うそつき
Sumi
うそつき
彼はお喋りな人だった。高級そうなレストランでグラスを傾けながら、なんでもない夕方に彼と手を繋いで歩きながら、あるいは、彼と付き合うようになってから毎晩の習慣となった電話で。柔らかい声が言葉を紡ぐのが、わたしはとても好きだった。
好きだったのだ。
週末?うん、空いてる。彼は思案するように、言葉をゆっくりと区切って言った。ワイングラスを傾けた拍子に、真紅の液体がたぷんと跳ねた。零れそうだな、と思ったけれど、ぎりぎりセーフ。ほっとして息を吐くと、彼もまたその瞳に笑みを浮かべていた。
「なにかあるの?」
問いかけられた質問に、ええ、とわたしは頷いた。
「うちの両親が、あなたに会いたいと言っていて。」
だから、仕方なく、という部分もあった。嘘ではない。だけどそれ以上に、彼との関係をはっきりさせたいという思いが、わたしの中にあったのもまた事実だった。20代も後半になって、周りの友人らが次々とゴールしていくのをわたしは焦るような気持ちで見ていた。
今まで彼とそんな話をしたことはなかったけれど。結婚するなら、この人とがいい。そう、心の底から思うから。
彼は穏やかに笑っていた、ように思う。わたしはぐるぐると巡る自分の思考に蹴りをつけるようにして、彼に告げた。
「じゃあ、週末ね」
その晩、いつも欠かさず掛かってきた電話が来なかった。週末、彼の姿は待ち合わせ場所になかった。
そうして彼は、突然消えてしまったのだ。
頼りの電話は繋がらないし、メールも届いているのかわからない。不安で不安で堪らなかった。もし、何かの事件に巻き込まれていたら──?彼の家に行こうとして、ようやくわたしは彼の住所さえ知らないことに気付いたのだ。もしかしたら、自分は騙されているんじゃないか。心に浮かんだそんな考えを打ち消すように、自分を叱咤する。
あまりその方面に詳しくないわたしでも知っている、大きな不動産会社に勤めていると彼は言っていたじゃないか。まずはそこに電話してみよう。
結果は散々だった。
受付の女性の、困惑した声が耳に残っている。
『○○、ですか?そのような名前の者はおりませんが。』
それを聞いたとたん、スマホがするりと手の中から抜け落ちていった。どうかされましたか、という女性の声が聞こえる。返事をしようとして慌てて拾おうとしても、拾えない。ふと手を見ると、指の先が細かく震えていた。
ねえ。なんで。じわりと涙が滲む。やっとのことでスマホを拾い上げると、わたしは早口で謝って電話を切った。途端に部屋の中に静寂が訪れる。わけがわからなかった。わたしの恋人だったあの人は、どこの誰だったの。
──小さい頃は、本が好きな子供だったなあ。家の近所に図書館があって、毎日のように通ってた。あ、きみも?子供のときに会ってたら、きっと仲良くなれていたね。
その言葉に、運命かしらと胸を躍らせたことがある。
――家に入る前、振り返ってみたら綺麗な夕焼けが見えたんだ。本当に綺麗だから、君と見たかった。
そんな彼の些細なお喋りが好きだった。
──今日も仕事が大変だったよ。面倒な客が来てね。
でも二人で過ごした時間は、作り上げた思い出は、どれもこれも嘘だったのか。
詐欺ではない、と思う。だって、わたしはあの人にお金を貸したりしていないもの。じゃあどうしてあの人は嘘をついていたの、ともう一人のわたしが問いかける。結局わたしは彼を信じたいだけなのだ。
数ヶ月後、わたしはひとつのアパートを見上げていた。ペンキがはがれ、今にも崩れそうな、そんな建物。よし、と息を吐いて階段を上っていく。ひとつ足を進めるたびに、カン、カン、と硬質な音があがった。それと呼応するように、心臓が早鐘を打ち始める。
ここまで来るのは、簡単な道のりではなかった。彼は駅前のタワーマンションに住んでいると言っていたから、駅前のタワーマンションを調べた。彼は、どこにもいなかった。そうやって、彼との会話の一つ一つを思い出し、手繰り寄せて。やっとここまで辿り着いたのだ。図書館が隣にある、このアパートに。
わたしはドアの前に立つ。ここに来て、決心が揺らぎ始めてきたのを感じていた。彼がここにいることは間違いない。だけど、会って何になるというのだろう。わたしは彼のことが好きで、信じたくて、ただその一心でここまで来たけれど、彼のほうはどうなのだろう。どうして、嘘をついていたのだろう。
帰ってしまおうか、とドアに背を向ける。そのとき、わたしの目に飛び込んできたのは。
学生たちの、楽しそうにはしゃぐ声。夕方の、少し肌寒い空気。その中で、空がゆっくりと紅色に染まっていく。綺麗な、綺麗な夕焼け。じんじんと目の奥が熱くなるのを感じていた。いつかの彼の言葉が蘇る。
――家に入る前、振り返ってみたら綺麗な夕焼けが見えたんだ。本当に綺麗だから、君と見たかった。
これが彼の見ていた世界なのか、と思った。これが彼の住んでいる世界なのか。これが彼の隠したかったことなのかもしれない、とも。
わたしはひとつの仮説を立てていた。なんとも馬鹿らしい希望的観測だけれども、わたしはそれに縋っていた。
もしかしたら、彼はわたしに見栄を張っていたのかもしれない。彼は本当は貧乏で、でもわたしに──好きな人にそんな格好悪いところを見せたくなくて。けれど、わたしの両親と会うことになったから、自分の吐いていた嘘が抱えきれないことに気付いて、逃げた。
もしも仮説が正しかったなら、とわたしは考える。馬鹿みたい、そんなことで嫌うと思ったの、って言ってあげようと。そうしてもう一度最初から始めるのだ。
空は夕方から夜に移り変わろうとしていた。太陽はほどんど見えなくなっている。綺麗な夕焼けも、もうすぐ終わり。彼と作った思い出は、過ごした時間は、会話は、すべて嘘ではなかった。彼の気持ちの中に、真実だってあったはず、そう思うから。手を伸ばす。結局わたしは彼を信じたいのだ。だって彼が好きだから。黒いボタンに指が触れる。ピンポーン、と音が鳴った。そしてドアが開く。
うそつき Sumi @tumiki06
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