第2話 ヨルズの物語①
そこは風通しのいい2階の部屋だった。
表札に掲げられた名前を確認してから俺はノックして中へ入る。
するとドアを開けた瞬間に甘い香りがした。多分、見舞いの生花だろう。
ベッドと椅子と小さなクローゼットがだけで無機質な印象を受ける室中で、綺麗なオレンジのガーベラは目を楽しませてくれるのかもしれない。
しかし、俺にとっては居心地が悪かった。
そもそも病院というものが苦手である。特に消毒液の臭いが嫌だ。
あれは嗅いでいるだけで怪我がスキップしながら近付いてくるような気がする。
勿論、何度か病院の世話になったことはあった。それもやむを得ない事情によるもので望んで入ったわけじゃない。
「せっかく来てくれたのに、挨拶も無しなの?」
躊躇う心中を見透かしてか、上半身を起こした病人が意地悪そうに笑ってやがる。枕元には小説が2冊置かれていた。
病魔に蝕まれて余命幾ばくも無いって話だったのにピンピンしているじゃないか。
(いや、そうじゃない)
分かっている。
危険な状態になったという連絡を受けたから俺は急いでここまで来たのだ。
回復したわけじゃない。
彼女は、俺の前で気丈に振る舞っているだけだ。
「お久しぶりです、院長先生」
「元・院長よ。後任は、あなたもよく知っているあの娘」
「そうでしたね」
「お見舞いの品は何も無いのね」
「すいません。慌てて来たからそこまで気が回らなくて」
口を尖らせる老女に俺は頭が上がらない。
この人は俺を育ててくれた孤児院の院長だ。
自立した後も何かと気にかけてくれている。
むしろ、気にかけ過ぎているのかやたらと俺の実情に詳しい。
「聞いたわ。持ちかけられた八百長を蹴ったせいで
「相手は西側が新造した
「でも、あなたは勝った」
「まぐれですって」
「何回目のまぐれかしら?」
「勝てない相手には本当に負けますよ。でも幾らカネを積まれても、ワザと負けるなんてできません」
「小さい時から変わらないわね。もう20歳なんだから、上手に生きてみたらどう? 」
耳が痛い。
苦笑いして誤魔化すしかなかった。
いくら言い込められても、恩人を相手に舌戦をするつもりなんて無い。
それこそ
「ねぇ、ヨルズ」
「はい」
名前を呼ばれて、俺は院長の近くに寄る。
頬はこけて肌に張りが無くなっていた。
けれど美しさは変わらない。
この人は、ずっと美しいのだ。
小さい頃からそう信じている。
「私の最期のお願いを叶えてくれる?」
「まずは内容をお聞きしましょう」
心臓が痛い。どんどん血液が圧送されて血管が破裂しそうになる。
人はいつか死ぬ。死んだ奴なんてたくさん見てきた。
それが病気だったり、怪我だったり、殺人だったり、天寿だったり――とにかく色々ある。
院長先生はもう長くない。
分かりきった現実に殴られて、俺は打ちひしがれた。
勿論、そんな素振りは一切見せないでおく。
テレパシーのように鋭い勘を持っているこの人にはあまり意味はないだろうが。
「友人の墓前に手紙を添えて欲しいの」
「手紙……ですか?」
「そう。ついでにお花も持ってね。オレンジ色のガーベラがいいかしら?」
奇妙なことを言い出した。
しかし、本気だろう。
院長先生は柔和な笑みのまま俺のことを見ている。
「お受けいたしましょう」
「随分とアッサリ引き受けてくれるのね」
「機士の仕事を干されてヒマなんです。言わせないで下さいよ」
「ありがとう。謝礼は新院長……フェリスから受け取って」
「あいつとは会う度に頭ごなしに怒られる気がしますが……」
「大丈夫よ。勝手に孤児院を飛び出していったあなたのことが心配で仕方ないだけだから」
まぁ……タダ働きでもいいだろう。
フェリスと顔を合わせるのは気まずいので報酬は要らない。
あいつの苛烈な性格は、そろそろ何とかした方がいい。
「それで、その墓ってのはどこに?」
「モルビディオ廃坑にある12番採掘坑の奥よ」
「なんでまたそんなとこに……」
有名なので名前だけは知っているが行ったことは無い。
かつては稀少銀が採掘されていたらしいが、終戦から数年後には全く取れなくなって閉山した。それも労働力として旧帝国軍の捕虜を酷使していたという。
それも50年近く前の話である。
鉱山資源の他にはこれといった特産物も観光資源も無く、景色は埃っぽくて物寂しい。
今となっては足を運ぶだけ無駄な場所だ。
一応程度に鉄道網は敷かれているが、まともに使われていないという話だ。
(そういえば院長先生は戦争経験者だったな)
ということは若い頃に死に別れた友達の墓なのだろうか。
例えば、当時の鉱山で一緒に働いた仲間だったとか。
「詳しく聞きたい?」
「興味はありますが」
「行けば分かるから、そのときのお楽しみ」
これは絶対に話してくれないパターンだ。分かっている。
そもそも、立ち入ったことを聞くのは無粋だ。
今回は頼まれたことを確実にこなしておけばいい。
「紅い水晶の十字輝が、あの子の墓標よ。これが手紙と地図」
手渡された2通の封筒と小さく折り畳まれた地図を受け取ると、院長は「少し寝るから」と横になってしまった。
俺はしばらくの間、彼女の寝顔を眺めてしまう。
「いってきます、先生」
痩せ細った手を握って別れを告げる。
念の為、看護師に声をかけた俺は病院を後にした。
エントランスから出ると今日も天気が良い。
通りではディーゼルエンジンを積んだ乗用車が黒煙を撒き散らしながら軽快に走っていく。
道行く人々は燃え朽ちた軽油の吐息にむせ返りながら各々の目的地を目指して歩いていた。
あるいは、行く当てなんて無い者もいるかもしれない。
つまらない想像が哀愁を誘う。
このままモルビディオ廃坑までピクニックしてやろうかと考え込んでしまうほどに。
「いずれ伝説となるヨルズ・レイ・ノーランド様が子供のおつかいとは落ちぶれたもんだ」
嘘である。そんな風に呼ばれたことはないし、そんなことも思ってない。
いや、真面目に考えると小っ恥ずかしいのでやめておこう。
心と目的は油断しているとすぐにズレる。伝説になる必要などどこにも無い。
ただ真っ直ぐに的をいる矢であればいいのだ。
「そういや墓標が『紅い水晶の十字輝』ってどういうことだ?」
聞いたこともないようなマイナー宗教なのだろうか。
あるいは知識不足だろうか。
俺はボヤきながらアウターストリート行きのバスに乗り、墓参りのプランを頭の中で描いた。
準備は入念にしておこう。
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