エピローグ
三浦浩之は泣いていた。両親との些細な喧嘩で家を飛び出し、すぐ近くの公園のベンチで抑えきれなかった涙を流していた。つい最近ここからほど近い場所に大きな公園ができたせいか、夕方の六時を過ぎたばかりだが人気は無く静まり返っている。
ベンチの上を覆う藤棚は薄紫の美しい花を垂れ下げていて、座りながらぼんやりそれを見上げていると、些細な親子喧嘩で泣いている自分が馬鹿らしくなり、浩之はいつの間にか泣き止んでいた。浩之は昔から感情が昂ると涙が出てしまう性質で、そんな自分に嫌気がさしていた。
公園の出入り口の横に設置された水飲み場に向かい、冷たい水で顔を洗う。高校生にもなって泣いてしまった事実ごと洗い流してしまいたかった。
浩之は目を瞑ったまま学生服のポケットをまさぐり、ハンカチが無いことに気付いた。ベンチには小銭入れの入った鞄を置きっ放しにしている。もしかしたらその鞄にハンカチも入っているかもしれないと思い、ざあざあと水を流していた蛇口を捻ってベンチの方へと踵を返したその時、どんと身体が何かにぶつかった。
「あいた」
「えっあ、すみません!」
浩之は状況を理解し、慌てて頭を下げる。浩之の後ろを通り過ぎようとしていた人の足音が水音に紛れ、人がいる事に気付かずぶつかってしまったのだ。白いYシャツにグレーのスラックスを穿いた女が、転倒はしなかったもののふらりとよろめいた。
「ああ、私もごめんね。君は大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」
女は肩にかけていた水色の鞄からハンカチを取り出し、浩之に差し出す。
「とりあえず顔、拭いたら?」
「す、すみません……」
顔がびっしょりと濡れていたことを思い出し、浩之は赤面してハンカチを受け取る。垂れ落ちる水滴を控えめに拭っていると、女は公園を出てすぐの自動販売機で缶入りのオレンジジュースを購入して戻ってきた。
「目元、これで冷やしなよ」
浩之は更に耳まで真っ赤に染め上げた。泣いていたことが分かる顔をしていたらしい。ほらほら、と赤ちゃんをラトルであやすように目の前で缶を揺らされ、浩之はその行為を止める意味も込めて渋々それも受け取った。
「色々とすみません……。これ、いくらですか」
「高校生が何言ってるのよ。お姉さんは社会人なので、このくらい余裕で奢ってあげます」
お姉さん、の部分を強調した言い方に数秒経ってから二人とも吹き出す。そして五分ほど経った時には、元々浩之が座っていたベンチに二人並んで腰かけていた。
女は篠崎良子といい、浩之より一回り年上の二十七歳の会社員だった。まだ十五歳、高校に入学したばかりの浩之にとって良子はひどく大人で、時折冗談を交えて適当な話題を振られると、憂鬱だった気持ちも忘れて心地よく雑談を楽しんだ。
「ところで三浦君、そろそろ帰らなくて大丈夫?」
浩之ははっとして、公園の真ん中に設置された背の高い時計に目をやる。午後六時半。浩之が家を出てから一時間半が経っていた。鞄の中のスマートフォンを確認すると、母親の千絵から二件の不在着信があった。マナーモードにしていたので気が付かなかったのだ。
今晩は帰らないぞ、というくらいの意気込みで家を飛び出した浩之だが、落ち着いて冷静になった今、苛ついていた理由も馬鹿らしく思えてくる。
「うん、帰ります。……そうだ、ハンカチ。洗って返したいのですが、どうしたらいいですか」
「ええー、いいわよ洗わなくて。むしろあげちゃう」
「いえそんな訳には」
押し問答を繰り返した結果、次の金曜日の夕方に再びこの公園の同じベンチで待ち合わせることになった。
「こう……取扱説明書? いや違うな、うーん、哲学書って感じかな。そういうのを人はそれぞれ持ってるって考えるんだよ」
浩之がちょっとした菓子を添えて綺麗に洗濯とアイロンを施したハンカチを返した日から二か月が経った。その時に雑談の延長で泣いていた理由を訊かれ、思春期らしい悩みを打ち明けた所、良子が親身になって聞いてアドバイスし、また話したいと思った浩之が素直にそれを伝えた為、毎週金曜日に他愛ない話をする仲となったのだ。四度目に良子の仕事が長引き浩之を三十分待たせた日は、あらかじめ伝えられるようにと連絡先も交換した。
「哲学書なんて読んだことながいし、よく分からない」
「別に哲学は知らなくていいよ。とにかくその人が何を大切にするのか、何故怒るのか、どういう時に幸せを感じるのか……そういうのを知ることが、その人を知ることなんだと、私は思ってるのね」
「ふぅん」
「気に入らない行動をする人がいたとして、もしかしたらその行動には深い理由があったのかもしれない。逆に優しい人がいたとして、実はそれには裏があるのかもしれない。気の合う人と行動するのは勿論大切なんだけど、人を好きか嫌いか判断するのはその人の哲学書をよく読んだ後でいいんじゃないかなって思うわ」
「それは篠崎さんがDV男と別れた時の教訓?」
「もー、やめてよその話は!」
「ごめんごめん、怒らないでよ篠崎先生」
「こんなつまらない私の人生観を語るだけで先生って呼ばれてもねぇ」
「お姉さん」
「よろしい」
二人は声を上げて笑う。歳は離れていたが、良き友人となっていた。
ベンチで話す二人の手にはそれぞれ缶ジュースがある。高校生である浩之はいつも会社員の良子よりも先に公園に到着し、良子を待つ間に購入しているのである。初めて会った日に良子がオレンジジュースを買ったものと同じ、公園の出入り口の前に設置された『オール百円』と書かれた自動販売機で二缶買い、代金を払おうとする良子に「色々教えてもらってるお礼だから」と片方を押し付けて、二人で飲みながら会話を楽しむ。それがいつもの光景だった。
良子の会社の繁忙期や浩之の学校のテスト期間など、会えない日もあったが、二人の関係は二年間近く続いた。良子は趣味の旅行に出掛けた際に浩之の分の土産を買うようになり、アルバイトを始めた浩之は金曜日だけはシフトを入れなかった。
そうした日々を送っていたとある金曜日。高校は春休みに入り、浩之は今週の頭に良子が有給休暇を取得して行った筈の沖縄旅行の土産を期待しながら彼女を待っていた。高校三年生になったからと浩之は受験勉強に明け暮れていて、金曜日のこの時間が何よりの楽しみとなっていた。
しかしいくら待っても良子は来ず、心配になった浩之が彼女のスマートフォンに電話をかけると、数コールの後に出たのは良子の母だった。良子は入院していて会えないという。沖縄で良子の乗ったタクシーが事故に巻き込まれ、頭を強く打ってしまったのだ。
「篠崎さん……良子さんは無事なんですか」
良子の母は言い淀んでいたが、浩之があまりにしつこく尋ねるので、観念したように歯切れ悪く話し始めた。
「良子から話を聞いた事があるけど……あなた、最近良子の友達になった高校生の男の子よね」
「はい」
「覚えてないわ」
「え?」
「事故の衝撃で記憶喪失になってしまったの。ここ十年くらいの記憶がなくて……どうやら中身だけ高校時代に戻ってしまったようで」
「え……?」
「だからごめんなさい、今の良子は、あなたのことは覚えてないの」
浩之は一瞬、自分が立っているのか座っているのか分からなくなった。視界の端を二つの缶ジュースが転がっていくのが見えて、それを落としたことに気付いた。
浩之は震える声で良子と話がしたいと懇願したが、良子の母はそれを拒んだ。浩之には過去の笑い話のように話していた、暴力を振るう元恋人の件は、当時篠崎家で重大な問題となっていたらしい。ストーカー事件に発展しそうな所を周囲の様々な協力を得てどうにか収束させたが、しばらくの間ふさぎ込んで自室にこもるほどの精神的な傷を良子は負っていたのだ。
その一連の記憶をすっぽりとなくしてしまった今の良子を見て、彼女の母はこれが運命なのだと感じた。同時に思い出させてはならないと、失った十数年の記憶を取り戻さないよう努めねばならないと決意した。
それから浩之はせめて良子の怪我や症状の現状を知りたいと思い何度か電話をかけたが、記憶が戻るきっかけとなるかもしれない情報が詰まった良子のスマートフォンを母が破棄した為、途中から繋がらなくなった。
浩之は心の大事な部分が欠けたような気持ちでそれからを過ごした。第一志望は東京にある大学で、今の学力のままでは合格が厳しい事と、下宿する為に親の了承を得るのが難しそうだという事を以前良子に伝えていたのだが、それらを頑張る気力も湧いてこなかった。
そして数か月経ち、夏になり、とある金曜日。夏季講習を終えた浩之が近道をしようと公園を通り抜けようとした時、良子を見つけた。良子はいつも二人で話していたベンチで蹲って泣いていて、浩之は息をのんだ。吸い寄せられるように声を掛け、良子の母に聞かされた通り彼女の中身が己と同年代の少女になってしまっていることを痛感し、眩暈を覚えた。
浩之の知る良子はいつも世界のすべてを知ったような顔をして、しかし自分は無知だと言い張り、あらゆるものへの理解を模索して生きていた。そんな良子に戻って欲しいと切望した故に、浩之は以前読んだ良子の哲学書を、今の良子にたくさん読ませた。
しかし何度も会う内に、ようやく浩之は理解した。他の誰よりも大人びていて、他の誰よりも達観して見えた良子だったが、彼女も暴力的な青さを武器に思春期を悩み抜いていたことを。諦めれば良い筈の人間関係の修復に躍起になり、泥沼に溺れながら手探りで未来を掴み取って生きてきたということを。
良子が同い年だったら、きっとクールで大人びていて近寄り難い人間だったのだろうと、浩之はずっと考えていた。だが実際に対面してみると、笑えるくらいに自分と変わらない少女だったのだ。
そして、良子は旅行関係の仕事に就きたいのだと言って、職業訓練学校に通っていた。それまで働いていた会社は辞めて、夢を叶えるのだという。浩之の知る良子は旅行が趣味なのだと言っていたが、夢の残骸を趣味と呼び名を変えて愛していたのだ。
浩之はりょうちゃんと話しながら、篠原良子の哲学書を読んだ。りょうちゃんは良子が隠していたページをいくつも読ませてくれる存在だった。尊敬と憧憬は更に強まり、同時に以前とは違う感情も芽生えた。兄弟のいない浩之だが、妹がいる兄はこんな気持ちなのだろうと悟った。そして以前と同じ哲学書を持つ彼女は存在しないことも。
大人の年齢で中身だけ子どもになってしまうという目に遭いながら、腐らずに夢を叶えようとする良子を見て、浩之は再び東京の大学を目指した。死に物狂いで勉強し、頭を下げて下宿の許可を乞い、四月からはその大学に通っている。慣れない新生活に苦戦しながらも、充実した日々を送っている。
百円の自動販売機を見る度に、浩之は良子のことを思い出す。今良子がどうやって暮らしているのか、浩之は知らないが、きっと悩みながらも強く、幸せに生きているのだろう。
君に教わる人生観 岡本 惠 @oka_kei
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