ホームレスと迷い犬

真乃晴花

ホームレスと迷い犬

 ぽかぽかと暖かい、冬の公園のベンチに俺は座っていた。

 なんとかなるって、思ってた。今、生きているのだから、もしかしたら、なんとかなっているのかもしれないけれど。

 派遣契約が満了してから半年が経っていた。たった半年だ。ハロワへ通って、そんなことをしているうちに、すぐに派遣会社から電話が掛ってきて、またすぐに次の派遣先へ就業できると思っていた。まだ、二十代だったし。だけど派遣会社から電話が掛ってくることはなかった。こっちから電話したら「資格もなにもなくて、事務経験三年では、どこもないですよ」と言われた。登録していた派遣会社すべてがそんな反応だった。事務職の倍率は八倍以上。経験三年では、太刀打ちできない現実。希望職種を変えては、とハロワの職員さんに言われた。「営業のお仕事ならたくさんありますよ」とのこと。俺に、営業の仕事ができるのか? やってみなくちゃ分からない、なんて良く言うけど、この不況の中、営業職なんて辛いだけじゃないのか? だから、誰もなりたがらなくて、倍率が低いんだろう? ていうか、俺のやりたいことって何だった?

「なんだったっけ」

 俺は、声に出してつぶやいていた。

 昼の公園のベンチに座って、頭を抱えるしか、もはや時間のつぶしようがなくなっていた。

 両親は他界済。田舎の家や土地は相続税が払えなくて売った。生命保険は大学の授業料とか生活費に消えた。

 やりたいこと。上京すれば、漠然と華やかな生活が送れるものだと思ってた。そんなことを夢見ていた。でもさ、街とか歩いてると、まあ楽しそうな奴ばっかで。そんな中で、そうじゃない俺って、なんなの? 何がいけなかった? 大手企業ばっか受けて、落ちまくって、夢破れたのがいけなかったのか?

「夢ってやっかいだよな」

 きっと、元々都心に住んでる奴らは、現実を知っているんだろう。田舎からのこのこ出てきた人間は、何も知らなくて、知ってからじゃ遅くって、教えて欲しかったって言ったって、きっと田舎もんがどれだけ夢見てるかなんて知るはずもなくて、バカ呼ばわりされるだけなんだろう。そんなだから、今の状況を言えるような友達もいなくて。田舎にも、いったいどんな顔して戻れるっていうんだ。そもそも、田舎に家ないし。

 家がないのは、今もだけど。

 三年で少しずつ貯めた預金も底をつき、というか、失業手当で生活ができるはずもなく、失業手当が貰える三ヶ月が過ぎるとあっという間になくなった。携帯電話も止められた。部屋も追い出されて、最初のうちはネカフェで寝泊まりをしたが、それも難しくなった。

 部屋を追い出される前に、生活保護申請をすれば良かったのか? 申請したら、受理されたのか? あれって、結局のところ「あなた健康ですよね? バイトでもなんでもできますよね?」って言われて終わりなんじゃないの?

 もはや後悔しか残っていない。

 どんくさい人間は、この社会で生きにくい。

 なんのために働いていたのかすら、分からない。

 タクシーに無賃乗車して刑務所に入った方がマシなんじゃないか? そんな考えが頭を過る。

 こうしてじっとしているだけでも腹が減る。刑務所は三食も食べられるっていうのに。

 働かざる者食うべからず。

 もっともだと思う。昔からある言葉だ。

 昔の人間だって、夢なんか持てずに奉公に出されたり、必死で働いていたはずだよな。食べるため、生きるためだったんだろうか。

 時代が変わって、目的とか夢とかないと生きられない世の中になったのかもしれない。

 はあああ、と長いため息をついた。 

 ため息をつくと幸せが逃げる、なんて迷信もあったっけ。前向きに前向きに。笑う門には福来る。

 こんな状態で笑えるやつは、神経が図太いやつで、そういう奴ほど意外にこういった崖っぷちの状況にはならないもんだ。

 繊細なんだ、俺は。

 つか、寒い。まだ昼なのに。

 そのうち凍死するんじゃないだろうか? それでもいいか。いっそのこと。

 凍死しそうになると、熱くなって全裸になるっていうの、ホントかな。マッパで発見はされたくないな。

 あと、俺には、どれだけの選択肢がある?

 あー、どうしようかな。

 俯きすぎて、頭に血が上ってくる。

 顔を上げると、冬晴れの太陽が目に眩しかった。

 そして、なにやら寄ってくる生物が視界の隅に入った。

 左手側から何か緑のロープのようなものを引きずって、地面をくんかくんか嗅ぎながら歩いてくる。

 大きさからして、犬だろう。

 俺の座るベンチまで来る。

 首輪をしていて、ロープはリードなんだろう。持ち手の輪っかになっていたであろう部分が外れてしまっている。飼い主の手を離れて、やったぜ! 自由だ! って脱走したんだな。

 足元までくると、犬は俺を見た。そして、そこに座り込んだ。

 はっはっはっと舌をベロンと出して息をしている。

 脱走して、疲れたんだろう。ダメ犬なんだな。

 毛が長めでふさふさの、茶色い犬だった。耳は立ってて、そしてなぜか、顔が黒い。柴犬ではなさそうだ。雑種だな。

「しかたないな」

 俺は立って、何か皿になりそうなものを探した。ちょっと歩いて探すと、おでんが入っていたと思われる、プラカップが落ちてた。水飲み場でちょっと洗ってやって、俺もついでに水を飲んで、そのカップに水を汲んでベンチまで戻ろうとした。ら、すでに足元に犬がいた。期待の眼差しを向けて、しっぽを振っている。カップを地面に置いてやると、すごい勢いで水を飲み始める。

 なんとなく、俺はその犬の頭を撫でた。

 しかし、このままでいいのか。

 犬には帰巣本能があるというから、雨とかで匂いが消えてなければ脱走しても自力で帰れるはずだ。だけども、このままウロウロと歩いていたら、ちょっとビビるよな。どっかに迷い犬として届けた方がいいのか。

 なんといっても、暇だしな。

「つうか、おまえ、あったかそうだな」

 首のあたりを撫でようとして、思いつく。

 首輪とかに飼い主の連絡先が書いてあるかもしれない。

 ぐるぐると回して確かめてみる。けれども、どこにも書いていない。鑑札もついていない。

「おいおい」

 俺は飼い主に密かにつっこむ。

 鑑札がついていないということは、狂犬病予防注射を打っていない可能性があるということだ。もし、ひとに噛みついたとしたら、狂犬病感染につながる可能性がある。

「捨て犬、とかじゃあ、ないよな?」

 改めて犬の顔を見てみると「なんですか?」と言っているような表情に見える。

「雑種じゃあなあ」

 ペットブームは続いている。こんな雑種は珍しくなった。

 とりあえず、リードを持って公園を出ることにした。

 公園の入口近くにあった地図で交番を探してみる。

 公園のすぐそばの、交差点の角に交番はあった。

 ただし、無人の。

『御用の方はこちらへ連絡して下さい』と書いてある紙が貼ってあった。

 なんというか、掛けにくい。

「もしもし、すみません」

『はい、こちら駅前交番です。どうされました?』

「すみません、迷い犬がいるんですが」

『ああ、迷い犬は保健所の方へお願いします。交番じゃね、ちょっと預かれないんだよね』

「え、保健所ですか? 保健所ってどこですか?」

『保健所は、えっとね、この電話番号』

 お巡りさんが言う電話番号を慌ててめもる。

『ごめんねー。じゃあ、また何かありましたらご相談下さい』

 なんだよって思いながら、俺はまたその電話できいた番号へ掛け直す。

 本当は、この電話で掛けちゃいけないんだろうけど。

『はい、こちら多摩東保健所でございます』

「すみません、迷い犬を保護してるんですけど」

『あ、迷い犬ですかあ。すみません、迷い犬等の動物は、当保健所ではお預かりしていないんです。動物愛護相談センターへお願いします』

「えっと、動物愛護センターってどこですか?」

『お電話番号をお知らせしますね』

 俺はまたメモをして、やっぱりなんだよって思いながらその電話を切った。そして、また掛け直す。

『動物愛護相談センターでございます』

「すみません、迷い犬を保護したんですけど」

『ご連絡ありがとうございます。どれくらいの期間、そちらで保護できますでしょうか?』

「は?」

『こちらで預かるとしても、期限は限られておりまして、そちらで保護を継続できるようであれば、なるべくお願いしたいのですけれど』

「いえ、あの、ちょっと保護できないんですけれど」

『そうですか。こちらへはお越し頂けますでしょうか』

「いえ、それもちょっと」

『わかりました。ではご住所をお願い致します』

「えっと、住所は……府中公園です」

『お名前とお電話番号をお願い致します』

「あ、電話ありません」

 ここからなんだか怪しくなってくる。

『……では、お名前を』

「清水泰祐です」

『お引き取りするのに現金二万円をお支払い頂くことになりますが、よろしいでしょうか?』

「え?」

『エサ代等、諸費用を頂いております』

「えっと、持ち合わせがないんですけれど……」

『大変申し訳ないのですが、頂けない場合はお預かりできません。無償で預かってくれる施設もありますので、お手数ですが、そちらの方へお問い合わせ頂けますでしょうか?』

「たとえば、どこの施設でしょう。電話番号を教えていただけませんか」

『お調べして掛け直しましょう。お電話番、号、は』

「すみません、無人交番から掛けていて……」

『あ、そうなんですね。では、明日以降にまたお掛け直し頂けますでしょうか?』

「あー、はい。分かりました」

『保健所の方へはお電話されましたか?』

「えっと、したんですけれど、保護してないって言われまして」

『そうなんですね。保護している保健所もありますので、そちらにもお電話して頂きまして、保護された犬の特徴などを伝えて下さい』

「そこでは預かってもらえないのでしょうか?」

『預かってもらえるかもしれませんが、飼い主さんが見つからなかった場合には殺処分となってしまいますので、できれば、動物愛護センターへ預けて頂けると、私どもと致しましてはその方が』

「そう、ですよね……」

『わたくし、相談課のアイザワと申します。飼い主さん、すぐに見つかると良いですね。では、お電話お待ちしております』

「すみません、お願いします」

 電話を切った。お役所対応でなくてほっとしたけど、なんだかどっと疲れた。

 俺のそんな疲労もしらないで、犬は伏せの状態で退屈そうにしていた。

 おまえ、殺されちゃうかもしれないんだよ?

 飼い主さんじゃなくても、ちゃんと世話のできる、飼ってくれるひとが見つかったらいいよな。俺みたいな、ホームレスじゃなくてさ。



 無人交番を出て、公園へ戻った。もしかしたら、この犬を知ってる人がいるかもしれない。

 公園へ入ると、エプロンをしたおばさんが数人、井戸端会議をしていた。近寄ってみる。

「すみません、この犬をここで保護したんですけれど、お心あたり、ありませんか?」

 聞いてみると、誰もが首を横に振った。

「飼い主さん、見つかるといいわねえ」とか言っておきながら「あ、私買い物に行かなくちゃ。奥さん、じゃあ、また。後で電話するわ~」と、いかにも面倒ごとには関わりませんと言っているかのように去っていく。「あ、私も~」と次々と解散して、誰もいなくなった。

「薄情だ」

 とかつぶやきつつも、もし自分だったら、他人事で、やっぱり「見つかるといいですねー」で終わってるんだろうって思う。

 俺はまた犬を連れて、ベンチに座る。

 しばらくはそこでぼーっとしていた。犬も、どこに行こうとするわけでもなく、ずっと足元に座っていた。どういうつもりなんだろうか。

 二時過ぎくらいだろうか。子供がたくさん公園に入ってきた。ランドセルを背負った、まだ低学年くらいの子供たちだ。学校が終わって、下校途中なんだろう。寄り道はいつものことのようで、ブランコを奪いに走る。

 ブランコをゲットできなかった子供はシーソーへ。シーソーもだめだった子供は球体状のくるくる回る遊具へとつかまった。

 なんだか、懐かしく思う。自然と顔が緩んでいた。

 ブランコは独占できなくて、一回目の交代が行われる。あぶれた女の子がこっちに走ってくる。

「ワンちゃん、さわってもいいですか?」

 俺はぎょっとする。

「えっと」と言っている間に、子供はもう犬の頭を撫でていた。

 噛んだりしないか、どきどきしたが、犬は大人しく撫でられている。

 でも、何かに気がついたのか、犬は顔を上げると、鼻を鳴らし始めた。ふんふん、臭いを嗅いでいる。女の子の脇の下をくぐり、ランドセルをくんかくんか。

「こらこらこら」

 俺は慌てて、リードを引っ張るけれど、この、引っ張れば引っ張るほど、強い力でランドセルから離れようとしない。

「あ、もしかして、おなかがすいてるのかもー」

 女の子はおもむろにランドセルを下すと、ハンカチに包まれた食べかけのパンを取り出した。

 犬はなにそれなにそれ! とパンに鼻を近づける。そして、お座りをすると、右前足を上げてお手の仕草をする。「ちょーだい!」ということである。

 俺はそのはしたない行為を止められずに、そのパンに見入ってしまった。

 それ、おれにもください。

 女の子はお手に歓声をあげて喜んでいる。

 お手で食べ物がもらえるなんて、犬、うらやましすぎる。

 本当は、人間の食べるものを犬にあげてはいけないんだろうけれど、女の子はあげる気満々だ。

「はい、どーぞ」

 女の子がパンを差し出すと、犬はものの三秒で胃に収めた。三回くらいしか咀嚼をしていない。

「あ、ありがとね」

 俺は苦笑いよりはもうちょっとマシな変な顔でなんとかお礼を言った。

「どういたしましてー」

 女の子は犬をなでる。他の子供たちも犬に気がついて、わらわらと走ってくる。そして犬の背中やらしっぽやらをなでまくる。

 どうやら、子供たちはこの犬のことを知らないようだ。

 もし、預かってくれる施設が見つからなかったら、子供たちに飼えないかどうか、きいてみよう。そんな考えが浮かんだ。

 子供たちは午後四時の夕焼け小焼けのメロディが流れると解散していった。

 それから俺と犬は、しばらくそのまま公園でぼーっとして過ごし、寒くて耐えられなくなってから、一夜を明かすためにコインランドリーへ向った。

 ……犬、入れるかな……?



 残念ながら、犬は外につないでおいて、自分だけコインランドリーで、いかにも待ちくたびれて寝ちゃいましたを装って夜が明けるのを待った。しかし、犬はピンピンしている(ように見える)。

 犬のごはんはホームセンターに行けば、試供品が置いてあるかもしれない。あとで行ってみよう。

 それよりも、自分のごはんだ。

 ……ドックフードが意外と食べられるっていうのは、本当なのだろうか。

 俺は手ぶらでまた公園へ向かう。

 いかにも、早朝から犬の散歩をしてますよっていう感じだ。

 犬は大人しくついてくる。

 犬も、頼れるのはお前だけなんだぜ? って言ってるかのように、ちらりちらりと顔を伺ってくる。

 公園につくと、まず水を飲んだ。犬にもあげる。

 しばらくベンチで時間をつぶそうか、食糧を調達しに行こうか、どうしようかとぼんやり考えていると、犬を連れた女性がこちらへ向かってくる。

 犬はものすごい引っ張っていて、女性は体重を後ろへ傾けながら歩いてくる。犬はラブラドールレトリーバーだろう。イエローの良く見かける大型犬種だ。盲導犬とか賢そうなイメージがあるけれど、その犬からは知性を感じられない。

「おはようございます」

 女性はにこにこ笑いながら俺に挨拶をする。

「あ、おはようございます」

 俺は、ちょっとぼーっとしていたかもしれない。

 その女性が、可愛かったから。

 この寒い冬に髪をポニーテイルにして、いかにも健康そうだ。流行りの顔ではなく、ちょっと昭和っぽい。服はトレンチコートにスキニータイプのジーパンとヒールのないシンプルなパンプスだった。トレンチコートでは寒いのではないかと思ったが、この犬と散歩をしていると、暑くなるのだろうと推測する。 

 その犬は、俺が迷い犬のために用意したプラカップに入った水をすごい勢いで横取りしている。

「あ、こら! ダメでしょ!」

 女性がぐいっとリードを引っ張っても、ラブラドールはちょっとも動かない。

「あ、いや別に、いいですよ」

 公園の水だし。拾ったプラカップだし。

「すみません」

 女性は恐縮したようにお辞儀をする。

「初めてお会いしますよね? 初めて見るワンちゃん」

「あ、迷い犬なんです」

「えっ そうなんですか?」

「はい。じゃあ、やっぱり、どこの家の犬かわかりませんよね」

「はい、初めて見ますもの。お顔だけが黒い子なんて。シェパードの血が入ってるのかしら。しっぽも、巻いてませんもんね」

 そんなことまで分かるのかと俺は感心してしまった。

「じゃあ、お家で保護してるんですか?」

「ああ、いえ、その、昨日、どこかに預けられたらと思って色々電話したんですけれど、その、まだ、預けられるところがあるのか分からなくて」

 言うと、女性はじっと俺を見るだけで、しばらく無言だった。たっぷり五秒はあったと思う。

「お家で、飼えないですか? ペットだめなとこですか? ご家族が反対されてるとか? アレルギーとかですか?」

 まるで、非難でもするかのように彼女は問い質す。

「えっと……」

 なんて答えたものか。

 そもそも家がないとか? 

 なんかもう既に軽蔑の眼差しを向けられているような気がするが、ここで「ホームレスなんで」とか言ったら、もっと軽蔑されないか? 寒いというのに、なんだか嫌な汗が背中を伝う。というか、泣きたい。

「えっと……」

 俺は精いっぱい、うつむいた。それはもう、首の角度が九十度になるくらい。叱られた、子供みたいに。

「家、ないんです」

「え?」

「ホームレスなんです。昨日、この公園で、この犬がひとりで歩いてるの見かけて、それで」

 彼女の反応が怖かった。

 彼女は、またしばらく無言だった。

 俺は、怖くて、顔をあげることができなかったから、彼女がどんな顔をしているのか分からない。

「ご、ごめんなさい」

 彼女は狼狽えているように見えた。

「いえ、自分が悪いんで」

 そう言ったら、彼女の口から小さな「え?」が聞こえた。

「ほんと、恥ずかしいです」

 この場から走り去りたかった。でも、手には壊れたリードがあったから、できなかった。走ったら、この迷い犬も一緒に走ってくれただろうか。

「たぶん、犬は預けられると思うんで、大丈夫だと、思います」

 彼女は今度は憐れむような目で、俺を見ているのだろうか。女の子の前なのに、かっこ悪い。

「すみません、じゃあ、もう行きます」

 俺は彼女の顔を見ずに、お辞儀をして犬を促した。

「え、あ、ちょ、ちょっと待って!」

 着ていたダウンジャケットの端をつかまれた。

「ごめんなさい」彼女はまた謝ると続けた。

「どこへ行かれるんですか? 昨日電話したとこってどこですか? ワンちゃんにごはんは?」

 質問責めに俺は驚いて戸惑った。

「えっと、昨日電話したところは、動物愛護相談センターと保健所です。ごはんは昨日、小学生がパンを半分ばかり、わけてくれました」

「動物愛護相談センターはなんて言ってました?」

「えっと、引きとるのにお金がかかるので、かからないところを調べてもらってます。あと、動物を保護しいている保健所に犬の特徴とかを伝えるようにと」

「そうですね。ご家族が探しているかもしれませんから。それと、私の記憶している限りでは、お金をとらない動物保護施設は、都内ではひとつしか知りません」

 彼女はそこまで言うと、上目遣いの厳しい視線をくれた。

「あ、あるんですね、よかった」

 彼女のビームに竦んで、俺は棒読みの言葉しか出ない。

「ついてきて下さい」

「え?」

「その施設に案内しますから」

「ええ?」

 驚いている間に、彼女はすでに数歩先を歩いていた。彼女の連れるラブラドールがこちらを振り向いていた。「来ないの?」とでも言っているように。

 そして彼女も振り返る。早くついてきてと目で訴えて。



 俺は住宅街の中を、彼女のポニーテイルの揺れる後ろ姿を見ながら、犬と一緒に歩いていた。彼女の連れるラブラドールは、俺の連れる犬と遊ぼうよと言うように、何度も振り返っている。

「知ってますか? 日本で殺処分される犬猫の数を。一年間で二十万匹以上も殺されているんです」

 多いのだろうな、とは思っていた。ただ、その数をきいてもピンとこない。

「これだけの数の動物たちを保護し続けることはできません。増える一方ですから」

 そっか、五年間で百万匹。

「エサ代だけで四千万円以上、狂犬病予防接種や去勢手術、他にも病気や怪我をしてる子たちもいる。治療費もかかるし、世話をする人たちの人件費、施設費と、とにかくお金がかかるんです。すべての動物たちを保護できない理由は、つまるところ、そこなんです」

 彼女の話はそこで一度途切れた。

「すみません、色々と思うことがあって。殺されてしまうワンちゃんと、保護されて、新しい飼い主さんに貰われていくラッキーなワンちゃんがいる。でも、殺すのも、選ぶのも人間なんです。私たちは、どうやってラッキーなワンちゃんを選ぶんでしょうね」

 それはきっと、捨てられているのを見つけたとか、迷い犬を偶然見つけたとか、そのひとのいる地域とか、そういったことなんだろう。運の悪い迷い犬や野良猫は保健所に通報されて、捕まって、そのまま飼い主が見つからなくて、殺されてしまうのだろう。

 これは、助かったって思っていいのだろうか。俺は、もしかしたら、この迷い犬を殺してしまうところだったんじゃないのか。

「このラブも、迷い犬だったんですよ。貰われずに、うちの子になっちゃった」

 なんか、きいていると切なくなってくる。

 本当は捨てられたんじゃないかとか、彼女もきっと思っている。でも、迷っちゃったんだよねって言いたいんだ。

 でも、そのラッキーな犬が愛嬌のある顔で振り返りながら歩いているのを見ると、笑いたくなる。

「ここです」

 彼女が立ち止まって、指差すところには、一件の一戸建て住宅があった。十字路の角に建っていて、ちょっと古い感じの赤茶の瓦屋根で、築四十年は経っていそうだ。でも、大きい。駐車場は二台分の車が停められる。そのうちひとつのスペースには白のミニバンが停まっていた。

「えっと、君の家?」

「違いますよ。ここが、動物保護センターです。任意団体にゃんこホームです」

「え、ここが? その、無償で引き取ってくれるっていう?」

「そうですよ」

 でも、どこにも看板とかそういうものがない。庭にも犬小屋とかそういうものすらない。

「看板とか、ないんですか?」

「看板なんて掲げたら大変ですよ。家の前が捨て犬捨て猫だらけになっちゃいます。ウェブサイトにも大雑把な住所しか記載してません」

「そう、なんですか」

「そうなんですよ。悲しいですよね。なるべくたくさんの犬猫を助けたいって思ってるのに、看板も掛けられない。矛盾してますよね」

 彼女は目を伏せて言う。

 中へどうぞ、と門が開かれた。

 すぐに家の中へ入る玄関扉も開けられた。

 中へ入ると、まったく普通の家だった。廊下があって、右側に扉がひとつ、突きあたりにひとつ、左側にひとつと階段がある。階段は上りと下りがある。地下があるということだ。おそらく、駐車スペースの奥がその地下になるのだろう。そこに保護している犬猫がいるのかもしれない。

 上がる前に犬の足を拭いた。それからラブラドールはハーネスとリードを取り、俺の連れてきた迷い犬はリードだけを取って仕舞われた。

「あきらさーん、ただいまー」

 彼女は廊下右側のドアを開けて中へ入って行く。おかえりーと声が聞こえてくる。ラブも当然のように入っていく。俺と迷い犬は、開けられたドアから中をのぞいた。そこには、広いリビングとダイニングとキッチンがあった。普通の家だ。ただ、けっこう散らかっているように見える。布が多い。バスタオルとか毛布が床やソファーにたたまれるでもなく無造作に置かれている。そして、その毛布の上とか椅子の上に犬と猫がいた。椅子の上にはキジトラの猫が、毛布の上にはミニチュアシュナウザーだろうか、グレーのくるくるっとした毛の犬が寝そべっている。ここはおれの場所なんだ、という風に。

「どうぞー、入ってー」

 促されて、俺と犬はそろそろっと「お邪魔します」と言って入った。

 キッチンの方に彼女ともうひとり、女性がいた。

「今お茶淹れてるから、ちょっと待ってー」

 その女性はコーヒーポットを傾けてカップに注いでいるところだった。年齢は五十代といった感じだろうか。セミロングよりも長い髪の毛にはパーマがかかっていて、メガネを掛けている。服装は派手というか、柄物に柄物を合わせていて、とても庶民っぽい。

 コーヒーを注ぎ終わると、迷い犬の方に近づいてくる。そしてしゃがむと、首のあたりをなでる。

「あんたー、どこからきたのー?」

 犬がしゃべってくれたなら、話は早い。でも、なんか犬には話しかけてしまうものなのだろう。

「保護してくれて、ありがとうね。私はここの代表の下沢晶といいます」

「清水泰祐といいます」

「ホームレスなんだって? この子らと一緒だ」

「は、はあ、ほんとに、すみません」

 ずばっとものを言うひとだ。

「親御さんは?」

「もう、他界してて」

「そっか。頼る家がないってことか。今はお役所も厳しいからね」

「いえ、俺が、のんびりしてたっていうか、認識が甘かったっていうか、なので」

「それで、どうするつもりだったんだい?」

「あー……、いえ、適当に、どうにかなるかと」

 俯いて頭を掻く。

 はあっと短いため息が聞こえてきた。

「認識が甘かったって分かってるのに、まだそんなこと言ってるのかい? それとも、建前か?」

「あ、いえ」

 俺は、何も言えなかった。笑ってごまかしたいような、真面目な顔をして謝りたいような、そんな気持ちだった。

「あんたはそのうち自殺したくなるだろうよ」

 その言葉にドキッとした。目が覚めるような恐怖が一瞬で俺を襲う。彼女は真剣な顔をしていた。その瞳が、嘘ではないと言っていた。

「それを乗り越えると、ベテランホームレスなんだとさ。じいさんならまだマシさ。精々があと二十年とかでお陀仏だから。まあ、良くはないけど、でも、若いあんたがこれから四十年、五十年もホームレスじゃあ、しんどいよ」

 想像もつかない時間だった。一日をすでに持て余している。毎日が休日みたいだと思えば楽しそうな気もするが、実際はサバイバル。三百六十五日、サバイバル生活を五十年。それで、それで死ぬのか? 病院にもかかれないなら、もっと早くに死ぬかもしれない。どちらにしても、普通ではない人生だ。

 ふうんと足元の迷い犬が鼻を鳴らした。ちらりと見たら「どうしたの? 怒られてるの?」みたいな顔に見える。耳が後ろに傾いていた。

「あんたが頑張って就職活動するって言うなら、うちで面倒みてあげる」

 その言葉を理解するのに数秒かかった。

「え?」

「人間も動物だものね。その代わり、色々と無給で手伝ってもらうから、そのつもりで」

 俺は、どう返事をしたらいいのか分からなかった。ただ、俺はそうして保護されたという事実がそこにあった。



「さてと、じゃあ、コーヒーが冷めちゃうから、私はちょっと仕事するわ。すみちゃん、色々教えてあげて」

 あきらさんは、コーヒーを持って部屋の一角にある小さな机に向かった。

「まだ名乗ってませんでしたね。香川すみれです。ここのたった一人の職員です。よろしく、清水さん」

「あ、よろしくお願いします」

 俺は頭を下げる。

 そして、慌ててあきらさんを追っかけて、同じように頭を下げた。

 すみれさんの元に戻ると、さっそく仕事を教えてもらう。

「じゃあ、まずはごはんね。この子にもあげないと」

 すみれさんは「ついてきて」と言って部屋を出ていく。俺もその後に続いた。ラブもついてくる。迷い犬も。

 すみれさんが案内した先は階段を下りた地下だった。倉庫のようなところのドアを開けると、そこには大量のドックフードがあった。業務用なんだろう。巨大な袋のものが十はあった。そのうちのひとつが封を切られている。

「ボウルに水とフードを入れてあげるの。大型犬の子には多めにね。私がフード入れるから、水を適当に入れて。フードが浮かぶくらいにね。それで、フードの量とか憶えていって」

 俺はすみれさんがフードを盛ったボウルを受け取って、小さな洗面台のようなところで水を入れていく。彼女の方が、腰をかがめてフードをスコップですくうので重労働のように思えた。なんだか、申し訳ない。ボウルは全部で十個になった。それをとりあえず両手にひとつずつ持って、入ってきたドアの反対側にあるドアから出ると犬舎があった。部屋はそれほど広くはない。畳半分ほどの犬舎が並んでいた。尻尾を振っている柴犬に、ゴールデンレトリーバー、催促するように吠えているポメラニアンと、ビーグル犬、犬舎に飛びかかっているミニチュアダックスフント、大人しくお座りをしている黒い毛のミニチュアダックスフントに、ミニチュアダックスフントにミニチュアダックスフント、計八匹がごはんを待っていた。犬舎には仮の名前や推定年齢が書かれたプレートが掛っている。

「ごはんあげる時に、元気かどうか見てあげて」

 俺はうなずいて、ミニチュアダックスフントからごはんをあげていった。足に飛びついてくるのが、なんとも可愛らしい。癒される。

 すみれさんはゴールデンレトリーバーからごはんをあげている。倉庫と犬舎を行き来して、全部の犬にごはんをあげることができた。そして、最後にラブと迷い犬にもあげる。

 早い犬はあっという間にボウルが空になって、それを回収して洗う。残してるのは、そのまま置いておく。備え付けの水用のボウルも回収して、水を入れ替え、犬舎の掃除もする。とにかく、ごはんをあげるというミッションだけでこれだけの仕事がある。

「じゃあ、次はにゃんこ達へごはんあげるから、来て」

 彼女はさらっと次の仕事へと俺を誘った。

 倉庫を出て、階段を上り、ラブと迷い犬はリビングへ置いて、二階へと上がった。六畳の洋室へと案内されると、そこには猫がたくさん。にゃんこホームという名前だけある。ケージの数は二十を超えている。犬と同じように、カリカリをボウルに入れてケージの中へ入れてく。水を取り替えて、掃除をする。中に初めて見る俺に警戒している猫もいた。そんな猫の相手はすみれさんがしてくれる。

「これで終わり」

 すみれさんはパンパンと手を払って笑った。

「ごめん、エプロン貸してあげれば良かったね。セーターに毛がついちゃった」

 すみれさんは俺の青いセーターから猫とか犬の毛を払ってくれる。

「あ、いや、別にキレイなもんでもないんで、大丈夫です」

「うーん、洗濯してもなかなか落ちないんだよ。コロコロとかで取らないと」

「あ、いえ、ホント、大丈夫です」

 すみれさんが接近していることが、むしろ大丈夫ではなかった。

「セーターは脱いだ方がいいね。シャツの上にエプロンしよ」

 俺は下に降りると、言われた通りセーターを脱ぎ、エプロンを貸してもらった。エプロンなんて、中学校の時の調理実習以来だった。セーターと同じような青色のエプロンだ。たまに手伝ってもらうボランティアさん用のものだとか。

「じゃあ、迷いワンちゃんの写真、撮ろっか」

 迷い犬に壊れたリードをつけて、外に出る。

 明るいところで、正面から全身のショットと、顔のアップ、大きさが分かるように俺の脚と一緒の写真を撮った。

「これを、うちのサイトにアップして、それからツイッターで拡散して、写真のデータを保健所にも送るね。フェイスブックにも載せよう」

 家の中に戻って、パソコンを借りて情報を発信した。ツイッターのリツイートの数はすぐに五十を超えた。サイトのアクセス数も上がっているようで、ちょっとほっとした。

 すみれさんは昨日電話を掛けた動物愛護相談センターにも電話を掛けてくれて、俺が頼んでいたことにも丁寧にお礼を言っていた。

 ひととおり終わると、すみれさんはふうっと息をついて、電話の内容を教えてくれた。

「保健所もこの子を探してるひとはいないって。雑種の子は今じゃ珍しいから、すぐ分かるって」

 残念な結果だが、すみれさんは俺を振り返ると笑った。

「次は、動物病院にデータ送ろう。紙を貼ってくれるところもあるから」

 すみれさんはサクサクっと、ワードで『迷い犬の飼い主さんを探してます』のポスターを作った。犬の写真と、保護した場所とかを書いて完成させると、メールで一斉送信した。

「ねえ、知ってる? 動物愛護センターでも、殺処分ってしてるんだよ。やっぱり、数はうちみたいな小さいところと比べると保護する数も桁違いだから。可哀相だよね」

 殺されるくらいなら、保護なんかしない方がいいんじゃないかって思ってしまう。でも、保護しないと、どんどん野良が増えるんだろう。

「さてと、次は、お洗濯だね!」

 すみれさんは気を取り直すように、元気に立ち上がった。仕事は、まだまだありそうだった。



 一日が長かった。派遣で働いてた時は残業などほとんどしてなかったから、働いても実働八時間程度だった。それが、ここでは早朝から晩まで、ずっと仕事がある。あれからした洗濯は手洗いだった。脱水の時だけ、洗濯機を使う。でないと、動物の毛で排水管が詰まってしまうそうだ。えらい肉体労働。手も相当荒れるのだろう。それから昼食をとって、ツイッターやサイトに寄せられた問い合わせに返信をしたり、水を替えに行ったり、ボウルを洗ったり、トイレシーツを交換したり、夕方になったら三回に分けての犬の散歩へ行った。散歩は一回三十分なので、一時間半も歩いたことになる。すみれさんは朝も散歩へ行っているから一日三時間も歩くことになる。スレンダーなのは、そのせいなのかもしれない。代表のあきらさんは、動物病院へ行ったり、買い物をしたり、譲渡会の場所の相談に行ったり、車でずっと移動していたようだった。帰ってきたあきらさんは俺にお礼を言った。

「清水くん、助かったよー。私の代わりに散歩行ってくれて」

「うん、助かった~」

 すみれさんもそう言ってくれて、俺は嬉しくなった。

「じゃあ、清水くん、また明日~。あきらさん、失礼します。お疲れ様でしたー」

 すみれさんの仕事はあきらさんが帰って来るまで。夕方の散歩が終わったら、すみれさんは帰るそうだ。

「お疲れ様ー」

「すみれさん、ありがとうございました。お疲れ様でした」

「あ、ワイ太にごはんあげる時はおもちゃで遊びながらあげるといいよー」

 ワイ太というのは、朝俺に警戒してた猫のことだ。顔の模様が黒地に白で「Y」と描かれているように見えるからワイ太らしい。

 夕ご飯を犬猫にあげるのはいつもあきらさんの仕事だそうだ。それも、今日から俺の仕事になる。

 俺は教わった通りにごはんをあげに行く。やはり、ワイ太にあげるのに時間がかかった。

 リビングに戻ると、あきらさんが夕食の用意をしていた。

「ありがと。いや、ホント、助かるね」

「いつも大変なんですね」

「うーん、大変だなーとか思ってやってるわけじゃないけどね」

 俺は他に仕事がないかきいた。

「あ、じゃあ、うちの子たちにもごはんあげてー。そこの棚に入ってるから」

「わかりました」

 うちの子、というのは、結局なかなか引き取られずに、ここで飼うことになった犬猫たちのことだった。ラブと、ミニチュアシュナウザーのグレンと、キジトラの猫のトラオに白猫のおきぬちゃんが今のところのうちの子とのことだった。

 戸棚の戸を開けるとトラオとおきぬちゃんがとことこと戸棚の前へ来た。

 カリカリもドックフードも保護してる犬猫と同じものだ。差別はなし。

「清水くん、座って。私らもごはんにしよう」

「すみません、ごちそうになります」

 大きいダイニングテーブルにはすでに二人分の食事が用意されていた。ハンバーグとサラダとご飯に、野菜スープだ。

「ま、お察しの通り、出来あいのものなんだけどね」

「いえ、俺にとってはすごい贅沢ですよ。いただきます」

「いただきますっ」

 あきらさんは、いただきますを一音一音区切って言う。何かに、感謝するように。それを聞いて、自分がいかにこれまで感謝しないで生きてきたのか、知ったような気がした。

「やっぱり、食事は誰かと一緒がいいね」

 あきらさんが言う。

「良く言うじゃんか。ひとりで食べるご飯は美味しくないとかさ。私は別にそんなことないって思ってたよ。一所懸命働いてさ、楽しく生きてれば、そんなことないって。でも、こうやって誰かと食べてみると、分かるもんだ」

「俺も、分かる気がします」

 両親が死んで、一人で食事をするのが当たり前になって、友達とかと一緒に食べても、どこか淋しかった。みんなは家に帰れば、家族がいるんだろうなって思ったら、他人なんだって思ったら、大勢で食べてても、ひとりのような気がしてならなかった。

 ただ、目の前にいるひとが、友達ではなくて、年齢も、もし母が生きてたら同じくらいなんだろうっていうひとだと、なんだか家族のように思えた。

「あの、あきらさんは、独身なんですか?」

「うんにゃ。旦那が一応いるよ。海外単身赴任中。たまーに戻ってくるよ。旦那がいなきゃ、こんなにいっぱい犬猫預かれないもん」

「どうして、犬猫を保護しようって思ったんですか?」

「んー、私さあ、子供ができなくってね、代わりに猫を飼ったのが始まりかなー。保護団体から一時預かりで猫を預かって、それで結局新しい飼い主さんも見つからなくて、うちで飼うことになったんだけど、なんか、あーそういうことなのかーって思ったわけ。見つからないのかーって。そんで、何故か、思っちゃったんだよね。なら私が保護しちゃるって。そんで、やっぱし、なかなか見つからない飼い主さんというわけ。やり方が悪いんじゃないのかとか思ってたんだけど、今やってる以上のことは、どうにも思いつかんね」

 ブランド犬やブランド猫の仔犬、子猫ならすぐに決まるが、そうでない場合はなかなか決まらない。病気をもっていたらなおのこと、と言う。

「前にテレビで崖っぷち犬とかやってたでしょ? 欲しいっていうひとが殺到したっていうやつ。もうね、わざとそんなシチュエーションを作ろうかとさえ思ったわよ」

 その話に俺は苦笑いで返した。

 食事が終わると、俺は食器を洗って、また犬猫を見に行った。ボウルなんかを片付けて、リビングに戻る。

「お風呂、沸かしてるから、沸いたら入って。旦那の部屋が空いてるから、そこ使って」

「他に、何かできることありませんか」

「じゃあ、パソコン、貸してあげるから、就活しなさいな。就活に必要な経費は貸してあげる。出世払いでいいから」

 あきらさんは、そう言って笑った。

 そうだ。俺がやらなくちゃいけないことは、それなんだ。俺は、恐縮しながらパソコンを借りて、あきらさんが寝るよーと言うまで、求人サイトを閲覧したりした。

 風呂も頂いて、なんだか、本当に良いのだろうかと思った。自分のこの幸福さが少し恐かった。

 風呂に入れるって、幸せなことなんだな。


   ❖


 翌朝、俺は幸せを噛みしめながら起床し、顔を洗うとリビングへ降りていった。午前六時という時間。あきらさんは既に起床済だった。

「おはようございます」

「おはよー」

「すみません、朝ごはんの準備手伝わなくて」

「パン焼くだけだからね、別にいいよ」

 ダイニングテーブルには既にトーストが皿に載っていた。

「食べたらすぐにお散歩ね。すみちゃんが来たら、三人で行きましょ。私も運動しなくちゃ」

 あきらさんは座ると昨日の晩ごはんの時と同じようにいただきますを一音一音区切って言う。俺もそれを少し真似てみた。やっぱり、感謝の気持ちっていうのは大事なもんだ。

 食べ終わって片付けている間に、すみれさんが出勤してきた。

「おはようございます」

 今日もすみれさんは元気が良いようだった。ひとり暮らしが長くて、すっかり暗いのが染みついた俺は、今さらひょうきんにはなれないが、少しは明るくなろうと、そんなすみれさんを見てこっそり決意する。

 すみれさんはすぐに犬舎に向かって散歩の準備をしに行った。俺もすぐに追う。犬舎につくと、犬たちは散歩だと分かっているようで、興奮気味で迎えてくれる。ビーグル以外の七匹にリードをつけて、水と、小さ目のボウルと袋とトイレットペーパーとそれらを入れるトートバックも用意。リードをまとめて持って、駐車場の方から出る。すみれさんがドアに鍵を掛けると、玄関の方からあきらさんが出てきた。あきらさんがミニチュアダックスフントとポメラニアンを。すみれさんが後のミニチュアダックスフント三匹を。俺がゴールデンレトリーバーと柴犬を任された。ビーグルくんは、引っ張る子らしく、こうやってたくさんで散歩する時は一匹でお留守番なのだそう。だが、すみれさんの散歩するミニチュアダックスフントたちも、三匹がみんな一所懸命引っ張っていた。

「今日はちょっと長めにお散歩できそうね」

 あきらさんが言う。

「ドックランとかにも連れて行きたいですね」

「そうよね」

 でも、車に全部の犬を乗せるのは難しいそうで、なかなか叶えられないらしい。家を空けるということもできず、かといって職員を増やすことも資金不足で、できないから夢のようなことなのだとすみれさんは言った。

「だから、清水くんをうちで雇うことはできないの」

 あっけらかんと明るくあきらさんは言う。

「いえ、まあ、それはいいんです。むしろ、ホント、有難いです」

 簡単にできそうなことなのに、叶わない。俺は、働いていた時のことを思い出していた。

 連休前に「どっか行くの?」とかきかれて「いや、どこも……家でゴロゴロしてます」とか答えたり、旅行に行った職員さんからお土産のお菓子をもらったりする度に胃が痛くなった。性格が明るいやつなら「いいっすね!」とか「旅行はどうでしたか?」とか言えるのかもしれない。最初はそんな風にしゃべっていたかもしれない。けど、いつの間にか、羨ましくなって、妬みに近いような感情が胃からのぼるようになっていた。外国人旅行者の方が日本に詳しい、なんてこともある。なんだか、虚しくなってくる。足に、重い鎖でも巻きついてんじゃないかって。空を見上げると、自由に飛ぶスズメが目に入った。いいよな、鳥は。パスポートもなしで国境を渡れる。やっぱり羨ましくなって、視線を地面に戻した。

 すると、ゴールデンくんと目があった。自然と歩みが遅くなっていたから、早く行こうよって言っているのかもしれない。けど、その瞳が慰めているように見えて、俺はちょっと笑った。

 第一陣の散歩が終わると、すぐに第二陣の出発だ。俺とすみれさんだけで出掛ける。すみれさんがミニチュアシュナウザーとビーグル、俺がラブと迷い犬のリードを持った。

 ビーグルは本当にすごい勢いで引っ張っている。足音はガリガリガリだ。

「俺が持ちましょうか?」

 大変そうなのでそう申し出てみたけれど、すみれさんは首を横に振った。

「だいじょぶ、だいじょぶ」

「しつけとか、そういうのはしないんですか?」

「うん、しないねー。だって、なんかさ、これも、この子の特徴でしょう? もし、飼い主さんが見つかった時に大人しい子になってたら、まあ、喜ぶひともいるかもしれないけど、全然違う子に見えるんじゃないかって、思っちゃうんだよね」

「そっか、そうですよね」

 いつかきっと飼い主が見つけてくれる。そんな希望を絶やさない、前向きな考え方だと思う。前向きじゃないと、こういう犬猫の保護なんてできないんだろう。

「帰ってご飯あげたら、迷子くんの情報が届いてないか、見てみようね。なにかあるかもしれないから」

「はい」

 家に戻り、ご飯をあげて、洗濯を終えて、すみれさんはパソコンの前に座った。俺はすみれさんの後ろからモニターを見る。

 サイト記事にいくつかコメントがついていた。

『はやく飼い主さんが見つかるといいですね』といったものばかりで、飼い主さんに繋がる情報は寄せられてない。

「ツイッターもリプライ来てるね」

 すみれさんはひとつひとつ見てお礼を返す。その中のひとつに『このわんちゃん知ってるかも』というものがあった。期待が膨らむ。

『どこで見かけましたか? お教え頂けますと幸いです』すみれさんがそう返信する。

 飼い主から連絡がくるのが一番良いのだが、そうでない場合は個人情報に気を遣わなくてはならないから大変だ。ダイレクトメールを送れるように、そのひとをフォローした。

 すぐに返信があるわけではないから、すみれさんは他の犬猫の飼い主さん探しを始める。

 あきらさんは動物病院へ行くという。入院している猫がいるそうだ。ついでに買い物にも行くらしい。

「清水くん、ごめん、買い物手伝ってもらっていいかな?」

 俺に断る理由もなく、あきらさんと一緒に車に乗り込む。運転はあきらさんだ。俺は運転免許をもっていないから。こんな時に、持っていれば良かったと思う。もっとも、教習所に通う金はなかったが。

 動物病院は近所だった。緑のゴシック体で永井動物病院と書かれている。駐車場に車を停めて病院の中へ入った。扉も待合室の壁もガラス張りになっていて、すぐにどんな犬と飼い主さんが順番を待っているのか分かる。猫はバックの中に入っているから、どんな猫かは伺えないけれど、なにやら不安そうな鳴き声が聞こえてくる。たまに散歩中のすれ違いざまに喧嘩を売ってくる犬がいるが、動物病院ではそういうことはないのだろうか。ちらりと見てみると、みんな大人しくしている。尻尾を完全に巻いて、ぶるぶるふるえている犬もいる。病院はやはり、喧嘩を売っている場合ではないほど、もしくは遊びたいと思わないほど怖いのだろうか。それとも、犬や猫も人間のように、病院では静かにというルールを知っているのだろうか。

「下沢様、こちらへどうぞ」

 診察券を出すと、すぐにスタッフから呼ばれて、診察室へ入った。診察室の奥にはまた扉があって、その扉を抜けると、手術室とケージがならんだいわゆる動物用の病室、もしくはホテルがあった。鳴き声がすごい。でも、手術台に乗せられた、白い毛がふわふわの猫は声もなく寝そべっていた。

「しろちゃん、あきらさんが来たよ」

 スタッフが猫に声をかける。けれども、しろちゃんと呼ばれた猫は動かない。

「しろー、あんた、もうちょっと頑張んなー、元気になれば手術できるかもしれないんだって」

 あきらさんの言葉は、俺にとってつらいものだった。「頑張れ」という言葉は好きじゃない。「頑張れ」なんて言葉は頑張ってないやつに言えばいいんだ。でも、鼻の奥が痛くなった。頑張って生きてもらいたいんだ。あきらさんは。

「たぶん、もうあんまり生きられないと思います。点滴、どうしますか? つれて帰って、ちょっとでも一緒にいてあげた方がしろちゃんは嬉しいと思いますよ」

 獣医さんと思われる男性があきらさんにきく。

 手術できる可能性は、もうないに等しいということだ。

「そうね、その方がいいかしらね」

 さすがのあきらさんも、この時ばかりは、声のトーンが沈んでいた。

 また後で引き取りにくると言って、治療代を支払うと動物病院を後にした。

 車に乗り込むと俺はそっときいてみた。

「しろは、どんな病気なんですか?」

「うん、あの子は膀胱腫瘍なの。腫瘍がどんどんおっきくなって、手術しないと助かる見込みはないの。でも、そもそも、膀胱腫瘍は歳とった猫が罹る病気でさ。歳とってると、もう手術が体力的に難しかったりするんだよね」

 拾った時は元気だったそうだ。でも、その時既に腫瘍が出来ていたらしい。元気と言っても、血尿や尿の量が少なかったり、常に少しずつ出ているような症状があって、すぐに検査をしたけれど、手術は困難ということで見送られていた。それが、次第に弱っていったとあきらさんは語った。

「こんなこと、思いたくないんだけど、しろは野良猫じゃないと思うんだよね。ペルシャっぽいし。ペルシャの野良なんてほとんど見ないから。ただ、ペルシャは病気になりやすくって、今じゃ好きっていうひとしか飼ったりしない。そういうことを知らないで飼って、病気になったからポイっていうひとはけっこういるんだよね。医療費はかかるし、介護もしなくちゃいけない。段々手に余ってくるんだよね。もちろん、好きだったら、そんな手に余るなんてことはないし、お金がなくて、治療が受けられなくても、最後まで一緒にいようとするもんなんだけどさ。なんの覚悟もなしに飼ったりするから、そういうことになるんだよね」

 けしからんよ、とあきらさんは言う。

「前もさあ、今回みたいに見たことあるっていう情報が寄せられてね、行ったわけさ。この子、お宅のわんちゃんじゃありませんか? って。はっきり言って、犬は分かるわけよ。自分のいた家と飼い主さんがさ。大喜びだもの。でもさ、元飼い主は知りません、違います、帰って下さいとか、なんでかわからないけど、怒ってるわけ。もうさ、そうなるとさ、警察の手を借りて、家から犬の毛とか採取してさ、DNA鑑定とかでもしない限りだめでさ。かといって、警察が手を貸してくれるわけもないじゃない。もう、その情報くれたひとと呆然としてたわよ。犬もなんでだろうって思ったわよね。きっと。幸い、明るい子だったから、すぐに別の飼い主さんも見つかって、むしろ良かったのかなとか思うんだけどさ。やるせなかったわ。あの子は、そんなことないといいんだけど」

「そうですね」

 そんなのは、あんまりだ。

 俺はそうやってうなずいて、どっかの誰かにそうならないようにと祈るしかなかった。



 ホームセンターで業務用のキャットフードと、猫砂、トイレシートなんかを大量に買って家へ戻ると、しろの退院準備をして、あきらさんはまた車に乗って動物病院へと迎えに行った。

「そっかあ、しろ、もうだめかあ……」

 すみれさんは残念そうにつぶやいた。

「しろは大人しい子でね、他の猫が喧嘩してたりしても、しらんぷりでね、おもちゃとかでもあんまり遊ばなくて、ただ、あごをなでると気持ち良さそうにして、のどを鳴らすの。それだけは、大好きで、せがんだりする子で、可愛いんだ」

 そう言って、すみれさんはパソコンで写真を見せてくれた。そこには、元気そうなしろの姿や、一緒に楽しそうに写ってるすみれさんやあきらさんの姿もあった。

「でも連れてきた時は大変だったなあ。毛が白くて長いもんだから、汚く見えるわ、毛玉がひどいわで、すぐにシャンプーしたんだけど、引っかくし、威嚇するしで、大騒ぎだった」

「綺麗な猫ですよね」

「うん。気品もあるから、女王さまみたい」

 そうしているうちに、あきらさんとしろが帰ってきた。しろはペットベッドに寝そべっているままだ。

「しろー、お帰りー」

 すみれさんはすぐにしろのあごをなでる。

 しろはローテーブルの上にベッドごと置かれた。すると、なんだなんだとトラオとおきぬちゃんが寄ってくる。トラオはしろの身体を舐め始める。おきぬちゃんはしろを暖めるようと横に寝ようとするけれど、ベッドが小さいので、あきらさんが「こらこらこら」と抱き上げた。おきぬちゃんが抗議するようにひと鳴きする。

「もうちょっと大きいベッド、持ってきますね」

 すみれさんはベッドを探しに部屋を出て行った。

「清水くん、ごめん、夕方もお散歩頼める?」

「はい、それはもちろん」

「こき使っちゃって、悪いね」

「いえ、そんな。むしろ、これくらいのことしかできなくて、すみません」

「いやー、助かってるよ。でも、これじゃあ、肝心の就職活動がままならんね。最初にあんなふうに叱っておいて、私が甘えてしまっているな」

 あきらさんは、すまなさそうに言うけれど、本当は、まだ甘えているのは、俺なんじゃないか? ずっと、ここに住んで、あったかいひと達と一緒にいたいって、俺は、本当はそう思ってるんじゃないか? また、独りに戻るのが、怖いんじゃないか?

「まるで、ブラック企業だなあ」

「え?」

「学生インターンを募って、タダ働きさせてる会社のことだよ。ボランティア活動とか、社会人になる前の模擬練習とか経験とか言えば聞こえはいいかもしれないけどね。ボランティアは見返りを求めるもんじゃないさ。でもさ、人間だし、感謝されないとボランティア甲斐ってもんがないだろう?」

「ボランティア甲斐って、初めて聞きましたけど」

 俺はその言葉に笑ってしまう。

「それに、俺はちゃんとご飯とか、寝床とか、お風呂とか、ちゃんと報酬を貰ってるじゃないですか」

 あきらさんは、首を横に振る。

「それじゃあ、奴隷と同じじゃないか。私は、ヘンゼルとグレーテルの魔女だな」

「そんな、そんなことありませんよ」

「いやー、法律には触れると思うんだよね」

「告訴なんてしませんよ」

「罪は、罪さ」

「そんな、違いますよ」

「私が死ねば、すみちゃんが代表になって、清水くん、すみちゃんに雇ってもらえるかもよ?」

「いや、もうホントに、そういうの望んでませんから」

「もっとも、すみちゃんのお給料もブラック企業並なんだけどね。まあ、これは、寄付金もらって活動してるっていう、運営体制のせいでもあるんだけど。すみちゃんも、うちのお給料じゃあ、お嫁さんになるしかないね!」

 また、変なことを言うひとだと、俺はちょっと呆れる。

 すみれさんが少し大きめのペットベッドを持ってリビングへ戻ってきた。

 そっと白を寝かしかえる。

 待ってましたとばかりに、しろの背中にぴたっとくっついておきぬちゃんが伏せの体勢で座る。

「あきらさん、私、今日泊まってもいいですか?」

「今日が最後かはわからんよ」

「そうですけど」

「まあ、泊まるのはかまわないけど」

「ありがとうございます!」

 すみれさんは「しろー、一緒にいられるね!」としろのあごをなでなでしながら話しかける。

「じゃあ、ごはんがてら、準備してきます!」

 すみれさんは、慌しく、にゃんこホームを出て行った。

 時計を見れば、すでに午後一時を過ぎている。

 あきらさんもキッチンに立つ。手伝おうと、俺もキッチンへ向かおうとしたのだが、あきらさんに「しろを見てて」と言われ、しろの側へ戻った。

「すみれさんの家は、近くなんですか?」

「ストーカーはだめだよ」

 俺は「違いますよ!」と言うのをこらえる。

「いえ、朝も早いし、電車に乗るんじゃ小一時間じゃ戻ってこれませんよね」

「まあ、近いね」

「すみれさんは、どうしてこの仕事を選んだんでしょう」

「私もね、思うよ。すみちゃん、気が利いていい子だし、明るいし、はきはきしてるし。さっき、お嫁さんになるしかないって言ったけど、余裕で転職できそうだし、企業もあんな子欲しいと思ってるだろうよ。うちは任意団体だし、ブラック企業並のお給料しか払えない。けどね、こんな楽しい仕事はないって、私は思ってるわけ。毎日動物に囲まれて、癒されるし。勝手に犬猫保護して、勝手に飼い主さん探して、自己満足みたいだし、あってもなくても変わらないような仕事だと思うわよ。でも、まあ、小さくても社会貢献のひとつだとは思うわけ」

「社会、貢献」

 俺は反芻するようにつぶやいた。

「そうよう。働くって、そういうことでしょう?」

 正直、そんなことは考えてもみなかった。生きていくために働くんだと思っていた。

「あなたは、その社会のせいで失業しているのかもしれないけどさ。自分のためじゃなくて、誰かのため、何かのためっていう意味なら、うちみたいなところは分かりやすいと思うわよ」

 だから、すみれさんはここを選んだんだのだろうか。

「社会貢献……」

 俺はもう一度、その言葉を口にする。その言葉の意味を、もっとよく考えてみたかった。

 あきらさんと昼食をとって少しのんびりした後、大きなキャリーカートを引きずって戻ってきたすみれさんと早めの散歩へ出かけた。

「すみれさん、何泊するつもりなんですか?」

「何泊でもよ。しろの、最後まで」

「家とかでやりたいこととか、ないんですか?」

「やりたいことかー。色々勉強はしてるんだけどね。訓練士とか、病気のこととか、動物との接し方とか、知りたいことがいっぱいあって、なかなか進まないけれど。専門学校とか行っておけば良かったーって思ってる」

「好きなんですね」

「好きなことが何か、気がつくの遅いと損よね」

「犬とか猫が好きだから、あきらさんのところに就職したんですか?」

「あー、ちょっと違うかなー」

「じゃあ、どうして?」

「あきらさんに会ったから、かな。朝、ジョギングしてたら、いっぱいわんちゃん連れたあきらんさんが公園にいて、最初は犬が大好きなひとなんだなって、思ってた。でも、次に会った時、最初と違うわんちゃんをまたいっぱい連れてたから、あれ? って思って、声かけたのが始まり。会うたびに、あきらさんの話をきいて、日曜とかにお邪魔するようになって、どんどん犬とか猫が好きになっていった。私をこんなに楽しませてくれるのに、中には捨てられた子とかもいて、恩返ししなきゃって思った。通ってるうちに、あきらさんがお給料はあまり払えないけど、手伝ってくれないかって言ってくれて、今に至ると。そんな感じかなー」

「ないたいものとか、なかったんですか?」

「なりたいものかー。保育士になろうって漠然と思ってたのね。だから、大学も教育学部に入って、勉強してたんだけど、それよりも、やりたいことができちゃった」

 私も偉そうなこと言えないんだーとすみれさんはてれ笑いを見せる。その笑顔は、とても可愛かったけれど、俺は、笑い返すことができなかった。

 俺は、ひとの話をきくだけきいて、自分のことを話せないのが、恥ずかしかった。

 何になりたかった? そもそも、そんなこと、考えもしてなかったんじゃないか? 最初から、諦めていたような気がする。

 黙ってしまった俺をすみれさんが心配そうな顔をしてのぞきこむ。

「大丈夫?」

「あ、はい、すみません」

「やりたいこととか、好きなこととか、ないんだ?」

 その質問に「はい」と答えるには勇気が必要だった。足が、地面についていないような気がする。本当に俺は歩いているのか。どこに向かって歩いているんだろうか。

「大丈夫だよ。きっと、見つかるよ」

 すみれさんの、その言葉が希望のように思えた。たとえ、単なる慰めの言葉だったとしても、すみれさんがそう言うなら、そうなんだと、思えた。

「ありがとうございます」

 ふわふわと、宙を歩いていた俺を、すみれさんが手を引っ張って、降ろしてくれたような気がした。

 その後、俺は「散歩は全部俺がやりますから、すみれさんはしろの側にいて下さい」と言ったら「それはダメ!」と言って「でも、ありがとね」と笑った。俺は、今度はちゃんと笑い返すことができた。


   ❖


 翌日の夕方、俺とすみれさんは迷い犬を連れて、隣の隣の隣の隣町の三本杉公園というところに来ていた。すみれさんが、いつの間にか、連絡をくれたひとと待ち合わせの約束をしていたのだった。

 迷い犬は、明らかにこの場所を知っている風だった。公園に着くちょっと手前くらいから、ぐいぐいと引っ張って、スマートフォンで地図を見ながらナビゲーションするすみれさんよりも先に、迷い犬の方が道を案内していた。ここでは、もはや、迷ってなどいなかった。

 公園の中に入ろうとした迷い犬を制して、俺たちは入り口で約束のひとを待った。

 犬は何で入らないの? と言うように、何度もリードを持つ俺の顔を伺い見る。公園の中へ入るのを待ちわびているようだ。お気に入りの公園なのだろう。

 約束のひとは、時間の二分前に俺たちの前に現れた。そのひとは若い女性で、ヒーっヒーっと喉を鳴らしながら歩くグレーのパグと一緒だった。

「えっと、香川さんですか?」

「はい、にゃんこホームの香川すみれと申します。ぱっくんさん、ですよね。今日はありがとうございます」

 ぱっくんというのはハンドルネームなのだろう。ぱっくんさんは、ちょっと照れながら本名は川崎ですと名乗った。

「やっぱり、このわんちゃんだと思います。いつも、おじいさんが散歩してました。でも、すみません、どちらの方なのか、私は知らなくて。でも、知ってるひと、いると思うんで、一緒に探しましょう」

「ありがとうございます」

 俺たちは公園の中に入る。既に園内で犬を散歩させているひとたちに聞き込みを始めた。そして、すぐにおじいさんを知っているひとに会うことができた。

「あ、タロじゃない! いやー、どこに行ったのかって、心配してたのよ~」

 そのひとは中年の女性で、ミニチュアダックスフントと一緒だった。しゃがみこんで、迷い犬を少し乱暴になでる。

 迷い犬の名前はタロ、というらしい。

「このわんちゃんの飼い主の方をご存知ですか?」

 すみれさんが訊ねると、そのひとは暗い顔をした。

「おじいさんね、亡くなったのよ」

 その一言は、俺を真っ暗な世界へ放り込んだ。

 すみれさんも同じようで、言葉を失っていた。

「ご家族とかは」

 すみれさんが、おそるおそるきく。

「親戚のひととかは来てたみたいだけど、あの家には誰もいないと思うわよ」

 その女性が案内してくれると言うので、俺たちはタロを連れてその家へ行ってみることにした。川崎さんにはお礼を言って、公園で別れた。

「でも、良かったわ。タロが無事で。タロがいなくなったから、おじいさんのこと、分かったのよ。二週間前くらいかしらね、おじいさん散歩に来ないわね、って話してて。それから一週間して、タロがいなくなってることに気がついて、どうしたのかしらって思って、呼び鈴を鳴らしてみたけど、応答がなくて、自治会長が警察に連絡したのね。そうしたら、お亡くなりになってたの。元気そうに見えたんだけど……」

 道すがら、女性は経緯を話してくれる。

 独り暮らしだったことは知っていたが、どういう理由でなのかは分からないということ。初めて会ったのは先ほどの公園で、おじいさんがタロを散歩している時だったこと。それまではおじいさんのことを知らなかったこと。交流があったのは、散歩の時だけだったこと。

「もっと、気にかけていれば良かったわ」

 残念そうに言う。

 俺も独り暮らしは長かったけれど、ご近所つきあいはほとんどなかった。気にかけてくれるひとなんて、誰もいなかった。でも、それは、俺自身も、誰も気にかけていなかったということだ。

 おじいさんの家は、公園から十分ほど歩いた住宅街の中にあった。築五十年は経っていそうな、木造平屋、庭付きの一軒家だった。案内してくれた女性とはそこで別れて、俺とすみれさんはそこに残された。

 門扉には鎖と南京錠で施錠してある。それほど高い門扉ではないから、簡単に侵入できそうだった。鍵と鎖は、入るなよという文句の代わりなのだろう。庭の方を伺うと、手作りのような犬小屋と、水が入っていたであろうステンレスのボウルや、タロのおもちゃと思われるボールが転がっていた。

「なんとかして、ご遺族と連絡が取れればいいのだけど、取れたとしても期待できないなあ」

 すみれさんが言う。そう言いながらも、立ったまま、手紙を書いていた。

 すんすん、とタロが鼻を鳴らした。

 俺は、タロと向かいあうように座って、タロを抱きしめた。

 きっと、おじいさんに会いたいに違いない。

 俺と、同じだな、タロ。

 親が先に逝くっていうのは、それは当たり前のことなんだろう。でも、置いていかれたと、俺は思った。タロも、置いていかれてしまった。いや、そんなことは理解していないかもしれないけれど。

 俺の両親は俺が十六の時に死んだ。真冬の、交通事故だった。ノーマルタイヤの乗用車がカーブでスリップして、俺の両親の乗った車に激突したらしい。車はガードレールと、その車に挟まれて廃車にするしかないくらい変形していた。両親は病院に運ばれたけれど、駄目だった。

 その時のことを思い出すと、今でも苦しくなる。

「大丈夫?」

 すみれさんの、心配そうな控えめな声が聞こえた。

「すみません、大丈夫です」

 俺は立ち上がって、もう一度、その無人の家を見た。

 かつて住んでいた、実家を思い出す。今はもう、他人のものになったその土地を目にするのが嫌で、売ってからは一度も足を運んでいない。行かなくても、こんなに虚しく思う。

 どうして、こんなことになったんだろうって、考えたくもないのに、答えをさがそうとしてしまう。

 だから、俺は、ずっと止まったままなんだろうか。

 俺とすみれさんは、なんとなく手を合わせて、静かにそこから去った。

 悪いことは続くもので、その日の夜に、しろが息を引きとった。

 すみれさんの涙を見た時、俺の目からも水が零れた。すみれさんの涙よりも、たくさん。

 すみれさんも、あきらさんも、呆れたかもしれない。


   ❖


 しろは火葬されて、庭のお墓にその小さくなった骨が納められた。本当は、ちゃんとした動物霊園へ納められれば良いのだが、お金のことを考えるとやはり難しいらしい。墓前には猫缶とおやつが供えられている。しろの他に、もう二匹ほど猫が眠っているらしい。

 タロの飼い主であったおじいさんの親族と連絡がとれることは望み薄であり、とれたとしても、引き取ってもらえる望みもまた薄いことから、里親を募集することになった。すみれさんが、すぐに情報を書き換え発信していた。

 俺はにゃんこホームを手伝いながら、再びハローワークへ通い始めた。

 やりたいことも見つからないまま、とりあえず条件の良い事務職をと職員のひとにお願いするも、その倍率の高さに渋られた。たった一名の求人に対し、応募人数は五十人という。事務経験三年の俺が勝ち残れるはずもなかった。俺はすでに給付金をもらってないせいか、職員のひとの態度もそれほど悪くはない。けれど、その顔には「あんた今まで何してたの?」という問いが張り付いているように思えた。

 にゃんこホームに戻ってすみれさんに「どうだった?」ときかれても、首を横に振るしかなかった。すみれさんの方も、タロに限らず、里親になると手をあげるひとはいないようで、ミニチュアダックスを抱き上げて「こんなに可愛いのにねえ」と愚痴をもらした。普段、愚痴をこぼすようなひとではないから、きっと、俺に合わせてくれているのだろう。

 そんな芳しくない日が、一週間続いた。

 その日はすみれさんも一緒に夕食の席につくことになって、すこし賑やかになったのだけど、俺は、水を注すようにように沈んでいた。そんな俺を見て、すみれさんが口を開いた。

「あの、私がこんなこと言うの、間違ってるんですけど、清水くん、ちょっと休んだ方がいいんじゃないかなって思うんです」

 俺は「え?」と顔を上げた。

「そんな暗い顔じゃあ、どこも雇ってくれないですよ!」

 その言葉ははっきり言って、精神に追い撃ちとなるダメージを俺に与えた。

 ショックを受けた俺を見て、すみれさんはあわてる。

「ごめ、ダメ出しとかじゃないの。つまり、ちょっと気分転換しましょってことなの。ねえ、あきらさん」

 すみれさんはあきらさんに振るが、あきらさんは、黙ってる。

「いえ、もう、ホント、一日でも早く、ここから出て行かなきゃって思ってるんで」

 本当は、日雇いのバイトでもなんでもして、出て行かなきゃと思ってる。これは、言い訳かもしれないけれど、携帯が死んでる今は、どうしようもなかった。一体、俺はいつまでここのお世話になるつもりなんだろうか。

「家がないって分かってる子を外に放り出したりしないから、そういう心配はしなさんな」

「いえ、でも」

「じゃあ、あれだ。出世払いで家賃を払ってもらおうか」

「そんな、そんな約束なんてできませんよ。どれだけ払えるか、わかりませんし……」

 俺がそう言うと、あきらさんは「ぶっ」と吹き出した。

「しゅ、出世払いっていうのは、そういうもんだろう? あー、あんたは真面目すぎるねえ。ダメダメ、そんなんじゃ。真面目でいなきゃいけない時なんて、葬式とか面接とか、仕事中とか、そんな時くらいでいいんだよ!」

「そうよう。清水くんは、真面目すぎ!」

「とにかく、あんたのことは、旦那にも言ってあるし、ここが嫌っていうんじゃなければ好きなだけいなさいな。あー、もうホントに、ご飯が美味しくなくなっちゃうわ」

 そう言って、あきらさんはご飯をぱくぱくと食べ始める。

 俺はなんだか、お礼も言いそびれて、取り残された気分だった。

「明日は日曜日でハロワも休みでしょ。明日はのんびりしましょ。私も休みだけど、ここには来るから」

 俺は返事を返すことはできなかったが、どうやら、のんびりすることは決定のようだった。



 そして、翌日の日曜日。いつものように、朝から散歩へ出かけた。ちょっとのんびりして、いつもの公園ではなく、芝生なんかの自然が多い公園へ行く。その代わり一度に全部の犬たち、計十一匹を連れて。それはもう、この上なく目を引き、大変だった。糞尿を片付ける時は俺が全部のリードを持って、すみれさんが後始末をするなど、連携プレイが必要だった。

 でも、なんだか、その光景が可笑しくて、すみれさんはずっと笑っていた。俺も、犬たちに翻弄されるのが、どこか楽しかった。

「あー、可笑しい。カメラを持ってくれば良かった。また今度、こんな風に行きましょうね」

 あまりの大変さに、即答しかねていると、すみれさんはすぐにつっこんだ。

「こらこら。社交辞令でもそうですねって言うべきところよ!」

「すみません……」

 謝ると、またすぐに「ちっがーう!」とつっこまれる。

「もう、そうじゃなくて、分かりました、でしょ?」

 俺はそれから、いくつもすみれさんからコミュニケーションのとり方講座を受けた。

 帰ってから、すみれさんはビデオカメラを取り出して、写真を撮ったり、動画を撮ったりした。被写体はもちろん、犬猫様たちだ。おもちゃで釣ったりしてベストショットを狙う。だけど、俺にとっては、そんな風に格闘しているすみれさんの方が面白かった。

「清水君も、携帯、動画とか写真は撮れるんでしょ? 一緒に撮ろうよ」

 そう言われて、初めて、そんな機能が携帯電話にあるのだと気がついた。

 既に鳴らない携帯電話を、俺は携帯してなくて、借りている部屋に置きっぱなしだったから、それを取りに行った。充電は一応してある。カメラを起動させ、データフォルダを見てみたら、その携帯を買った時に撮った古い写真が三枚だけ保存されていた。当時住んでいた部屋の窓から撮った、ただのつまらない景色の写真とか、空とか、その日食べたラーメンの写真だった。思い出なんか、何もない。動画に至っては、起動したことさえなかった。

 すみれさんの所へ戻ると、なにやら満足げな顔をしている。

「見てみて、これ」

 すみれさんは、俺にビデオカメラで撮った映像を見せてくれた。そこには、タロと、ロープのおもちゃでタロの鼻をくすぐるすみれさんの左腕が映っている。そして、タロがくしゃみをした。くしゅん、くしゅん、と二回。そして、ぶしゅんっと三回目にあごを床に打ちつけ、更にぶしゅるるるんっと四回目もあごを床に盛大に打ちつけるタロの姿と、それを見て大笑いするすみれさんの声が収められていた。

「ぶ」

 俺は吹き出していた。

「ね、ね、可笑しいでしょう!?」

「こ、こんな、可哀想ですよ、タロが」

「やあね。こういう映像がウケて、これを見たひとがタロを欲しいって思うかもしれないじゃない」

「そうだと、いいですね」

「さてさて、次はどの子と遊ぼうかな~?」

 すみれさんは次のベストショットを狙いに移った。

 俺はタロに近づいて、あごを両手で包むようにして撫でた。愛嬌のある顔が、優しい目が、とても可愛いと思う。おじいさんも、そう思ってたに違いない。

「携帯の待ち受け、タロの写真にしたら? 就活してる時でも、そういう写真見たら、癒されるから」

 すみれさんに言われて、俺は、携帯のカメラでタロを撮った。そして、その写真を待ち受け画面に設定した。上々な出来だと思う。

「俺、タロを飼いたいです」

 無意識、だったと思う。今の状況では到底叶わないことを、俺は口にしていた。

「そっか」

「仕事見つけたら、是非」

 俺は、そう言えば、すみれさんが喜んでくれるだろうと、思っていたのかもしれない。でも、すみれさんの口は、重かった。

「その気持ち、とても嬉しいよ」

 そう言うすみれさんの顔は、笑っていなかった。

「でもね、就職しただけじゃ、ダメなんだ」

「ええ、それは、ちゃんと自立して、部屋を……あ、そっか、ペットオーケーの部屋じゃないとダメなのか」

「うん、それも、そうだけどね、あのね、お仕事してる独り暮らしのひとには、譲渡してないんだ」

 それからすみれさんは、いくつか譲渡の条件をあげていった。

「長時間、留守番をさせるような家庭にも譲渡できないし、六十歳以上のひとしかいないお家もだめなの。それと、外じゃなくて、お家の中で飼ってもらわないとダメだし……だから、ごめ、ごめんね」

 そう言って、すみれさんは膝を抱えて泣き出してしまった。

「な、なんで、すみれさんが泣くんですか」

「だって、せっかく、飼いたいって、言ってくれたのにっ」

 確かに、それは、ショックだったし、俺は、すみれさんを慰めようにも、顔がひきつって、明るい言葉のひとつも言えやしなかった。

「タロも、きっと家族が欲しいって思ってる。清水くんだって、きっと誰よりも家族が必要なんだって、私、そう思ってるのに、どうして、どうして、こんなに難しいんだろ」

 すみれさんの言葉に、俺は「そうですね」としか言えなかった。

「本当に、ごめんね」

 涙を袖で拭きながら、すみれさんは顔を上げる。

「いいんです」

 俺は、やっと、少しだけ笑って言った。

 すみれさんが泣いたから、どうしたのどうしたのと犬たちが集まってきていた。

 不意に、タロが俺の顔をべろりと舐めた。

「うわ」

 慌てて顔をガードする。けど、タロは執拗に顔を舐めようとする。まるで、見えない涙でも拭うかのように。

「こら、タロ、やめ」

 タロに押し倒されると、俺はもみくちゃにされた。

 それを見て、すみれさんが笑う。

 こっそりと、すみれさんが笑ってくれて良かったと、思った。

 犬たちを引っぺがして、一息ついた時、俺は、今度は無意識じゃなくて、ちゃんと言った。

「俺、やっぱり、タロが欲しいです。頑張って、仕事見つけて、犬が好きっていう家族も見つけて。だから、それまで、タロが貰われなければいいなって。……さすがに、それは、ダメですかね」

「それは、あきらさんに相談しなきゃだね」

「そうですね」

「そうなると、いいね」

「はい」

 休日は、そうして終わった。

 俺は、自分が少しだけ変われたような気がした。



 俺は、翌日にとりあえずバイトをと思ってバイト情報誌とにらめっこをした。まかない目当てで、飲食店に目をつけ、電話をし、面接をとりつけることに成功し、火曜日にそのイタリアンのお店に乗り込んで面接を受けた。皿洗いとか、掃除とかなんでもやりますとか勢いで言って「じゃあ、明日から来て」と内定を貰った。

「あきらさん、すみません、もうしばらく、ここに置いて頂けないですか」

 報告ついでに、俺はあきらさんにお願いをした。ら、あきらさんは目を丸くして驚いているようだった。言葉を探す時間稼ぎのように、ソファーに腰掛ける。

「お願いします」

 俺はもう一度、頭を下げる。

「前にも言ったけど、好きなだけいなさないな。どんだけ預金が貯まろうと、それはかまわないさ。本当は、あんたを養子にしようか、なんて考えてたくらいだし」

「え、養子、ですか?」

「そ。前にも言っただろ。子供が欲しかったけど、できなかったって。だからさ。でも、もう必要ないかもねー。いやー、ちょっと老後の心配もあってさあ」

 あきらさんは笑う。

 でもまさか、そこまで考えてくれていたとは思っていなかった。

「とにかく、まだまだ居てもらって大丈夫だから。旦那もまだ帰ってこないし。それに、防犯にもなるからいいって。まったく。うちには番犬がたくさんいるっていうのにねえ」

「ありがとうございます。今度、俺からも旦那さんにお礼を言わせて下さい」

「そうね。旦那の話相手になってやって」

 あきらさんの了解を得て、俺は、たぶん、初めてここに来た時より、嬉しかったと思う。

 その日の夜に、あきらさんの旦那さんとスカイプで話しをした。旦那さんは、かなり陽気なひとで、たっぷりと向こうでの生活の話を聞かされた。でも、その話は新鮮で面白かった。あきらさんは「そのうち飽きるから」と言う。

 翌朝、やはりいつものようにすみれさんと散歩に出て、ごはんをあげて、俺はバイトに出かけた。学生の頃も飲食店でバイトをしていたから、仕事を覚えるのはそれほど苦ではなかった。

 それから、給料日が来て、給与明細を貰った時に俺は店長にひとつお願いをした。思いついたことを、試してみたかったから。それは、里親募集のチラシを、店の順番待ちの椅子が置いてある壁に貼るというものだ。動物病院にも貼ってもらっているが、そもそも、動物病院にくるひとというのは、既にペットを飼っているひとで、新たに飼おうと思うひとは少ないんじゃないかと思っていたから。その話をあきらさんとすみれさんにしたら、新しいチラシを作ってくれた。そうしたら、あきらさんが改めてお願いに行くと言って、ついでにそこでご飯食べて、俺の仕事っぷりを見ていくと言うから、俺は、なんだか授業参観日みたいに、ちょっと張り切らなくてはならなかった。さらには、交代ですみれさんも食べに来るという。なんだか、恥ずかしいものだ。そういう日にかぎって、ホールを任されるものだから。

 俺は、しばらくバイトをしながら、正社員の仕事も探して面接を受けたり、落ちたり、受けたり落ちたりを繰り返した。でも、前のように落ち込むことは減っていった。変わらずにゃんこホームも手伝って、すみれさんと一緒に動物のことなんかを勉強したり充実した時間を過ごしていった。


   ❖


    五年後。

 俺は、にゃんこホームのインターホンを押し、応答を待たずにドアを開けた。

「あきらさん、おはようございます」

 声を掛けると、すみれさんがひょこっと顔を出した。

「すみれさん、おはようございます」

「おはよう。遠慮してないで、上がってよ」

「はい。タロのところに行ってます」

「オッケー」

 俺は靴を脱いで、地下のシェルターへと降りる。

 シェルターの中に入ると、朝の散歩もご飯も終わって、くつろいでいる犬たちが俺を迎えた。

 手前から一匹ずつなでて、挨拶をする。

 そして、タロの前で膝を折った。

「タロ、待たせたな」

 すっかり白くなってしまったタロの顎をなでる。

 タロの推定年齢は既に十歳を超えていたから黒かった顔がだいぶ白くなってきていた。

 俺は、持ってきた新しい首輪と、リードをタロにつけた。

 こういうのも、なんだか人間のエゴみたいでどうかなと、思ったけど、何かをプレゼントしたかった。

 俺が、にゃんこホームから出て行ったのは、バイトを始めて一年と三ヶ月後だった。ペットフードを作っている小さな会社の正社員の内定を貰ってからだった。

 にゃんこホームを出ても、休みの日は手伝いに通った。あきらさんにお世話になったお金を払うというのは、なんか違うような気がして、俺は会社のペットフードを持参した。

 それから三年後、すみれさんが結婚した。相手はもちろん、俺じゃない。散歩中に出会ったイケメンとお付き合いをしていたらしい。すみれさんは結婚してもにゃんこホームの職員は辞めないということだった。

 そして、俺も、さらにその一年後、犬好きの彼女と家族になることができた。

 やっと、タロを迎えに行くことができた。

 夢が、叶った瞬間だった。

 でも、実際は仕事に行ってる間中はにゃんこホームに預けられることになっていた。まだまだ、俺の給料じゃ生活するのに無理があるから、彼女は仕事を辞められなかった。

 俺は、タロと一緒にリビングへ行く。

「あきらさん、すみません、こんな中途半端で」

「べつにいいよ」

 あきらさんは、やはり、あっさりと快諾してくれた。

「ありがとうございます」

「いえいえ。こちらこそ、いつもフードをありがとうございます。やっぱ、食いつきが違うもんなー」

「そうですか。それは、作り甲斐があります」

「じゃあ、写真撮りにお外へ行きますか」

 外へ出て、にゃんこホームの門扉という危うい場所にセルフタイマーをセットしたカメラを置き、俺と、タロと、あきらさんと、すみれさん、四人並んで写真を撮った。

「ありがとうございます」

「じゃあ、また明日ね」

「はい。よろしくお願いします」

 俺は、ちょっと不思議そうな顔をするタロを連れて、新しいホームへ向かう。

 明日も明後日も、俺は毎日のようににゃんこホームへと通うだろう。たとえば、俺の給料が上がって、タロの世話をお嫁さんに任せることになったとしても、タロが天国へ旅立ったとしても、日曜日には手伝いに行くだろう。俺の、もうひとつのホームだから。

     おわり

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ホームレスと迷い犬 真乃晴花 @10nenmanoriko

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