溺れる魚
篠岡遼佳
溺れる魚
木も草も生えていない、真っ平らな土の地面。
そこにある、山積みになったもののとなりで、泥々の迷彩服を着た男が二人、背中合わせで座っている。
片方は機関銃を隅から隅まで点検しており、もう片方は、胸ポケットから表紙がぼろぼろの、手のひらに載る大きさの本を出した。レンズが片方割れている眼鏡を、つい、と指で押しあげる。
機銃を眺めることに飽きたのか、片方が話しかけた。
「――なあ」
「なんだ」
「お前、よくこの状況で本が読めるね」
「ん? それは皮肉だな?」
「当たり前だろ。さっきのすごい砲撃となんか雲が上がったあと、誰もここに来ないじゃないか」
目に見えるような空気の震えと、その後のとてつもない爆発音。
遠くで何かが起こったことはわかった。
だがそれっきり、敵も味方も現われなくなった。
そしてここに、二人以外動くものはなかった。
本を読む男はちら、と音のしていた方を見やり、すぐ本に目を戻した。
「焦っても仕方ないだろ。こんな負け戦でなんとかなったんだ、敵が来るまで俺は働く気はない」
「そうは言っても……」
遠くの山から風が吹いてくる。
ぺらり、ぺらりと紙片を読む音まで聞こえてくる静けさだ。
「……ずっと気になってたんだが、なに読んでるんだ。それ、いつも持ってるだろ」
「んー?」
「お前さ、暇があればすぐに何かを読むくせがあるよな。飯の時はレーションの裏っかわ読んでるし、作戦説明に飽きると以前の作戦説明のノートを読んでる」
「意外だな、気付いてたのか」
「意外は余計だ」
機関銃を持つ男は、振り返って、眼鏡の男の手元を見た。
「――おい、これ何語だ?」
「知らん。本屋の店員によれば、かなり遠い場所から、愛好家の手で持ってこられたらしい。ごく簡単な言葉で書いてある、詩だそうだ」
「どんな内容?」
「溺れる魚の話」
「なんだそれ」
「魚が溺れてるんだよ。すごく苦しい、誰か助けてくれ、と書いてある。」
「またそういうの読んでると、隊長に”根拠のない空想の産物だ! 風紀を乱すな! バツとしてスクワット50!"とか言われるぞ」
「馬鹿を言うな。空想にはすべて根拠などないだろう。あってどうする、空想なんだぞ。なにしてもいいんだから」
「まあ、そうだが……。
で? 溺れる魚はどうなるんだ?」
「そこらの鳥に食われる」
「マジか。自然界は厳しいな」
「でも、鳥は飛べない鳥になる。「できない」呪いを引き受けてしまったから」
そこで、機銃の男は俯いた。
「――「できない」呪いなら、思い知ってる」
「そうだな、お前は、銃が撃てるけれど、人が殺せない」
二人の側に積み上がっているのは、味方も敵も一緒くたにした死体の山だ。
塹壕も、クソとしみ出してくる水と泥だらけでもう二度と入りたくない。
相当な混戦だったが、どういうわけか、二人は生き残り――
この死体の山を、二人で作った。
この戦いは一体何なのだろう。
国のためとはいえ、こうして局所的に見れば、歩兵たちが銃とナイフを持って、一人でも多くの敵を殺そうとしているだけだ。
「――では敵とは何だ? 同じようにものを考え、同じように生き、メシを食い、眠る奴等と、俺はなにが違うんだ?」
「そんな風に考えてはいけない」
眼鏡の男は指を立てて手を振り、
「目を閉じて、心を
「じゃあ、人を殺せるお前はどうなんだ」
眼鏡の男は瞬きし、真っ黒な瞳で答えた。
「――最初に誰かを殺したその日に、何かが始まった」
終わったのかもしれないけれど。
「あーあ、俺は飛べない鳥をいつの間に食っちまったんだろうな!」
「さあ。それこそ根拠のない空想だ。
それに、飛べない鳥は犬に食われて、犬は吠えない犬になったぞ」
「犬の肉だって配られたじゃないか、肉が足りなかったから」
「そういえば、そうだったな。割と食いでがあった」
「やめようぜ、メシの話、腹が減る」
そう言いながら、機銃を使って、殺せない男は立ち上がった。
……俺が人を殺したら、魚は溺れずに泳げるようになるんだろうか。
――それはつまるところ、人を殺すのが人だということだ。呪いでも、なんでもなく。
殺せない男が手を差し出すと、眼鏡の男はまた大事そうに胸ポケットに本を入れ、手を取って立ち上がった。
そろそろ、死臭がしてくる頃だ。虫にたかられるのは嫌だから、ここから離れよう。二人はその意見で一致した。
ついでに、自分たちが所属する部隊は、この分だともうなくなっているのではないかと気付いた。
手を差し出した男が悩む。
「ううん、そうだな。どうしようか?」
「俺は国を出ようかと思っている」
「おいおい、いいのかよ。嫁さんどうするんだ」
「嫁なら死んだよ。空を飛ぶヤツはすごいな、掃射で町中の壁が穴だらけになった」
「そうか……悪いこと聞いた」
「気にするな。俺は、もう、――気にしてないから」
無表情で瞬きをしながら、眼鏡を外し、男はそう言った。
――命、生きること、食うこと、死ぬこと、殺すこと。
脳裏に、言葉の羅列が浮かんだ。
「これって敵前逃亡になるのかね」
「まあ、いずれにせよ、殺せないお前は全然ダメで、どっかもっと前線でどかーんと地雷でも踏むしかないんじゃね」
「軽く言ってくれるなぁ」
「じゃあどうする?」
「ふつうに暮らしたい」
「どんなふうに?」
「……死んだら墓に埋めてほしい」
「……そうだな、それは同意だ」
男たちは、せめて墓守の居る場所まで行こうと話し合い、地図を広げて、南南西を目指すことにした。
国境近くに、村があるらしい。
……兵士は、嫌がられるだろうか。
本を持たない男は思った。
その時、拒絶されたら、俺はどうするんだろう?
――人を殺すのが人だというのなら。
そうか、俺は、俺を殺すしかないのか。……たくさんの意味で。
男はそう確信を持って、頷いた。
本を持つ男は、地図を畳んで、コンパス頼りに方向を定めた。
村まで行けるのか、食料は、水は持つのか、まったくわからない。
ただ、ここではないところになら、もっと優しい安息があるはずである。
二人とも、そう信じた。
歩き出す。
――南へ向かえば、きっと暖かな季節が、待っている。
溺れる魚 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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