる。
ヘーレーが立ち上がる。顔には、困惑と憂慮の色が浮かんでいた。
「……待ってよ。君たちはそんなに高性能の武器を皆に与えてどうするっていうの?
魔物を倒すだけなら、弓矢や魔杖だけで十分のはずだ。
過ぎた武力は、争いを産むよ。今までの盗賊被害だって、高威力の武器が無かったから抑えられてたんだ。それを……」
「お言葉ですが王女様、この集落の住民が十分な食料を得てもまだ強盗に走ると?」
ジークリードは微笑んだまま、鋭い刃のように言葉を飛ばす。
「違う!ただボクは……」
「違わないね。お前さんはただ、民に『自分に守られる者』であってほしいのさ。
弱者を相手に英雄を気取るのも良いが、少しは他人を信頼した方が良いぜ、高潔な騎士サマ」
ヘーレーの懸命な言葉をジークリードは遮って、切り捨てる。
その瞳には、ああ、まただ。あの得体の知れない影が蠢いている。
テナシーよりも、ラプタよりも暗い影が。
「……あの、そこまで言うこと、無いと思います」
黙ってしまったヘーレーの代わりに日向子が立ち上がって、穏やかにジークリードに食って掛かる。
ジークリードはひらひらと手を振って、今のは冗談、とでも言いたげに笑った。
瞳に躍る影は、やはりすっと消えてしまう。
「おっと失礼。つい口が過ぎる癖があってなァ。気にしないでくれよ。
……さて、本題に戻ろうぜ。俺たちと手を組んでくれるか?」
流れる水のようにさらっと話題を戻し、ジークリードはふたりの彫金師の方へ向き直った。
……結果として。ヴァローナ商会と洞窟森の集落との契約は円満に結ばれた。
二人は明朝、商会の馬車でここを立つらしい。
私たちはなんだか納得いかないまま、案内された寝室へと移った。
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案の定、ジリアの家のように贅沢なベッドなんてない。
藁と草布を敷き詰めた洞窟の床に、粗末な毛布で雑魚寝だ。
流石に男性と女性で部屋は分けられているが、プライバシーも何もあったもんじゃない。
……日向子は気にしてなさそうだけど。まあ、あいつが気にするわけないか。
多分、この女は家畜小屋とかでも寝れるんだと思う。
灯が消されて数時間、あちこちから寝息が聞こえるようになったころ。
「……ねえ、起きてる?」
隣に寝ていたヘーレーにつつかれて、私はぐるりと体を向ける。
あの『商談』が引っ掛かって(寝心地が悪いせいもあるけど)、私は上手く寝付けていなかった。
「……起きてるわ。何、トイレ付いてきてほしいの?」
わざと意地悪そうにそう囁けば、ヘーレーは「違うよっ」と目を吊り上げた。
「……いや、ね。さっきの商談のことでさ。どうしてもあの人の言葉が引っ掛かっちゃって」
ヘーレーは顔の半分を毛布で隠しながら、目を伏せる。
やはり、彼女に深々と刺さっていたのだ。ジークリードが投げた言葉の刃は。
……私は、何と声を掛けたらいいだろうか。私は、彼女のことが嫌いではなかった。
少し考えて、思ったままを言う。
「……気にしないで良いわよ。あんたの理想、私嫌いじゃないわ」
「……ボクはずっと、皆のために動いてるんだと思ってた。
でも、でも……お前は皆に自分に守られる者であってほしいんだって言われた時……否定できなかったんだ。なんだか妙に納得しちゃって、ああ本当はそうだったんだ、って……こんなの、ただのボクの自己満足だって……」
「いいんじゃないの、それで。自己満足だろうとおせっかいだろうと、あんたに救われてるやつはいるわ」
ちら、と相変わらずすやすやと呑気に寝息を立てている日向子を見やる。
私だって……本当に、本当に腹立たしいけれど。こいつに孤独を救われたのだ。
手の施しようのないクズにも、自分を虐げるだけのクソ野郎にも、あちこちに手を差し伸べる馬鹿なこいつに。
「……ありがと。君は優しいね」
「はじめて言われたわそんなこと。……あーやめやめ。いい子ちゃんの真似なんか疲れるわ。
あんたももっとなんか無いの、嫌いな奴の愚痴とか。私そういうのは大好き」
「あははっ、そりゃあ死ぬほどあるさ。聞いてくれるかい?」
「勿論!……そこの天使さまを起こすとめんどくさいから、小声でね」
「ふふ……もちろんそのつもりさ」
どこかで水の落ちる音しか聞こえない夜。誰もが寝静まった中で、私達はふたりで愚痴を吐き出しあい、怒りを共有しあった。
愚痴を言う彼女は使命を背負った騎士でも、民を憂う王女でもなく、ただ一人の少女だった。
日向子の他にはじめて、私に友達のできた瞬間でもあった。
「……君があのつまらない舞踏会にいてくれたら、きっと気が楽なのにな。ねえ、次の舞踏会の時、よかったら来てくれないかな?さっきボクが愚痴を言ったやつらも見られるよ」
「ふふ、それは最高ね。気が向いたら行くわ。……ダンスなんか踊れないけどいい?」
「いいさ。壁の花なんていっぱいいる。ボクもそのひとつだしね」
ふたりでくすくす笑いながら毛布に潜り、やっと横になる。
ヘーレーも感情を吐き出してすっきりしたのだろう。すぐに寝息が聞こえてくる。
私もようやく睡魔が訪れ、それに身を任せるように目を閉じた。
明日はまた、どうにかしてクラサスを目指さなければ。
そのために少しでも、眠っておこう。
眠る三人の少女を、どこからか迷い込んできた鴉だけが見ていた。
〈15話へ続く〉
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