第2話 〈無垢な少女と女神の夢〉


「……日向子。」

唖然とした。

入道雲のようにふわふわと広がる、真っ白な長い髪。

ぴょこんと跳ねた、羽のようなくせっ毛。

痛々しくあちこちに巻かれた包帯。

ありふれた、百均の眼帯。

色素の薄い、青の瞳。

頼りなくひょろりと細い体躯。

そして、この。


「コーヒー、美味しいですよ?幽鬼も飲んでくださいね。体が温まります」


この……いつも楽園にいるかのような穏やかな微笑。

嗚呼、私はこの微笑が本当に、嫌いで嫌いでたまらなかった。


「温まります、じゃないわよ!なんであんた当たり前みたいに飲んでんの!?」

感情に任せて机を叩く。マグカップの黒い海にさざ波が立ったが、それだけだった。

この身いっぱいの不可解を目の前の女に叩きつけたつもりだったが、当の本人はきょとんとしてマグカップを離さない。


「だって、わたし達をこんな雨の日に屋根の下に入れてくださるなんて、とっても優しい方たちじゃありませんか。わたし達、とっても幸運だった」


「あのねえ、それが善意からじゃないかもしれないっていっつもいっつも言ってるでしょ!?こうやって油断させて、私達をヤクザの風俗とかに売り飛ばすつもり────」


そこまで行ってからばっと自分の口を塞いだ。

しまった。日向子に気を取られすぎてすぐ傍にさっきの男たちがいるのを忘れていた。

イヌ科の男はさっきキッチンらしき場所に引っ込んだ後から姿が見えないが、不機嫌そうな男のハンモックはすぐ傍なのだ。


「そうだぞお前ら、もっと危機感を持て。特にそこの白いの」

どさ、と頭の上に何か振ってきた。……布だ。粗い素材のようだが、きちんと洗ってある匂いだった。そういえば、私だけは未だ濡れ鼠のままだ。

日向子は少しも濡れていないのがまた腹が立つ。


上に視線を向ければ、不健康に白い顔が浮かんでいた。

幽霊に見えてひっと声が漏れるが、先ほどの声はあの不機嫌な男のものと同じだった。

ひどく、目つきが悪い。人を何人も殺していそうな目だ。

その目が────心なしか、赤く光っているように見えて思わず自分の目を擦る。


「てめえら『人間』がユダ地区まで何しに来たか知らねえけどな、この辺には『仕入れ屋』だの殺人鬼だの強姦魔だのがうろうろしてんだ。それなのにガキ二人でこんな真夜中にうろつくとかな……。自殺ならいい薬屋を紹介してやれるぜ?高けえし俺も手数料貰うけど」

男がぶつくさと言葉を並べる。

「こら!女の子にタカろうとしない!」というイヌ科の男の声が間に挟まった。

ユダ地区?『仕入れ屋』?知らない単語に首を傾げる。

しかしそれよりも、『自殺』という言葉に頭の奥がずきりと痛んだ。

何か……大事なことを忘れているような。

でも、私は何を忘れているというのだろう。

ここに来た経緯?なら『落下した』という記憶だけがある私たちは……。


そこまで巡った思考は、突如頭の上に追加された毛布と、顔にそれが飛んできたらしい日向子の「へぶっ」という間抜けな声で中断される。


「それ、貸してやる。うちにベッドなんて贅沢なもんはねえ。諦めて床で寝な。」

「とっとと寝ろ。んで、明日の朝出てけ。……面倒は御免だ。」

男は古そうなコートを羽織りながら、ぶっきらぼうに言った。

『こんな真夜中』とさっき自分で言っていたのに、今から出かけるのだろうか。


「あら、こんな時間にどこか行かれるんですか?」

日向子は躊躇いもなく私の疑問を口に出す。

無邪気で無警戒な日向子の質問に目つきの悪い男は舌打ちをし、それを先ほどと同じようにイヌ科の男が窘めた。そして日向子に明るい笑みで答える。


「こらっ、いくらこの仕事嫌いだからって舌打ちはだめっすよ舌打ちは!」

「俺たちはこれからお仕事っす。ちょ~っと人間の女の子にはシゲキが強いお仕事内容っすから教えたくないっすけど……ええと、なんっしたっけ。『ヤカザ』?に売りに行くとかではないっすよ。どこの都市か知らないっすけど」

……こいつ。私の失言をばっちり聞いてたんじゃないか。

自分の失態に苛立ちが沸き起こると共に、疑問が浮かぶ。

こいつ……もしかしてヤクザを知らない?


「人間のガキなんて買うとこ少ねえからな。足が付いたら面倒だし。

ヤカザは……あー、聞いたことねえな。海のほうじゃねえか?海兵みてえな服着てるし。」

目つきの悪い男が煙草に火を付けながら適当を並べる。

この、少なくとも「そうなんすねー」なんて言いながらあほ面をしているイヌ科の男よりは頭がよさそうなこの男でも、知らない?

セーラー服も知らなさそうだ。学校の制服としては恐らく一番有名なのに。


……嫌な予感が頭によぎる。

ついこの間、そんな感じのライトノベルを鼻で笑ったばっかりだ。

ほら、よくあるトラックに轢かれて異世界へ転生……みたいなやつ。

嫌だ。信じたくない。

正直あんな世界に未練はないけども。


そうしているうちに、二人の男は無情にも出て行ってしまった。

暗闇に、私と日向子だけが残される。

日向子は相変わらず、天使のような微笑を浮かべてドアのほうを見つめていた。


「寝ましょうか」

その微笑がぐるりと私に向けられる。


「あんた本当図太いわよね……。まあ、しょうがないか。家探しして変なもの見つけて殺されたらアレだし」

こんな夜中に出ていくんだ。絶対碌な仕事じゃない。


「うふふ、幽鬼は心配性ですね」

「あんたが無神経なだけよ。」


固い床に横になると、どっと眠気が襲ってきた。

意外と寝られるものだ。そう思った次の瞬間には、夢の中に落ちていた。




夢を、見ていた。


逆さまの校舎。逆さまの教室。

逆さまの空。逆さまの私。

私は学校の屋上から落ちたのだと、すぐに分かった。

けれど、最後の瞬間、固くて冷たく灰色な死神はいつまでもやってこない。

ずっと落ち続けているのか、空中で止まっているのか。それすらも曖昧で。


「やあ」

不意に、真っ白な何かが視界を遮った。

それと同時に、周りの逆さ吊りになった何もかもが消えてなくなる。

私は、逆さまのままだけれど。


「こんにちは、はじめましてかな。」

目の前に現れたのは、綺麗な亜麻色の髪をした少女だった。

純白の白いワンピースを着て、頭にはなぜか猫の耳。

そして、背中には巨大な黒い翼が生えていた。


「……誰よあんた。」

犬耳の次は猫耳かと、大きなため息をつく。

あんなコスプレじみてファンシーな生き物を見てしまったんだ。夢にまで出るのは当然か。


「ボクはマリシエル。この世界と、そこに住む生き物たちを守る女神だよ。」

……女神。

目の前の少女は当たり前のように言ってのける。

その子供っぽい笑みを浮かべた顔は、神様らしさというものはとてもじゃないが感じない。

けれど、妙にすとんと納得してしまう。

脳が、勝手に目の前の存在が神だと認める前に理解してしまうのだ。


「で?その女神様が私に何の用よ。」

神様なんて、私は信じていないのに。

神様に何かをお願いしたのなんて、ちょっとピンチになった時だけだったのに。

その神様が、私に何をしようって言うのだろう。


「うん。ちょっと君に────君と天使日向子ちゃんにお願いをしようと思ってさ」

女神は困ったように眉を下げてまた笑った。




「君たちにね、この世界を救ってほしいんだ」




その────忌まわしい『お願い』は、ポップコーンのような気軽さで告げられた。



〈三話に続く〉

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