第一幕 シロツメクサの天使たち
水色猫
第1話〈薄暗い街と魔法少女〉
私は、本当にツイてない。
私の人生が上手くいったことなんて、17年間一度もなかった。
だから今回もまた、『ツイてなかった』のだ。
「……本当にどこよ、ここ。」
悪臭を放つ麻袋の影に隠れながら、荒い息を整える。
雨はざあざあと煩いだけでなく、容赦なく私の体温を奪っていった。
今は夏だったはずなのに、やけに雨が冷たい。
ぐっしょりと濡れた黒いセーラー服が気持ち悪いが、
今はとてもそれどころではない。
「……なんなのよ、あいつは。」
薄暗い街の中でもよくわかる、燃えるように赤い髪。
それが何かを探すようにくるくると動いている。
その何かとは、私だ。
どうにも記憶が曖昧で、なぜだかは分からない。
けれど、これだけは覚えている。
私は友達────天使日向子(あまつかひなこ)という女の子と一緒に、どこかから落ちた。
とても助からない、死ぬような高さだ。
だから、それが夢でない限り────私は、私達は死んでいるはずなのだ。
それが気が付いたら見知らぬ街に転がっていて、
私はというと身を起こして早々にあの赤髪に見つかって、訳が分からないまま追い回されているのだ。
しかし、あの足の速さは尋常じゃなかった。
ここが視界の悪い街中ではなく、
ただの平地だったら私はあっという間に死体だ。
その点だけは、ツイていたのかもしれない。
「……いた」
そう考えているうちに、頭上から声が降ってきた。
それは、あの赤い髪の男だった。
一見して若く美しい男だったが、頭に巻かれた包帯は汚れ、
橙色の濁った瞳からはだらだらと血が流れていた。
その異様な姿に、体が凍り付く。
(殺される……!)
目の前には鉄パイプを持った男。私は何の武術も習っていない女。
そして武器になるようなものは────
なぜか大事に握りしめていた、黒いおもちゃのようなステッキだけなのだから。
(ええい、いちかばちか!)
ぎゅっと目を瞑って、それで男を殴打する。
確かな手ごたえと、「ぎゃっ」という短い悲鳴が聞こえた。
そして、次に来るであろう衝撃を、震えながら待った。
ああ、私。こんな訳の分からないところで死にたくなかった。
でも、これが夢なら、きっとこれで覚めるはず────
……しかし、その「次」はいつまでたっても訪れなかった。
恐る恐る目を開けば、そこには赤い髪の男が倒れていた。
そして、広がっている……赤い、赤い、水溜まり。
その正体を認識する前に、私は一目散に逃げだした。
「どういうことよ、どういうこと……!?」
見知らぬ街を走りながら考える。
おかしい。人間はこうも簡単に死ぬものじゃない。
私みたいな非力な女が、こんなおもちゃのステッキで殴ったくらいで。
そう、ステッキ!何なんだこのステッキは!
王冠を模したような先端の飾りの中に、薄い亜麻色の宝石が嵌っている。
小さな女の子やゴシック好きの女子が喜びそうな短杖だ。
でも、こんなもの私は持っていなかったはず。
小さいころこういったおもちゃをねだってみても、買ってもらったことなんか一度もなかった。なのに、「これは私のものだ」という実感が、まるで植え付けられたようにある。
不気味に、手に馴染むのだ。まるで何年も使っている筆記用具のように。
その不気味なステッキは、一つの汚れすらなくつやつやとした光沢を見せている。
人を殴って怪我させたなら、多少なりとも血が付いていてもおかしくないのに。
「おーいそこのお嬢ちゃん!こっちこっちっす!」
不意に場違いな明るい声がして、足を止める。
そちらを向けば、茶色の髪の男が手を振っていた。
さっきの赤髪と比べれば、あまりにも馴染みやすい雰囲気の男。
けれど、異様なことに……その男には明らかにイヌ科の耳尻尾が生えていた。
「……なにあれ。コスプレ?」
どうみてもそうだ。いやちょっと待て。今尻尾動かなかったか?
……動いている。すっごく滑らかに動いている。ついでに耳も動いている。
「えーと。ミカゲユウキちゃんって君っすよね!」
イヌ科っぽい男は目の前まで歩いてきて、にこにことそんな発言をした。
いや。いやいやいやいや。
なんでこいつは私の名前を知っているんだ。
確かに私の名前は御影幽鬼だけれども。
こんなファンタジックな男に実名を教えた覚えはない。
「……頭痛くなってきた。」
本当にここはどこなんだろう。
目の前のこいつは誰なんだろう。
もう早く、あんな家でもいいから帰りたい。
帰って、全部忘れて寝たい。
「ええっ、大丈夫っすか!?こっちに温かい珈琲あるっすから、早く早く」
ぐいぐいと背中を押されて、近くのボロ屋へと連れていかれる。
抵抗しようにも、雨の中の逃走劇でぐったりと疲れ切っていて、とても男の力に抵抗できる力は残っていなかった。
「……また誰か連れてきたのか」
天井にぶら下がったハンモックから不機嫌そうな男の声がした。まるで寝起きだ。
部屋の中は暗く、少し奥のテーブルの傍にあるランプが不安げにゆらゆらと揺れている。
「しょーがないじゃないっすか。こんな雨のなかじゃ風邪引いちゃうし。あいつうろついてたら殺されちゃうし。この地区の死体片すの俺なんすよ?俺女の子の肉は歯ごたえなくて嫌いなんすから。 あ、ユウキちゃんはこっちっす!」
ハンモックの上の男と嫌な会話をしながら、イヌ科の男は私を椅子に座らせる。
酷くボロボロで汚い、木の椅子とテーブルだ。ところどころ虫が食っている。
「はい、コーヒーっす!さっき淹れたばっかりだから温かいっすよ!」
イヌ科の男が戻ってきて、私の前にコーヒーを置いた。……砂糖と牛乳はないらしい。
飲めるだろうか。いやいやそれよりも。
「……あの。なんで私の名前知ってるんですか。」
気になっていたことを聞く。そう、こんな訳の分からない土地に私の名前なんて、知ってる人間がいるはずないのだ。
「ああ、それはっすね────」
イヌ科の男が口を開き答えを紡ぐ、その前に。
「わたしが教えたんです」
軽やかな少女の声がそれを遮る。
嗚呼、その声は。何度も何度も、私がうんざりするほど聞いた声は。
イヌ科の男の持っていたランプが、目の前に移動してくる。
そのオレンジ色の頼りない光に照らされて、私の向かい側に座っていた人物が明らかになる。
嫌でも目に付く、綺麗な白。
私と同じ、黒いセーラー服。
私の逆の、左目に付けられた眼帯。
私より薄い青の右目を細めて、彼女は笑った。
「よかった、無事で。」
天使日向子。 私と一緒に落ちたはずの女が、マグカップ片手に笑っていた。
机には白い、おもちゃのようなステッキ。
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