犬が西向き猫が東向く 後編

 猫又とは年を取った猫が変化した怪異で「化け猫」とも言う。

 女性に化けて人を騙す伝承や、人間を襲う逸話がある。

 最も古い記録は、平安時代の公家・藤原定家の日記『名月記』とされ奈良に現れた猫又は人を七、八人食べたと記されている。

 英国の諺には「好奇心は猫を殺す」というものがある。

 これは猫は執念深く、九回生き返るという伝承に基づいている。

 猫はそこら辺にいる何でもない生き物でありながらそれだけの神秘を内包している。


 メスの日本猫のフクは何でもないただの猫に見えた。

 だがやはり猫なのだ。

 猫にはどことなく神秘的な雰囲気がある。

 気まぐれで、人に阿らず、愛玩動物として進化したのに愛玩動物らしからぬ何かを持っている。

 その雰囲気のせいか、鈴木家にいたときは感じ取れなかった。


 間違いない。この猫は"こちら側"の存在だ。

 じっくりと相対してみてそれを感じた。


 我々、二人と一匹は谷中の鈴木家を離れ、上野恩賜公園の木陰にあるベンチに座っていた。

 すぐ背後に旧東京音楽学校 奏楽堂の年季を感じる佇まいが見える。

 私と千鶴さんの影に入り、ベンチ下に佇んでいるフクも結構な年季の猫だ。

 奏楽堂と違ってわざわざフクの姿を写真に収めていくような観光客は居ないが。


「話したいことがあるんでしょ?もう少しこっちに来てくれる?」


 千鶴さんがそう言うと、フクは少し考えるようなそぶりを見せて――まるで人間のようだと私は思った――老体に見合わない俊敏さで私の膝に飛び乗った。

 膝の上に柔らかな毛並みを感じる。

 心地良い感触だった。

 私も私の一家もペットを飼ったことはないが、犬猫を熱心に飼おうとする人種の気持ちが少しわかった。 


「天明君の膝が良さそうだと思ったみたいだね」


 千鶴さんは笑って私の膝に乗ったフクの喉元を撫でた。

 フクは目を細めて気持ちよさそうに見えた。


「それで?何を話したいの?」


 千鶴さんの言葉にフクが顔を上げた。

 じっと千鶴さんの目を見ている。

 人の目をじっと見る生き物は人間以外だと犬を例外として存在しないと聞く。

 猫もそうだ。


 だが、千鶴さんと見合っている姿はまるで人と人のアイコンタクトのように見えた。

 私は猫又についておおよその伝承しか知らない。

 猫でも長く人といると人に近づくのかもしれない。


 千鶴さんはフクとみあいながら時々「うんうん」と相槌を打っている。


「まさか、猫語が話せるなんて言わないですよね?」


「まさか。直接思考を感じ取ってるんだよ、猫は元々、霊感の強い生き物だからね。それが猫又になりかけのこの子だと更に強くなってるんだ」


 会話を遮られたのが気に入らなかったのか、フクがこっちを見た、

 目を細めて睨んでいるように見えた。

 不興を買ったと判断した私は「ごめん」と謝罪した。


 フクはぷいと向こうを向いて、千鶴さんの膝上に乗り移った。


「嫌われちゃったみたいだね」


 変化しやすいことの例えを猫の目と言うが、猫は目以外も気まぐれなようである。

 

 フクは千鶴さんの膝上で互いに見合い、千鶴さんは不規則に相槌を打っている。

 相槌を打ちながら千鶴さんは適宜、私に解説をしてくれた。


 まず、フクが我々の後をついて来たのはいかにもネコ科らしい気まぐれな理由で、「霊感を持った人間は珍しかったから」だそうだ。

 珍しいおもちゃを見たら追いかけたくなる。そのネコ科らしい心理で我々のことを追いかけてきたが、ふと老猫のフクは思った。

 「霊感のある人間となら会話ができるかもしれない」と。


 それで、こうしてフクはベンチに座った私の膝に飛び乗り、その後、千鶴さんの膝に移った。


「私からも聞いていいかな?」


 一方的に相槌を打っていた千鶴さんが、フクに聞き返した。


「君は鈴木さんからずっと距離を取っていたね?それはどうして?あの家にいるからには、鈴木さん夫婦のことが嫌いって訳じゃないんでしょ?」


 私はフクが何を話しているのかわからない。

 だが、雰囲気でわかる。

 彼女は答えに少し逡巡しているようだ。

 やがて、おそらく何か話し始めた。

 千鶴さんは相槌を打つと、私に会話の内容を説明して聞かせた。


「私は猫又になりかけた古猫だから。一般人の近くに居たら霊障で体に影響が出かねない。特に旦那の方は持病があるからね」

「優しいんだね」

「あの家は気に入ってるんだよ。夫婦に何かあったら私も困るから」

「素直じゃないね」


 フクが千鶴さんの膝からひょいと飛び降りた。

 そのままさよならも言わずに来た道を去って行った。


「何て言ってたんですか?」

「『猫だからね』ってさ」


  〇


 それからひと月。

 猫又になりかけの猫と猫の主人である夫婦と会うことは無かった。


 その日、私はいつものように千鶴さんの仕事に帯同していた。

 帰り道、千鶴さんが「そうそう」と伝えようと思っていた老猫フクと夫婦の話の続編を聞かせてくれた。

  

 ご近所の千鶴さんは鈴木夫婦と顔なじみになり、すれ違うと挨拶して立ち話する程度の仲になっていた。

 つい先日、道で出くわした夫婦が嬉しそうに聞かせてくれたそうだ。


 立ち話の数日前のことだ。

 鈴木夫婦はその日、夫婦そろって在宅勤務中だった。

 

 共働きで中々悪くはない稼ぎのある夫妻は双方とも自身の書斎を持っている。

 夫婦ともに何かを始めると没頭して周りが出来なくなる質なのだ。

 だからこそ夫婦円満なのだろう。


 昼時になり、夫婦はどちらともなく空腹を感じた。

 計画的に買い物している鈴木夫婦は当然自炊することにした。


 家事は交代ですることにしているが、その日は妻の梨沙子氏が自分から申し出て料理することにした。

 繰り返すが、夫婦はどちらも没頭すると周りが見えなくなる質だ。

 それは対象が自分たちの食べる食事程度でも変わらない。


 梨沙子氏は結構な凝り性で、糖尿病を患っている旦那を慮って友人の管理栄養士から提案してもらったレシピを丁寧に再現しようとしていた。

 梨沙子氏が料理に没頭していること、雄介氏も書斎で昼食を待ちながら仕事に没頭していた。

 そして、体調不良に気付くのが遅れた。


 我々が駅で遭遇したのと同じ、低血糖の発作だ。

 低血糖は動悸、冷汗、手指のふるえなどの症状が出る。

 放置すると昏睡や意識障害に発展する危険性がある。

 雄介氏はすでに気付かないうちに自分の症状を放置していた。

 動くのが困難な状態だ。

 梨沙子氏に気付いて欲しいが、向こうも没頭する質で料理が完成するまで意識の彼方だろう。


 その時、書斎のドアの隙間から縞柄の何かが入り込んできた。

 飼い猫のフクだった。

 フクは苦し気な雄介氏の様子を一瞥した。

 するとそのまま身をひるがえいしてドアの隙間から出て行った。


 その数十秒後に妻が部屋に入ってきた。

 雄介氏は命拾いした。


 妻の梨沙子氏は、雄介氏の書斎の外でその時あったことをこう語っている。


「料理してたらフクがニャーニャー泣いてて。何かと思ったら見たら、信じられないことに置物の招き猫みたいに手招きしてました。ビックリして手招きするフクについていったら夫が

倒れてました。今でも信じられないです」


 その信じられない出来事の後、何が変わったかと言えば特に何も変わっていなかった。

 フクは一日の大半を寝て過ごし。フラっといつの間にか外に行ってはいつの間にか戻ってきている。

 夫婦とはいつも距離を取っている。

 だが、雄介氏はこう語っている。


「相変わらず呼んでも全然寄ってこないんですが、離れたところかららこっちを見ている気がするんですよね」


 そして自嘲気味に笑った。


「ま、猫好きの方思いな願望でしょうね」


  〇


 佐賀には、猫の復讐伝説がある。

 佐賀藩の藩主・鍋島光茂の碁の相手をしていた龍造寺又七郎は、光茂の機嫌を損ねて手打ちにされてしまう。

 又七郎の飼い猫は主人の恨みを晴らすべく、化け猫と化し場内に入り込んで光茂を襲ったという。


 東京の豪徳寺には、猫の恩返し伝説がある。

 江戸時代初期の事。

 彦根藩の藩主・井伊直孝が豪徳寺の前を通りがかった。

 その時、寺で可愛がられていた猫が門前で手招きした。

 直孝が手招きの誘いに乗って寺に立ち寄ると、雷雨が降り始めた。

 雨を避けられ喜んだ直孝は、荒れ寺だった豪徳寺に多額の寄進をしたという。

 これが招き猫の由来である。


 季節は移り、夏の気配が引っ込んで秋の気配が近づいてきていた。

 過ごしやすい季節だ。

 やがて新緑は紅葉へと姿を変え、はっきりと季節の変化を感じることだろう。


 私は一目、フクの様子を見たくなった。

 「いいよ、一緒に行こう」と千鶴さんが言ったので二人揃って鈴木夫婦の家――訂正、鈴木夫婦とフクの家に向かっていた。


 一度通って見慣れた道を通る。

 見慣れた塀が見える。

 見慣れた柄の日本猫が塀の上で昼寝していた。

 猫は高いところの方が落ち着く性質があるという。

 気持ちよさそうな寝姿だった。


 フクはこちらに気付いたのか、チラリと一瞥したが、そのまま昼寝を続行した。

 いかにも猫的な素っ気なさだ。

 なんてことは無い。それはただの猫がいるその辺の住宅街の光景だった。

 この猫が怪異になりかけた存在であるなどと言われても誰も信じないだろう。


 しかし、私の気のせいか。

 フクがこちらを見たとき片目を閉じる――いわゆるウィンクをしているようにも見えた。

 千鶴さんにそれを告げると、彼女も同じことが気になったらしくフクのもとに駆け寄って何か囁いた。


 フクは面倒くさそうに顔を上げて千鶴さんの方を見るとまた昼寝の体勢に戻った。

 千鶴さんは笑っていた。

 笑いながら戻ってきて、笑いながら言った。


「『ウィンクは古くない?』って言ったらね――『私は古い猫だからね』だってさ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る