第十二話 入院

 ステラシア総合病院。入院病棟のベッドにイノーラは腰かけていた。


「本当にもう大丈夫なの?」

「平気」

「だって文字通り頭から煙が出てて……すごくびっくりしたんだからね」

「平気」


 何を言っても頭に包帯を巻いたイノーラは、もう治ったと主張するばかりだ。

 試合からすでに一週間。感情調整器具が壊れたイノーラは、その調整のためにこの病院に入院している。


「どれだけ平気でもまだ入院はしなきゃだめだからね」

「えーっ」

「えーっじゃないの。お医者さんも言ってたでしょ」


 イノーラは不満そうに唇を尖らせる。なんだかあの試合の後から、彼女の表情が豊かになったように見える。


 リオンはベッド脇の椅子に腰かけて、スケッチブックをばっと開いた。


「何してる?」

「バトルドレスのスケッチ」


 端的に答え、鉛筆を取り出して紙へと走らせ始める。イノーラは不思議そうにそれを見て尋ねてきた。


「帰らないの?」

「帰らないよ」

「何故」

「放っておいたら君が自主退院しそうだから」


 本音と嘘を織り交ぜた答えを返す。


 イノーラの暴走が心配な気持ちはある。だけどリオンには、もう一つ彼女に尋ねたいことがあった。


「イノーラ、君は……」


 リオンは口を開いて尋ねかけ――この気持ちをどうやって表現したらいいかわからずに口を閉ざした。


「ううん、何でもない」


 首を横に振ると、イノーラはじっとリオンを見つめてきた。それを無視して鉛筆を動かしていると、彼女はあきらめたのか窓の外を眺め始めた。


 この病室は中庭に面した二階の西向きだ。窓から差し込んでくる太陽は、時間が静かに過ぎるうちに緩やかに赤色になり、やがて沈んでいった。


「そろそろ帰るね」

「うん」


 スケッチブックを閉じ、カバンに押し込んでイノーラに振り向く。


「くれぐれも! 変なことしないでね!」

「変なこと?」

「トラブルのことだよ! あと絶対安静! 分かった?」


 強い口調で言い聞かせる。イノーラはちょっと考えた後、うなずいた。

 これまでの所業から考えるに不安しかない。だけど、まさか病院に泊まるわけにもいかない。


「じゃあまた明日ね」

「うん」

「ほら、ベッドに戻って。安静にするんだよ!」

「うん」


 イノーラは素直にベッドに横になる。リオンはそれを見届けると、彼女が動かないかどうか何度も振り返って確認しながら部屋の外へと出ていった。


 帰り道、リオンは夜だというのに人通りがまだ多い道を歩いていく。ここは公営ドームから住宅街への帰り道だ。後半戦に差し掛かった大会予選の観客たちが、家路についているのだろう。


 リオンは、イノーラが入院した後、大方の家事は朝のうちに済ませてずっと病院に通っている。


 予選終了まであと一週間。それまでには退院できるとイノーラの主治医も言っていた。ならば、自分が今考えるべきなのは、次のバトルのドレスのこと。


 リオンはショーウインドウからの光でできた自分の影を見ながら歩いていったが、ふとあることに気づいて、顔を上げた。


「あ」


 抱えていたリュックを開き、ごそごそと中身をあさる。嫌な予感通り、そこには技師の命とも言える裁縫小手ミシンが入っていなかった。


 前にエアハート兄妹に絡まれたときから欠かさず持ち歩いていたそれが見つからず、リオンは焦り始める。


 しまった。きっとイノーラの病室に置き忘れてきたんだ。


 そのまま翌日に取りに行ってもよかった。だけど、裁縫小手ミシンは、バトルドレスを作る者にとって、自分の体の一部といっても過言ではない存在だ。


 リオンは立ち止まってちょっと考え込んだ後、リュックを背負いなおして病院への道を急ぎ始めた。


 夜の病棟は静けさと薄暗さに包まれていた。すでに消灯時間を過ぎた廊下をこそこそと歩き、二階にあるイノーラの病室へとたどりつく。


 そっとドアを開けると、ちょうど窓の外に手を伸ばすイノーラの姿が視界に入った。


「あっ」

「えっ?」


 間抜けな声を上げた直後、窓から身を乗り出したイノーラの体は中庭へと落下していった。


「イノーラ!?」


 リオンは慌てて窓から中庭をのぞき込む。枝がばきばきに折れた木の向こう側に、イノーラは仰向けに倒れていた。


 夜の病棟だということも忘れて、リオンは中庭に続く階段を駆け下りる。勢いよくドアを開くと、低木の間から突き出たイノーラの足が目に入った。


「無事!? けがはない!?」


 花壇を踏みつけてしまいながら駆け寄ると、イノーラはがばりと体を起こした。


「平気」


 イノーラは低木の中から立ち上がり、頭上を指さす。


「木の上に落ちた。平気」


 見上げると、イノーラが落ちた場所だけ、木の枝がきれいに折れていた。リオンは彼女の体をぺたぺた触りながらけがを確かめる。


 よかった。奇跡的に大きなけがも、擦り傷もほとんどないようだ。予想通りの、いや、予想を超えたトラブルを引き起こした彼女に頭が痛くなり、リオンは額に手をやってうつむいた。


「どうして窓から落ちちゃったの……」


 ため息とともに吐き出された言葉を受けて、イノーラはちょっと考えた後、しょんぼりした声で謝ってきた。


「ごめんなさい」


 珍しく殊勝な態度をとるイノーラに驚いてリオンは顔を上げる。イノーラはそんな彼にあるものを差し出した。


「リオンの、大切なものだったから」


 彼女が持っていたのは、リオンが書いていたドレスのスケッチだった。つまり、風に飛ばされたこれを掴もうと身を乗り出したら、中庭に落ちてしまったということらしい。


 リオンは頭痛がひどくなる思いと、イノーラが自分のことを思いやってくれた喜びがないまぜになった顔になり、再び大きくため息をついた後、彼女から図案を受け取った。


「ありがとう。でも……もうこんな危ないことしないでね」


 責めるような目でイノーラを見る。彼女はこくりと首を縦に振った。


「分かった」

「……本当に分かってる?」

「さあ?」

「ちょっと!」


 リオンは頬を膨らませてイノーラをにらみつける。すると彼女はぷっと噴き出してくすくす笑い始めた。

 そんな彼女を見て、リオンはぽかんと口を開ける。


「どうしたの」


 笑ってしまいながらイノーラは尋ねてくる。リオンは目を何度もしばたかせながら答えた。


「イノーラがちゃんと笑った顔、初めて見たから」


 今度はイノーラが軽く目を見開く番だった。彼女はちょっとの間沈黙し、リオンに向かって微笑みかける。


「私も、笑ったの久しぶり」


 その穏やかさにリオンはぽかんと口を開ける。イノーラって、こんな顔もできたんだ。

 少しは理解できてきたと思っていた相棒の表情に、リオンが言葉を失っていると、イノーラは自分の髪をぺたぺたと撫でた。


「ヘッドドレスがないからかも」


 本来、器具がついているはずの場所を触り、イノーラは目を伏せる。


「あれは着用者の感情を抑制するから」


 ヘッドドレスは戦姫の適性を上げるための感情調整器具だ。彼女の言う通り、当然、それをつけていれば感情は希薄になる。そして彼女は今、それをつけていない。


 本音の話をするなら、今だと思った。


「イノーラ。話があるんだ」


 リオンは改まって真剣なまなざしをイノーラに向ける。彼女もその雰囲気に気づいたらしく、リオンにまっすぐ向き直った。


「次の試合のドレスのこと、なんだけど」


 緊張しながら、たどたどしくリオンは話題を切り出す。

 次戦。予選突破者が集まる集団戦。予選で使ったよりも強いドレスをまとってもらう必要がある。だけど、それだけではきっと足りない。


「確かに僕が着てほしいドレスはあるよ。でも」


 彼は一度言葉を切る。そして、イノーラの青色の瞳をじっとのぞき込んだ。


「『きみは』どんなダンスを踊りたいの?」


 イノーラは目を見開いて沈黙した。リオンの言葉の意味がすぐに呑み込めていないのだと、彼は直感する。だけど彼はすぐに質問を重ねず、じっとイノーラの答えを待っていた。


 十数秒の沈黙の後、イノーラはようやく唇を動かす。


「私が、選ぶ?」


 理解が追い付いていない表情でイノーラは尋ね返す。リオンは彼女の目を見たまま、大きくうなずいた。


 彼女はまた沈黙し、視線をさまよわせて思考を続けた後、困った表情で目を伏せた。


「わからない。私は何でも踊れる。でも踊りたいものなんて……」

「君にだってあるはずだよ。バトルの時、君の感情は流れ込んできた」


 あの時感じたイノーラの感情。燃えるように苛烈で、勝負への執着を感じるほど力強い思い。


「いつもすました顔をしてるけど、君のバトルへの情熱は本当だって、あの時わかったんだ」


 一枚ずつベールをはがすように、リオンはゆっくりとイノーラに尋ねる。


「君は、どんな戦姫になりたい?」


 イノーラは顔をうつむかせたまま、ちらりとリオンを見る。

 彼女の中の情熱。ドレスへの思い。それらは絶対に消えない炎として彼女の内側にくすぶっているはず。

 だからリオンは彼女にもう一歩歩み寄って、力強く彼女を見た。


「すぐに分からなくていい。だけど、僕に君がしたいことの手伝いをさせてほしい」


 まっすぐに自分の思いを告げる。イノーラが顔を上げる。


「君のことをもっと知りたいんだ」


 真剣に語る。

 イノーラはまだ答えない。

 リオンはその次に用意していた言葉を告げようとして、だけど急に恥ずかしくなってきてしどろもどろになった。


「だから、その、ええと」


 顔を伏せる。緊張と気恥ずかしさで頬が赤くなる。でも言わないと。彼女のことを知るって決めたんだから。


「イノーラ!」


 大きく名前を呼び、彼女を見る。リオンは真っ赤になりながら、彼女に右手を差し出した。


「ぼっ、僕と、一緒に踊ってくれませんか!?」

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