君に教わる人生観
岡本 惠
百円授業
公園の端に置かれた二人掛けのベンチに、篠崎良子は蹲るように座っていた。微かに震えるその身体からは抑えきれなかった嗚咽が漏れている。数年前、近くに遊具や散歩道が豊かな広い公園ができた為、夕日が町を照らし始める時間帯だというのに、ここで遊ぶ子どもはいなかった。ベンチ上に日除けとして設置された藤棚は枯れ、アーチ状の格子に萎れた蔓がいくらか絡まっているだけとなっている。
次々と涙が溢れる目元を擦り続けた水色のハンカチは藍色に染まり、しっとりと重さを増して冷たくなっている。幼子のように泣く自分が情けなく思えたが、良子は誰も見ていないのだから構うものかと開き直ることにした。この後の英会話スクールの時間まであと一時間ある。それまでに止めればいい、と。
そうやって蹲り続けて数分経った時、足音が聴こえた。公園に一人の男がやってきたのだ。良子は咄嗟に息を止めて嗚咽を押し殺し、俯いた泣き顔を腕で隠す。男が自分を気にも留めず去っていくのを願いながら。
しかし無情にも足音は公園内を歩き回り、やがて良子の前で止まった。
「あの、大丈夫ですか……? これ、使ってください」
声を掛けられ、驚いた良子が顔を上げると、男はオレンジジュースの缶と綺麗に折り畳まれたハンカチを差し出していた。
呆然とその二つを見つめる良子に、男は慌てた様子で付け加えた。
「ジュースはほら、これで目元を冷やすといいかなって思って……。今そこの自動販売機で買ったばかりだから、冷たいですよ」
そこの、と言いながら男はベンチの正面、公園の出口の前に設置された自動販売機を指差す。緊張しているのか、妙に上ずった情けない声や表情に、良子は気が付けば「え? あぁ、ええと……ありがとうございます」と言いながらハンカチとジュースを受け取っていた。いつの間にか涙は止まっていた。
男は三浦浩之と名乗った。浩之は良子の隣に腰かけ、嫌なことでもあったのかと訊いた。
良子は沈黙し、きんと冷えた缶を目元に押し当てる。目玉を沸騰させそうだった熱と共にそれを沸かしていた激情が吸い取られていくようで、ため息が零れた。
「……学校の友達と、うまくいってないんです」
無意識に話し始めていて、良子は驚いた。しかし後悔は湧かず、するすると口が動いていく。
同じ学校に通う山本舞との関係が悪く、面と向かって嫌いだと言われたこと。舞がクラスの中心的人物なせいで、他の生徒も良子とは距離を置くようになったこと。昼休憩に一人で食事をとるのがみじめなこと。周囲の顔色を窺ってばかりの自分が嫌になったこと。
「みんなと仲良くするために今の学校に通ってるわけじゃないし、割り切ろうとは思うんだけど……うまくいかなくて」
「分かるよ、僕も前までそうだったから」
「あなたも?」
「自分は誰かを嫌うくせに、嫌われるのは怖かったりね」
「そう、そうなの」
身を乗り出して頷く良子に、浩之は苦笑して尋ねる。
「りょうちゃんはその山本さんという人と仲良くなりたいの? それとも、もう関わりたくはない?」
「……仲良くなれたら嬉しい、とは思うよ」
「そっか。それじゃあ、一度山本さんと話し合ってみるのもいいかもしれないね」
「ええっ」
露骨に嫌な顔をされて、浩之は小さく吹き出した。今度は拗ねた顔をする良子を宥める。
「これは僕の恩師の言葉なんだけど」
人は誰しも心に一冊の哲学書を持っている。自分はどうして生きるのか、何を幸せとするのか、何を大切に過ごすのか。そういった自分の心のすべてが詰まった本だ。これは毎日、毎秒のように更新されて、中身が増えたり書き換わったりする。そして全く同じ本を持つ人は存在しない。
だから人を知りたければ、相手の哲学書を読むことだ。その人が何を思ってどう行動するのか、何に対して何故怒りを覚えるのか。互いに理解した上でそれでも気が合わなければ、仲良くする必要なんてない。
「ただ、話し合いをする上で注意しなければいけないのは、相手を攻撃しないこと」
人は『理解できないもの』を最も恐れる。集団で生きてきた種族だからか、理解できない行動、思想の持主を攻撃して排斥したがる。
「分からないことは共感しなくていい。けど、相手が自分とは違う考えを持っているという事実だけは、理解しなくてなならない。
りょうちゃんと山本さんがどちらも『相手を攻撃しない』ことが出来る人間だったら、話してみるのもいいかもしれないね」
良子は浩之の言葉を反芻する。良子にとって、すとんと胸に落ちる考えだった。
「ありがとう。彼女が話し合える人か、よく見て考えてみる」
優しい世界で育てられた記憶しかない良子はこの世の終わりのように感じていたが、落ち着きを取り戻せばどうということはない。思い切り泣いたこともあり、今はとてもすっきりした気持ちだった。
良子は缶のプルタブを起こし、ぬるくなったオレンジジュースを一気に飲む。その様子を見て、浩之は微妙な表情を浮かべた。
「僕が言うのもなんだけど、会ったばかりの男をそんなに信用するのはまずいんじゃないかなぁ」
「なにが?」
「当たり前のことを言うけど、知らない人に貰ったジュースを飲むのは危険だと思うよ」
「いつもはもっと警戒するわよ。あなたは悪い人じゃなさそうだったし……それになんだかとても話しやすい。初めて会った気がしないくらい」
「それはナンパかな?」
「馬鹿言わないで」
良子はさっと立ち上がり、藤棚の隣に置かれたゴミ箱に空の缶を投げ入れる。カン、と小気味いい音が鳴った。
「ありがと。あなたのお陰で元気が出た」
「それは良かった」
「習い事があるから、私は行くね」
「そっか。それじゃあ、さようなら」
翌週、同じ曜日の同じ時間に、二人は例のベンチの前で再び出会った。「また会えると思った」と口を揃えて笑い、良子は舞との関係についての経過報告を行い、浩之は真剣な顔で相槌を打った。ついでとばかりに良子が漏らしたいかにも思春期らしい親との確執にもアドバイスをすると、良子は冗談めかして浩之を先生と呼ぶようになった。勉強を教える学校の先生とはまた違う、生きる上で大切なことを教えてくれる先生だと感じたのだ。浩之は恐れ多いからやめてくれと断ったが、やがて押し負けて好きに呼ばせることにした。
先週の礼も兼ねて、この日良子は授業料と称して浩之に缶ジュースを奢った。浩之がオレンジジュースを買った時と同じ、公園の出口の前の自動販売機で購入したものだ。大きく「オール百円」と書かれているだけあり、売られている飲み物はすべて百円である。浩之は最初は拒否したが、呼び名と同じく良子に押し負け、渋々『授業料』としてミルクティーの缶を受け取った。
それから二人の、毎週金曜日の夕方に公園で話すだけという奇妙な関係が続いている。
浩之が与える『恩師の受け売り』の言葉は、時に良子の悩みを吹き飛ばし、時に良子の心を軽くし、時に将来の夢へ向けて良子を奮い立たせた。そんな金曜日を過ごすようになり、良子が人生相談の礼を授業料と称し毎週渡している百円の缶ジュースは、アイスからホットの季節へと移り変わった。
そして今日は、二人が会う最後の金曜日である。
「こうしてりょうちゃんと会うのは今日で最後だね。本当はもっと一緒に話せたら良かったのだけれど」
「なに言ってるの。折角東京の大学に合格したのよ」
「喜ぶべきなんだろうね。分かっているよ」
良子は不満げに唇を尖らせて、隣で丸まって座る背中を叩く。浩之は痛い痛い、と抗議しながらも頬を緩ませている。
「そうだ先生、今日は何がいい?」
いつもの自動販売機を指差して良子が尋ねる。
「いや……今日は僕がりょうちゃんに奢るよ」
「悪いわよ、そんな」
「これでも一応、働いてお給料をもらっているからね」
「でも先生へのお礼だし」
「僕も君にたくさん教えてもらったんだよ。あんな目に遭っても前を向いて突き進む君に勇気をもらって、僕も一歩踏み出せた。だから最後くらい僕に奢らせて」
なにか言いたげな良子を制して、浩之は自動販売機へと走る。百円硬貨を入れてココアのボタンを押した。冷えた空気に包まれた公園に、ガコンと缶の落ちる音が響く。浩之の口から白い吐息が零れた。
「あんな目、か……。確かに先生と出会った時はまあ、ひどい状況だったけど」
良子は懐かしそうに眼を細める。
良子は浩之の助言を受け、舞と話し合った。舞は決して悪人というわけではなかった。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いというのがはっきりしていて、難点といえばそれを隠そうとしない所である。故に良子は面と向かって嫌いだと言われただけであり、何か陰湿なことをされたわけではなかった。昼休憩に一人で過ごしているというのも、他の人間が舞と良子のいざこざに巻き込まれるのを恐れた結果であり、舞が根回ししたのではない。ただ、それを気にせず耐えられるほど、良子は強くなかった。
舞が良子に対して抱いていた苛立ちと嫌悪感は、互いに相手を攻撃しないという約束の許で冷静に話し合った結果、解決の方向へと向かった。良子には他人の顔色を窺い過ぎて、その場を収める為に自分の意見を押し殺すきらいがあった。授業中や休憩時間に良子が度々そうしているのを見掛け、舞はそれが気に入らず、嫌いだと述べたのだった。
そして、そうしている自分自身が好きではなかった良子は、この話し合いをきっかけに少しずつ自分を変える努力をした。舞も言葉と配慮が足りなかったことを反省し、今では二人はクラスで最も仲の良い友人となりつつある。
「僕が君の立場だったら……君ほど前向きになれなかっただろうな」
浩之はココアを手渡しながら言った。
「きっと自室に引きこもって、灰色の未来に絶望していた」
「灰色なんかじゃないわ。大変な時もあったけど、今はとっても楽しいもの。そうね、うーん……虹色かしら」
「そうやって君は未来は一色じゃないって僕に教えてくれたんだよ」
「あら本当? 先生と生徒が逆転しちゃったわね」
おどけて言い、良子はココアに口を付けた。熱くて甘い液体が喉を潤す。一回、二回と喉を鳴らし、缶を口から離した直後、良子の膝に何かが触れた。
「ひえっ!?」
驚愕の悲鳴を上げて見下ろすと、愛らしい柴犬が良子の膝に前脚を乗せ、尻尾を振っていた。赤い首輪から伸びるリードは蛇のように地面を這っている。
どこの犬だろう、と浩之が辺りを見渡すと、一人の老婦人が慌てて駆け寄ってきた。左手に青いリードを持ち、その先にはシーズー犬が婦人に合わせて走っている。
「ああごめんなさい、公園の前を通ろうとしたら、この子ってば、一人で走っていっちゃって」
「いえ、構いませんよ」
良子は笑顔で柴犬の頭を撫で、拾い上げたリードを婦人に渡してやる。
「ありがとう。旅行中の娘から預かった子なんだけど、きっとあなたを娘と間違えたんだわ。娘によく懐いてるから」
「私、娘さんに似てます?」
「少しね、似ている気がするわ」
リードをしっかりと握り直し、婦人は良子と浩之を交互に見やる。
「私、毎日この時間にこの子の散歩をしてこの公園の前を通るから、あなた達のことは毎週見掛けていたの」
この子、と言いながら、婦人は屈んでシーズー犬の方を撫でる。婦人が飼っているシーズー犬の散歩コースに、今日は預かった柴犬も連れてきたのだ。
「親子ほど年が離れているようには見えないし、どういう関係なのかしらと気になっていたのよね」
「親子でもキョーダイでもないですよぉ」
良子がからからと笑いながら答える。
「あら、そうなの? おいくつかしら?」
「十八歳です」
「三十歳です」
同時に答えると、婦人は仲が良いのねと笑った。
「私たちは年の離れた友達ですよ」
良子は先生と生徒とは言わず、そう説明した。
「素敵ね。今日はお友達の時間を邪魔してしまってごめんなさいね」
それじゃ、と婦人は頭を下げてから、二匹の犬を連れて公園を去っていった。その後ろ姿を見送り、浩之は口を開く。
「先生と生徒なんですって言うかと思ったよ」
「教師と生徒が学校の外で逢引してると勘違いされたら厄介じゃん」
「そりゃそうだ」
二人は自然と公園の真ん中に設置された時計を見上げる。良子の英会話スクールの時間が迫っていた。
「……もう、先生ともお別れだね」
「そうだね」
「今は舞ちゃんとも仲良くなれたし、学校も習い事も楽しんでる。お母さんとの喧嘩も減って……今では純粋に感謝してる。全部先生のお陰だよ」
「そんなことないよ。僕がいなくてもきっと君はそうなってた」
「先生ってばそればっかり。そういえば私たちって連絡先も交換してなかったよね」
「金曜日のこの時間に、ここに来れば会えたからね」
良子はコートのポケットからスマートフォンを取り出して振ってみせる。暗に連絡先を交換しようかと申し出ているのだが、浩之は片手でそれを制した。
「君のスマホに僕なんかの名前が登録されていたら、僕は君のお母さんに怒鳴られてしまうよ」
「なにそれー。変質者じゃないのに」
笑いながら良子はポケットにスマートフォンを仕舞い、残りのココアを飲み干して立ち上がった。初めて会った日のように、空き缶をゴミ箱へと投げ入れる。
「そろそろ行こうかな」
「もう暗いし、送っていこうか?」
「あはは、大丈夫よ。先生こそ気を付けなさいよねー」
良子はくるりと反転して浩之を見下ろし、微笑んで手を振る。
「それじゃあね、先生。またいつか」
「またいつか、りょうちゃん」
英会話スクールへと向かう良子が角を曲がり、完全に姿が見えなくなってから、余韻に浸るようにじっとしていた浩之も立ち上がった。自宅へと歩き始めて、鞄からスマートフォンを取り出す。電話帳のアイコンをタップする。上から五十音順に並んでいる為、目当ての連絡先はすぐに見つかった。名前と電話番号だけが登録されている。これからこの人の情報は増えるのだと思っていた時期を懐かしみながら、消去ボタンを押した。
この瞬間、浩之のスマートフォンから篠崎良子の連絡先が消え去った。
公園から五分も歩けば浩之の家がある。二階建ての一軒家である。玄関で靴を脱いでいると、奥のリビングから母の千絵が顔を出した。
「浩之、あなたまだ荷造り終わってないでしょう。明後日には東京なのよ?」
「分かってるよ、母さん」
「バイトしてばっかりじゃない。バイトが悪いとは言わないけど、ちゃんとすることをする時間は取りなさいよ」
くどくどと言う母に苦い顔で笑いながら浩之はリビングへ入る。
テレビの正面のソファに座って夕刊を読んでいた父、弘彦が宥めるように千絵を見やった。
「まあまあ。浩之も晴れて大学生なんだ。子どもじゃないんだから、自分のことは自分で管理しているさ」
「十八歳はまだ子どもです。急に東京の大学に行きたいだなんて言い出した時も、随分と騒がされたものだわ」
「まあまあ」
両親のやり取りを背中に受けながらリビングを出て、浩之は目を閉じて良子を思い浮かべる。大学入学を期に上京して一人暮らしをすることになったので、これから道で偶然良子に会うこともないだろう。
浩之は閉じていた瞼を開き、自室のある二階へ向かう階段を上った。
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