第5話 保健室

海は1年生の時、数カ月だけ保健室に入り浸りの日々を過ごしていた事がある。

なれない環境と、制服ギャップとのイジりで今よりも心が耐えられなくなった時期があったのだ。

当時、保健室に行くと先生は何も聞かずにただ居座ることを許してくれた。

海はそこで教科書を使って自習をしたり、参考書の問題を解いたりして離れていてもみんなと同じように勉強を行っていた。

時々、授業の無い先生が顔を見に来てくれて、教科書の解説をしてくれるので

個別で受けるテストも平均点は取れるほどだった。

海が教室に戻れたのは、小春の毎日の訪問だった。保健室に登校し、保健室から帰っていく海に、小春は毎日会いに来て他愛もない話を2つ3つしてまた教室に戻る日々を送っていた。


「こんにちはー…」


海が久しぶりの保険室のドアを開けるとそこに先生は居なかった。

鍵が開いているということはすぐに戻ってくるだろうと、勝手知ったる保健室のイスに腰掛けた。

教室の椅子とは違いキャスターがついている白い椅子は海が腰掛けると少しだけ後ろへと下がった。


くるりと見渡すと、どこもかしこも白くて時々クリーム色。

壁にはたくさんポスターが貼ってあり、タバコはだめだよ、薬物は怖いよ、と年中無休で訪問者に訴えていた。


その時、ガラッとドアが音を立てて開いた。

先生が帰ってきたのかと海が勢いよく振り向くと、そこには元凶粟島先生が立っていた。


「あれ??先生は?」

「…今いません」

「あー…、困ったなぁ」


粟島先生は頭をガシガシとかき回すと、保健室の奥にある布団を抱えて出ていった。


(なに?なに??なんでくるの??)


逃げてきた相手が現れたことによって、海の心は大きく揺さぶられた。ようやく引っ込んだ涙が

また瞳に返ってくるのを感じていた。

海の心がぐるぐるとオアシスを侵される恐怖に怯えている間に粟島先生は保健室とどこかを行ったり来たりしていた。


「そういえば、随分男の子っぽい性格なんだってね。皆がスカートの制服は可哀想!なんて言ってたよ」


先生がいない保健室に二人きりになったのが気まずかったのか、何やら探しものをしながら粟島先生は海に話しかけた。


海は声が出なかった。


いま、そのことでこころが痛いのに

何故あったばかりのあなたに…


言いたいことはたくさんあった。

きっと誰かの入れ知恵なのだから、ごまかして笑い飛ばして、冗談の一つでも返してあげればきっとこの場を乗り切れるだろう。

頭では理解していても、海の心は声を音にしないし、唇も無意識にキツく歯で噛まれていた。


なにより、海の大きな黒い瞳から大きな水滴がとめどなく溢れていた


粟島先生が振り向いたとき、海は顔をそむけていたが、その瞳から涙が溢れてるのは隠しきれていなかった。

粟島先生は驚き、ようやく見つけた探し物を机に乱暴に置くと海に駆け寄った


「え?あ、俺のせいかな?」


海は顔をそむけたまま首を横に振った。

粟島先生のせいだけど、粟島先生のせいじゃない。入れ知恵した生徒のせいだということは海にも充分分かっていたし、海がそのことで悩んでいることは誰も知らないのだからここで粟島先生を責めるのは間違っているように思えた。


「ごめん!」


海は違うと首を振っていたが、粟島先生は必死に頭を下げていた。

手を体に添わせて横に置き、体はほぼ90度。

大人が必死に謝るのを始めて見た海はその姿になんの反応もできず、ただ驚き見つめていた。


「どの部分で悲しませてしまったか、わからないんだけど。でも、俺の言葉で泣かせてしまったなら俺が悪かった。ごめんなさい」


粟島先生は海が何に泣いているかわからないで謝っているようだ。普段なら、何が悪いのかわからないのに謝らないでと言ってしまいそうになるが、海は粟島先生の ごめんなさい という一言に そんなに嫌悪感は抱けなかった。


「ごめん…な?」


海が呆然として返事がないことに、まだ泣いていると判断した、粟島先生は恐るおそる顔だけを海に向けた。


「だ、大丈夫…です」


粟島先生と目が合い、海が絞り出した言葉は涙で滲んでヨレヨレだったが

粟島先生はその返答にようやく謝る体制をやめ、今度はその場にしゃがみ込んだ。


「よかったぁー、海に嫌われたらどうしようかと思ったよ」


粟島先生がつぶやくと、いきなり名前で呼ばれた海の目が大きく見開いた。


「じゃあ、ごめん。俺行かないといけないから」


よほど安心したのか、大きな目でこちらを見ている海の変化には触れずに先程机においた荷物を持つと、粟島先生は大きな手を海の頭にのせた。


「本当にごめんな。涙止まって安心した。また話そうな」


そう言って頭を少し撫でると、粟島先生は保健室から出ていった。

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