灯台と猫

蓮見庸

灯台と猫

 南からの強い風が吹き、私はあわてて帽子を押さえた。

 真っ青に晴れ渡った空には雲ひとつなく、カモメが二羽、翼を広げたまま浮かんでいたかと思うと、あっという間に空の向こうへ流されていった。

 私は木のベンチから立ち上がり、大海原に向かって刈られず伸びたままの芝生の上を歩いていく。一歩進むごとに、視界に入る水平線が広がっていく。どこまでも続く水平線、一隻の船も島影も何もない。ここはもう岬の突端、細い丸太で作られた柵に手を置き崖下を覗くと、波が荒々しく打ち寄せているのが見えた。しかし波の音はここまでは聞こえてこない。


 季節はもう秋へと向かっているが、私はやっととれた遅い夏休みに、電車を乗り継ぎ東へ東へとあてのない旅に出た。都会の生活や人間関係に疲れた、というわけではないが、ひとりで旅に出たくなった。

 電車はすでに海岸の近くを走っているはずだが、なかなか海は見えてこない。子供の頃の記憶では、確か車窓から海が見え、そのことを絵日記に書いたはずだが、違う場所、違う電車だったのだろう。海が見えるのを期待していただけに少し残念だった。

 トンネルを越え目的の駅が近付いた頃にはほとんど乗客もなく、レールを踏む音と車内アナウンスがよく響いていた。

 駅で降りたのは私ひとりだった。屋根のないプラットフォームを少し歩いただけで汗が吹き出してくる。無人の改札をくぐり、駅前で車を借りて、小さな灯台のある岬へと向かった。今から思えばこんな小さな田舎駅で車を借りられたのはとても幸運だった。夏の日差しは容赦なく車に降り注ぐ。私は目一杯クーラーをかけ、ゆっくりとアクセルを踏んだ。

 途中道を間違えはしたものの、やがて岬と灯台の案内看板があらわれ、私はハンドルを切った。両側から覆いかぶさるように茂った草木がトンネルを作り、その鬱蒼とした道を抜けた先に、小さな白い灯台と駐車場が見えた。


 *


「すみません、写真を撮ってくれませんか?」

 海を眺めていた私の後ろから声がした。風の音が耳をふさいでいるにもかかわらず、その声はよく聞こえ、まるで直接心に語りかけてくるようだった。振り向くと、そこに立っていた彼女は、風で暴れるショートボブの髪を左手で押さえ、もう片方の腕には日傘をかけ、そしてスマートフォンを手にしていた。私はあたりに目をやったが、ほかには誰もいない。

「写真、お願いできませんか」

 彼女は少し戸惑った顔でもう一度繰り返した。

「あ、はい」

 私はあわてて答えた。彼女が手にしているスマートフォンは、赤い手帳型のケースに包まれ、星の形をしたキーホルダーが揺れていた。そして彼女はその手帳ケースを広げながら私の胸に差し出し、画面を指で示しながら、

「ここをタッチしてください。海が入るようにお願いします」

 と言い、私から離れていった。

 私は手渡されたスマートフォンを構え写真を撮ろうと画面を見るが、まわりが明るすぎて何も見えない。サングラスを外して胸元に掛け、画面に顔を近づけるように見つめていると、ようやくぼんやりと風景が見えてきた、ように思った。画面からわずかに目線をずらすと、彼女はいつ撮られてもいいようにポーズをとって待っている。髪を押さえるのは諦めたのか、薄いグレーの髪は風に流されるままとなり、顔が半分隠されている。左手にはめているブレスレットが光った。

 私はなんだか少し恥ずかしくなり声をかけた。

「すみません、ちょっと待ってください。…はい、撮りますよ」

 カシャリ。画面は相変わらず見にくく、撮れているのかすらよくわからない。

「念のためにもう1枚」

 カシャリ。

 私は彼女に歩み寄り、彼女もまた私に歩み寄り、私はスマートフォンを手渡した。そしてサングラスをかけ直しながら、写真がうまく撮れているかどうか聞いた。彼女はスマートフォンを顔に近づけ操作していたが、

「ありがとうございます。きれいに撮れてる」

 と言い笑顔を返してくれた。

「いい天気ですね」

 私はその笑顔に引き込まれ、思わず声をかけていた。

「そうですね。でも今日はちょっと風が強いみたい」

 彼女は日傘を差し、海の方を見たまま、困った風ではなく、少し楽しんでいるようにそう答えた。その視線の先にはいくつかの白い雲が湧き上がっていた。


 その時、突然海から強い風が吹きつけ、私の帽子が芝生の上に落ちた。拾い上げようとかがんだ時、空を見上げている彼女が目に入った。私もつられて空を見上げると、彼女の日傘が宙を舞っていた。

「あっ!」

 私は声を上げ、日傘に向かって駆け出していた。

 日傘は高く舞い上がり、そして灯台の敷地内にふわりと落ちた。手にした日傘はとても軽く、持ち上げるとまた飛んでいってしまいそうだった。

 少しして彼女も小走りに駆けてきた。

「わたし、突然のことで何が何だかわからなくなって。ありがとうございます。あ、これ」

 彼女は私が拾い忘れた帽子を手渡してくれた。

「こちらこそ慌ててしまって…。すみません」

 展望台から少し離れただけで風はほとんどなくなった。夏の太陽はじりじりと照りつけ、奥の林からはセミの声が耳鳴りのように聞こえてくる。

 そしていつからいたのか、塀の上に一匹の白い猫が座りこちらを見ていた。

「この灯台のこと知ってますか?」

 彼女が聞いてきた。

「いえ、何かあるんですか?」

 私は彼女の目を見つめ答えた。

「昔はもっと海の近く、さっきの展望台のあたりにあったんだけど、あそこは波当たりが強くて崖が崩れてしまうかもしれないっていうので、今の場所に移されたの。もう使われていないんだけど、昔は夜になると光って綺麗だったの。好きだったな、あの頃の灯台」

 塀の上の猫はもういなくなっていた。


 *


「ご注文はお決まりですか?」

 店員が愛想なく注文を取りにきた。

「アイスコーヒーとクリームソーダをください」


 私は彼女に教えてもらい、海の見える喫茶店へやってきた。ここは地元の人以外ほとんど知らないという穴場だそうだ。私は思い切って彼女を誘ってみると、すんなりと受け入れてくれた。


「一緒にお持ちしてよろしいんですか?」

 店員は怪訝そうな顔をして尋ねる。

「もちろん」

 私が答えると、店員はすぐに踵を返して、奥へと入っていった。

 店内は木目調で統一された暗く落ち着いた雰囲気だった。クーラーは入っていないようだが少しひんやりとしている。そして、彼女の後ろにある窓からは海と砂浜が見えた。客は私たちだけのようだ。

「はいどうぞ」

 店員は私の前にアイスコーヒーとクリームソーダを、そしてレシートを脇に置き、ごゆっくりどうぞと言い去っていった。

 私はクリームソーダを彼女の前に置いた。窓からの光を受けて黄緑色の小さな泡が光っている。彼女はそれをおいしそうに口にした。

 彼女はこのあたりのいろいろなことを教えてくれた。けれど自分のことはあまり話さず、彼女に関することはほとんどわからなかったが、私も聞くことはしなかった。

 私が席を外すと、後ろからカランカランという扉のベルの音が聞こえてきた。人の気配はなかったが、誰か客が来たのだろうと思いつつ戻ってくると、彼女の姿が見えなくなっていた。

「すみません。ここにいた人、どこに行ったか知りませんか?」

 店員はこちらをちらりと見て、

「さあ」

 と相変わらず愛想のない返事を返してきた。


 *


 喫茶店を出て砂浜へ下りると、簡易作りの海の家があった。今は誰もいないが、休日にはまだ営業しているのだろう。入口にロープを張っただけで中はすぐ使えるようになっている。

 私は軒下のベンチに腰掛け、ぼんやりと海を眺めていた。

 彼女はどこへ行ってしまったのだろう。やはり誘うべきではなかったのかもしれない…。


 こつん。天井の波板から音がした。

 こつん、こつん。雨粒が落ちてくる音だった。

 淡いベージュ色の乾いた砂浜に、雨の跡が灰色のしみとなって広がっていく。

 空は黒い雲に覆われ、しだいに目に映るすべてのものがモノトーンに変わっていった。

 やがて雨はざーっと音を立てて降りはじめた。遠くからは雷の音も響いてくる。

 きっとにわか雨に違いない。すぐにやむだろう。私はそう思いしばらく待つことにした。


「にゃあ」

 私はその鳴き声に振り返ると、そこには雨に濡れた白い猫が座っていた。赤い首輪をはめ、星の形のチャームが揺れていた。灯台で見た猫と似ているような気がした。

「こっちへおいで」

 私は声をかけてみるが、その猫はこちらを見つめているだけで、すました顔で座ったまま動こうとしない。

「おいで」

 私は再び声をかけてみるが、目をぱちりとさせ、相変わらず近寄ってはこない。

 私と猫はしばらく見つめ合っていたが、

「にゃあ」

 猫はひと声鳴き、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら建物の後ろへ消えていった。私は追いかけてみたが、もうどこにもその姿は見えなかった。


 雨はやんでいた。雲の割れ目から強い光が差し込んできた。その光は灰色の海を照らし、岬の灯台へと一直線に続いていた。そして光は徐々に雲を押し広げ、青空が広がってきた。


 小さな白い灯台の上を、二羽のカモメが飛んでいく。


 ひと夏の夢。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

灯台と猫 蓮見庸 @hasumiyoh

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説