第十話 夜の演習場
時計の短針が頂上を回ったころ、リオンはかばんを一つ持って家を後にした。
コレクションはもうすぐだ。だけど、これだけはやっておかないとそのうちに体がなまってしまう。
繁華街でもないので人っ子一人いない道を、こそこそと歩き、バトルドレス用の演習場へとたどり着く。数年前からずっと拝借していたカギを使い、その中に入った。
イノーラとの初めての特訓にも使った部屋に入り、抱えていたカバンを床に下ろす。中に入っていたのは一つのバトルドレスのコアだった。
「……よし」
リオンは大きく息を吐いて覚悟を決めると、コアを胸の前に持ち上げて静かに言った。
「
ぶわりとコアがほどけ、黒色の糸がリオンに巻き付いていく。ぎしぎしと糸が触れた場所が痛い。糸に嫌がられて、締め付けられているみたいだ。
「う、ぐ……」
痛みに耐えてうめいていると、やっと糸は布の形になって、リオンはバトルドレスをまとう姿へと変わっていった。
白のシャツに、黒のズボン、白の蝶ネクタイ。黒の革靴。前が開いた黒のジャケット。裾は特徴的な二股に分かれている。
男が踊るのにふさわしい衣装の一つ――燕尾服だ。
なんとかそれを構築し終え、リオンは痛みに耐えながら息を整えた。
「やった。成功だ」
ただし、ひとまずは。とつくが。
リオンは全身を襲う痛みを無視し、訓練用のマネキンを出現させた。
白色の、薄手のドレスだ。訓練用としては最も難易度が低いドレス。
それに向かってリオンは距離を詰め、蹴りを一発入れる。ドレスは一瞬で燃え出し、そのコアをあらわにする。リオンはそれをめがけて、鋭く変化させた袖で一撃を叩き込んだ。
ぱきんと音を立てて、コアは砕け散る。
黒色の布が持つ能力は発火。赤色の布よりもずっと高熱の攻撃を繰り出すことができる。そして、男が纏うことができる可能性が最も高いのもこの黒色のドレスだった。
体中が重いのを無視して、リオンは次のマネキンを呼び出そうとする。しかしその時、リオンの纏う燕尾服は裾から炎を噴き出して、燃え始めた。
「やばっ……」
慌ててドレスをコアに戻そうとする。うまくいかない。数分の格闘。だが、まだドレスは脱ぎ去れない。体中が熱い。このままじゃドレスもろとも焼け死んでしまう。
その時――リオンの体にばしゃっと水がかけられた。何が起きたのか分からず、ドレスだけがコアの姿に戻る。リオンが振り返ると、そこには、バケツを持ったイノーラが立っていた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
どうしてここに。いつからいたのか。そんな問いが浮かんでは消えていく。リオンがそれを口にする前に、イノーラは端的な質問をリオンにぶつけてきた。
「練習してた?」
リオンは一瞬黙った後、ちょっと恥ずかしそうにうつむいた。
「うん」
「一人で?」
彼はイノーラから目を逸らす。
「男がバトルドレスを着るって言っても、誰も信じてくれないから……」
ぼそぼそと言いながら、イノーラを見る。
「やっぱり君も、男がバトルドレスを着るなんておかしいって思うでしょ」
イノーラはその視線を受け止めて平然とした口ぶりで答えた。
「別に」
「どうでもいいってこと?」
自分で聞いておきながらムッとして、リオンはジト目で彼女を見る。しかし彼女は、表情は変えないまま、じっとリオンの目を見て言った。
「そうは思わない」
リオンはきょとんと目を丸くする。
「最初に会ったとき」
真面目な眼差しでイノーラは続ける。
「あのドレスの図案、かっこよかった」
リオンはその言葉をゆっくりと時間をかけて飲み込んだ。誉め言葉と、イノーラの真剣な目。それらが嘘ではないと実感し、リオンはへにゃっと笑った。
「ありがとう」
イノーラはぱちくりと瞠目する。リオンはいっそ泣きそうな顔で笑いながら言葉をつづけた。
「嬉しい」
リオンの言葉の後、イノーラは数秒沈黙した。その数秒、何を考えたのかは分からない。彼女はほんの少しだけ顔を背けながら、答えた。
「どういたしまして」
そんなイノーラの様子を見て、リオンはちょっと気恥ずかしくなって慌てて提案した。
「ど、どうせだから二人で練習しない?」
「練習?」
イノーラはいつも通り小首をかしげる。
「僕が踊ってほしい音楽を歌うから、それに合わせて君が踊るんだ。どうかな?」
自分の言い出したことだが徐々に自信がなくなり、リオンはぼそぼそと言葉尻を小さくする。イノーラはそんな彼の肩に手を置いた。
「やる」
力強いその肯定に、リオンはパッと満面の笑みになる。
「ありがとう、イノーラ!」
「どういたしまして」
イノーラは単調に答えながら、首からかけていたコアに手を置いた。
「
コアからあふれ出たのは白色の糸の海。それらはイノーラの体を一切害することなく、ドレスを形作った。ちょっとだけそれがうらやましくて、リオンは目を細める。
自分も彼女のように女の子なら、ああしてドレスを纏えただろうか。あの輝かしいバトルフィールドで、自分の思い描く、凛とした鋭いダンスを踊れただろうか。
「始める?」
端的に尋ねてくるイノーラに、リオンは慌てて思考を現実に戻す。
「え、ああうん。始めよっか!」
二人は向かい合って床に腰かける。
「じゃあ今回は四拍子だからね、ちょっと聞いてて」
ちょっと躊躇った後、リオンは口を開いた。つたない音程で、記憶の中の旋律をなぞる。苛烈で優美な演舞の音楽。白のフリルに包まれたあの音。
やがて音楽は終わり、リオンは面映ゆそうに笑った。
「何の歌?」
首をかしげて尋ねるイノーラに、リオンは懐かしそうに答える。
「義父さんと義母さんが使ってた歌。僕が最初に義母さんの戦いを見たときに使われていた曲なんだ」
ちょっと音程おかしかったけれど、とリオンは恥ずかしそうに言う。イノーラは立ち上がった。
「やってみる」
どことなく決断的に見えるその表情にあてられて、リオンも力強く頷いた。
「うん、頑張ろう!」
一、二、三、四。
一、二、三、四。
できる限り等速で歌いながら、イノーラの動きを見守る。
音楽が不要だと言っていた彼女が、こんなにも自分に協力してくれるだなんて嘘みたいだ。たとえそれが、僕が戦いたいから戦う、なんて消極的な理由でも、こうして彼女と踊れることが本当にうれしい。
曲が盛り上がりどころに入る。メインフレーズの繰り返し。徐々に高まってくるその勢いに合わせて、イノーラは急に無茶なステップを踏んで――そのまますっころんだ。
「イ、イノーラ!」
歌うのを止め、彼女へと駆け寄る。ドレスは着装されたままだが、踏みつけた裾がほつれてしまっているようだ。
「そのまま待ってて」
荷物から
「実際の試合中はあんまり無理しないでね。試合中はこうして近くで繕ってあげることはできないんだから」
裾を繕いながら言うと、イノーラは素直にうなずいた。
「分かった」
「本当に?」
「分かった」
「信じるからね?」
今までの所業を考えると簡単には信じることができず、リオンは何度も確認する。裾を直して顔を上げると、イノーラはどことなくドヤ顔をしているように見えた。
「続きする」
「……もう無茶しないでよ? 自分の限界を見極めること! いいね?」
「任せて」
イノーラは立ち上がってさっさとリオンと距離を取った。リオンはちょっとため息をついた後、再び歌い始めた。
リズム。ステップ。旋律。指先。
彼女と一心同体になりたいという思いをこめて一曲を歌い上げ、リオンは何度も息を吐き出す。
「大丈夫?」
「うん。ちょっと疲れただけ」
リオンは大きく息を吸って吐き、恥ずかしそうにはにかんだ。
「こんな風にこそこそ歌って練習してると、なんだか、いけないことをしてるみたいだ」
リオンの言葉に、イノーラはちょっと黙り込み、こてんと首を傾げた。
「実際、いけないこと」
「えっ?」
「不法侵入。いけないこと」
「あっ」
それもそうか、とリオンは笑い、イノーラも心なしか表情を和らげる。顔を見合わせてくすくすと笑いあう二人の声は、夜の演習場に小さく響いていった。
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