第6話 〈王立図書館とマッドハッター〉
「……本当にあの人の言う通りだったわね」
長い石の階段を上り終わった荒い息のまま、私は呟く。
その隣で、日向子は汗一つかかずそうですね、と微笑んでいた。
アンネリヒト王国第十区画、中級市民街『タダイ』。
薄暗い『ユダ』と嫌な雰囲気の『シモン』を長い階段と分厚い門で隔てたそこは、
明るい日が差し賑やかな活気が街を満たし爽やかな風が吹き抜け、
今までの沈んだ雰囲気とは明らかに一線を画していた。
ここまで来るのに随分と歩いたが、特に危険な目には逢わなかった。
最悪の場合はこのステッキでなんとかしよう、そうするしかないと覚悟を決めていたが、昼間から気合を入れて歩いたお陰だろうか。
心配の元だった門番も、一つ目は何もなし、二つ目はテナシー宛の紹介状を見せればすんなり通ることができた。
……ふたりの門番の、若干馬鹿にしたような視線は顔面をぶん殴ってやろうかと思うぐらい腹の立つものだったが。
紹介状には『タダイ地区王立図書館司書兼ヴァローナ商会幹部 テナシー・ヴォイドハート様』と宛名が書いてある。
デイジィは図書館を訪れろと言っていたから、このタダイ地区王立図書館というのを目指せばいいのだろう。
しかし道を聞いてくるのを忘れてしまった。大きな建物だとは聞いたが……
ぐるり、とあたりを見回す。
下町のような雰囲気で高い建物自体は少ないが……それでもひとつふたつではないのだ。
視線と頭を上に向けながらふらふらしていたせいで、ついに人とぶつかってしまった。
「あ、ご、ごめんなさい!」
ぶつかったのは、14歳くらいの女の子だった。
ぶつかった拍子に持っていた籠を落としてしまったようで、瑞々しい色をした果物がいくつか地面に転がっていた。
「あら、怪我してないし別にいいのよ。お姉さんたちどこか行くの?」
少女は何度も惨めったらしく謝りながら果物を拾う私に微笑み、優しく遠回しに迷子ふたりに気遣いの手を差し伸べた。
鮮やかな緑の髪以外はどこにでもいそうな、可愛らしい女の子だった。
明らかに人外であると主張するパーツもついていない。
初めて会話する「まともな人間」であるようだった。
「わたし達、『タダイ地区王立図書館』へ行きたいのですけれど……」
日向子は躊躇なく少女に困りごとを打ち明ける。
少女はその名を聞くと、ぱあっと顔を輝かせて手を打ち合わせた。
「まあ、偶然ね!私、そこへ行くところだったのよ。お買い物のついでに、本を借りようと思って。」
少女は私の持っている紹介状を興味津々にのぞき込む。
「まぁ、まあ、テナシーさんへね!あの人はとっても面白くて、とっても優しくて……うふふ、変な人よ。帽子屋さんみたいな!」
……図書館司書なのに帽子屋とはどういうことだろう。
まさか、アリスのマッドハッターのことを指しているのだろうか。
「……こっちにも『不思議の国のアリス』があんの?」
「ええ、王立図書館にだけ。『異世界産』の物語は悪用されると危ないから、借りられないのよ。」
……物語を、たかがおとぎ話を『悪用』?
異世界産という言葉にやはり私たちは全く違う世界に流れ着いてしまったのだと思うと同時に、新たな疑問が芽を出す。
……この世界に来てから、分からないことだらけだ。
歩くたびに、モグラたたきのように増えてゆく。
少女に導かれながら暖かい色の石畳を歩く。
少女は緑の長い髪をぴょんぴょんさせながら歩いていたが、急に立ち止まって振り返った。
「そういえば、お姉ちゃんたちはお名前なんて言うの?
私はジリア。ジリア・アルコニットよ。お花屋さんなの!」
……この年で花屋を営んでいるのだろうか。
いやいや。親の手伝いに決まっているだろう馬鹿。
「あたしは幽鬼。御影幽鬼よ。で、こっちの白いのが天使日向子。……別に覚えなくてもいいわ」
「ユウキにヒナコね?うふふ、珍しいお名前。私、きっと忘れないわ?」
いくら異世界といえど、こんな小さな少女が働けるわけがない。
自問自答しそれを否定しながら歩いていくと、ついに少女は立ち止まる。
「ついたわ。ここが王立図書館よ!」
少女が指さす先には、厳めしい石造の建築物があった。
ところどころ蔦や苔に飾られたその高い塔は、周りの木々を従えるようにずっしりとした存在感を持ってそこに鎮座していた。
ちょっと……というか、かなり入りづらい雰囲気の建物だ。
しかしジリア(と、予想はついているだろうが日向子も)は躊躇なくその重たそうな木の扉を押して、中へ入っていく。
「あっ、置いてかないでよ……」
私は二人の少女の背中を追って、大学教授のような建物へ入った。
内部は、思っていたよりも柔らかな空気に満ちていた。
控えめに、ぬるい橙の光を投げかけるアンティークのランプ。
あちこちに置かれた、まるっこいフォルムの可愛らしい椅子。
ただ静かに、ずらりと並ぶ無数の本棚。
現代の図書館と、あまり変わらない。
本が好きな日向子は、わぁっと子供のように歓声を上げた。
「やあ、ジリアちゃん。見慣れないお友達だね?」
呑気そうな声が、頭上からかかる。
そちらを見上げてみれば、暗い赤の髪を三つ編みにして、モノクルをかけた、シルクハットの男が二階部分の手すりから顔を出していた。ひょろりとした体躯とふにゃりとした笑顔は、いかにも頼りない優男、という印象を与える。
彼が着ている真っ黒なジャケットには、三本に分かれた尾羽を持つ鳥のピンバッヂが小さく銀色に光っていた。
「あら、テナシーさん!ええそうよ、あなたへの紹介状を持った女の子ふたり!」
ジリアは快活に笑って、ぶんぶんとテナシーと呼ばれた男に手を振った。
テナシーは気弱そうな目を見開いて驚いた声を出すと、ばたばたと階段を下りてきた。
テナシーはさほど体力がないらしく、階段を下りてきただけで息を切らしている。
「ぜえ、はあ……んんっ。
……やあ、こんにちはマドモアゼル。僕はテナシー・ヴォイドハート。
この図書館の司書と……あとは商会のしがない事務係もしているよ。
早速で悪いのだけど、誰のご紹介かな?」
咳ばらいをして息を整えると、映画の中でしか見たことないような紳士じみた礼をひとつした。……恰好を付けても、テナシーの周りにはどうも花が飛んでいる。
「クロウズ・グレイヴヤードのデイジィさんから。あ、紹介状これです。」
日向子はクリーム色の紹介状をテナシーへ手渡す。
彼はそれを、両手で丁寧に受け取った。
「……なんだ。変な人って聞いてたけど、普通の人じゃない。」
思わず、安堵の溜息が漏れる。
鮮やかな羽が飾られた、主張の強いシルクハット。かっちりした黒いスーツに、
それに合わせたような、洒落た臙脂のベスト。
……見た目だけならばマッドハッターに見えなくもない。
けれど、実物は御覧の通り、いたって普通の優男だ。
嗚呼、強姦魔や態度の悪い門番のいた下の階層と違って、上の階層はなんてまともなのだろう。髪の色はともかく、下と違ってこんなにも穏やかな『普通』が満ちている……!
「あら、見ないお客様ね?」
そう思った矢先、背後から急に聞こえた声に飛び上がった。
驚いて後ろを振り向けば、そこには水色のドレスの女性……否。
女性の肖像画が、浮いていたのだ。
思わず素っ頓狂な声を上げて尻もちをつく。
少し遠くで黙々と本を読んでいた少年の迷惑そうな視線を受けて、あわてて口を押える。
「ああ、アリス!!来てくれたんだね、嬉しいよ……!」
今まで静かで穏やかだったテナシーが、急に歓喜に満ちた声をあげる。
心なしか、いや明確に、頬が赤く染まっている。
……なんだか嫌な予感がした。
「紹介するよ、こちらはアリス。僕の……大事な恋人だ。」
テナシーは照れ臭そうに、その『お化け絵画』をそう紹介する。
そして恋人にするように、テナシーは『お化け絵画』に口づけを落とした。
『それが当然』とでも言うように自然に。
「ね、変な人でしょう?」
ジリアが楽しそうに、こちらを見て笑っていた。
〈7話に続く〉
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