犬が西向き猫が東向く 前編
この世には何事にも派閥が存在する。
人は有史以前から神を信じてきたが、そこにはまず多神教か一神教かという構造的差異がある。多神教と一神教はすれ違い続け、一神教は一神教同士で互いを認めずいがみ合っている。
現代は世界中が狭くなった多様性の時代だが、多様性があることと多様性を認められることは残念ながら別問題だ。
目玉焼き一つとってもそうだ。
私は気分によって醤油とケチャップとソースを使い分けるが、この広い世界にはいずれか一つしか認めないという頑固な存在もいる。
私の父は生臭坊主のくせに頑固者で、目玉焼きには醤油以外認めない目玉焼きには醤油原理主義者である。
坊主が動物性タンパクを食している時点で本来の仏教の教義に反してしまっていると思うのだが、父本人にとって仏の道より自身の信じる目玉焼き道に忠実であるべきと考えているようだ。
母は「どっちでもいいじゃん」派で、私と兄も「どっちでもいいじゃん」派を守り続けている。寛容と柔軟は重要だ。幼い甥と姪も「どっちでもいいじゃん」派に育って欲しい。心からそう思っている。
人は古くから神を信じ、卵を食べてきた。
原始的なアニミズム信仰は有史以前から世界中に存在し、紀元前千五百年には鶏が毎日散乱していたことがエジプトの古文書で明らかになっている。
その古代エジプトで鶏と同じように既に人類の傍にいた、そして現在も人類のそばにいる生き物がいる。
犬と猫だ。
狼を祖先とする犬は最も古くに家畜化された動物だ。
二万年から四万年年前に特定の場所で狼から進化した可能性が高いと推測されている。
エジプトでは原始的なアニミズム信仰であるエジプト神話が誕生したが、冥界の神アヌビスは明らかにイヌ科の生き物をモチーフとしている。
それほどまでに犬は古代人にとってなじみのある生き物だったのだろう。
「忠犬」という言葉からわかる通り従順であり、主人を思い続ける忠犬の伝説は世界各地に存在する。従順さから「人間の親友」としばしば評される。
現代の人類は犬派と猫派の派閥に分かれ、彼らは共に妥協しない。
こと古代エジプト人は猫派が優勢だったようだ。
エジプト人にとって猫は神聖な生き物だった。
神話に登場するバステトは明らかに猫をモチーフとした姿をしている。
どうやら猫がネズミをつかまえることが猫の神格化へとつながった様だ。
我が国には「借りてきた猫」という慣用表現が存在するが、これは人がネズミ捕りが得意な猫を貸し借りしていた事に由来する。猫はどこにいても猫であることがよくわかる。
エジプト人は猫を神格化し、そして愛した。
人と猫を一緒に埋葬することも行っており、ネコの墓にはお供えものが詰められていたという。
紀元前525年、ペルシャによる侵攻を受けたとき、彼らの猫への愛は破局をもたらした。ペルシャ兵は盾に猫の姿をしたエジプトの女神を描き、犬、羊、猫を最前列に配置。
エジプト兵はうっかり猫を傷つけてしまうことを恐れ、動物の安全を守るために降伏したと伝えられている。
彼らはとかく比較対称されることが多いが、迷える物書きの道しるべ――別名「辞書」に彼らの違いを端的に表したものを見つけた。
「犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ。猫は三年飼っても三日で恩を忘れる。」
犬派はこれの諺に「うんうん」と頷くことだろう。
猫派はどうだろうか?
必死で否定するかもしれないし、肯定したうえで「それがいいんじゃないか」と言うかもしれない。
それでも「これは犬と猫のパブリックイメージを表しているか?」と問われればすべての人が肯定して頷くだろう。
今回は猫の話だ。
〇
「東京大学」と聞くと、おそらく多くの日本人は反射的にある種畏敬の念をいだくことだろう。東大の通称で知られる東京大学は1877年に創設された日本最古の近代的な大学であり、最高学府としての地位を不動のものとしている。
東京大学は日本初の近代的大学として開校した際、幕府の教育機関・研究機関だった昌平坂学問所、開成所、医学所を吸収したと一般的には知られている。それは事実だが、このよく知られた事実には一つの不足がある。
東大が吸収した機関は実際のところもう一つあった。
それが祓い屋の養成機関、祓い屋学校だ。
祓い屋学校の起源は古く、飛鳥時代に設置された陰陽寮を起源とすると伝えられている。
陰陽寮は律令制度化において陰陽師が所属する公的機関だったが、戦国時代になると律令制が完全崩壊し陰陽師たちは在野に放たれた。
江戸幕府が開かれ、関東に渡った陰陽師の末裔たちが互助会を作り、いつしかそれは祓い屋学校と呼ばれるようになった。
東京大学には一般的に知られない一般入試では入学できない学部がある。それが祓い屋学校を起源とする神秘学部だ。その起源に敬意を表し、神秘学部は祓い屋学校の通称でも知られる。
神秘学部で所定の過程を収め、一定の実地訓練を受けると第一種特殊事象処理業者の資格が授与され、祓い屋を開業できる。
一般的には存在を秘匿されているが国家資格だ。
東京大学安田講堂の公式には存在しない地下二階に拠点を構えている神秘学部は優秀な卒業生を定期的に招いて特別講義や実習を行っており、千鶴さんはその優秀な実績を認められ卒業生代表として招かれていた。
私は最近になって祓い屋協会から公式に「協力者」として認められ、同席させてもらう栄誉に預かった。
神秘学部に部外者が出入りするには職員のアテンドが必要だ。
安田講堂入り口で私と千鶴さんを待っていたのは、そこらへんにいそうな眼鏡をかけてほっそりした中年男性だった。
千鶴さんとは顔見知りらしく、千鶴さんが声をかけると、ごく普通に挨拶を返していた。
大川と言う名の職員は神秘学部の事務職員で、一応はこちら側の存在――俗に言う霊能力者らしいが、まったくそんな雰囲気はしない温和で腰の低い普通の人に見えた。
アテンドの職員が普通なら入り口も拍子抜けするほど普通の入り口だった。
地下一階まで降りると、「学生立ち入り禁止」と書かれた何の素っ気も神秘も感じない扉があり、鍵もかかっていなかった。
祓い屋は一般にはその存在を秘匿されているが、なるほどここまで普通だと他の学部生たちにも特に怪しまれる事は無いのだろう。
学生と直接対面しない大学の部署ぐらいに思われているのだろう。
地下二階はかなり広かった。
地下と言う性質上が空気がひんやりと感じる。
一応「なにか特殊の霊でもついているのですか?」と聞いてみたが、大川はニコリと笑って「冷房が効いているだけですよ」と答えた。
地下には講義室と実習室があるらしい。
今回通されたのは講義室の方だった。
祓い屋候補生自体の数が非常に少ないため、講義室と言うにはやや物足りない広さだった。
それもそのはずで、"こちら側"の素質を持った人間は少ない。
その素質は、基本的に遺伝する。
祓い屋候補生は千鶴さんのような由緒正しい旧家の出身であり、たいていの場合「家業」として祓い屋業を受け継ぐ。
今、在籍している候補生の数は三十人程度だそうだ。
どんな人種がいるのだろう――さすがに私も身構えた。
私と千鶴さんが講義室に入ると、候補生たちの姿が見えた。
彼らはどう見ても普通の若者だった。
楽しそうに談笑し、スマートフォンをいじってメッセージのやり取りやゲームをしている。
私は完全に拍子抜けした。
〇
「認めるとキリがないからだよ」
真夏の灼熱地獄の下、私と千鶴さんはキャンパスを出て文京区本郷の路上を歩いていた。
セミの鳴き声が壊れた音響機器のように響き渡っている。
やはり夏は苦手だ。
セミのBGMをバックに千鶴さんがそう答えたのはもちろん私が質問をしたからだ。
それは自分で改めて言うと恥ずかしくなるぐらい素朴な質問――「どうして祓い屋は存在を秘匿しているのか?」への答えだった。
千鶴さんの体験談の講義の後、質疑応答の時間があった。
候補生たちの千鶴さんへの質問はあまりにも普通だった。まるで希望の就職先に就職した卒業生に就職活動の相談をするような普通さだった。
祓い屋学校があまりにも普通だったため、気になったのだ。
「殺人事件を例に考えてみようか?」
千鶴さんは自らの返答を十分な回答とするために続けた。
「完全なアリバイを持ったまま人を殺すことができる。呪殺すればね。殺人の証拠を完全に消すのはほぼ不可能だけど、術の痕跡は上手くいけば消すことができる。例え明らかに動機のある人間がいたとしても手段を立証することができない。呪いの存在を公に認めてしまうと"呪い殺した"と無関係な第三者に言いがかりを付ける根拠にもなってしまう。これじゃ中世魔女狩りの繰り返しだよね?人類が進歩するうえで、"神秘"なんて表向きは認めちゃいけないし、"祓い屋"も存在してちゃいけないんだよ。少なくとも表向きはね」
納得しきらない私は再び聞いた。
「では、飛躍した発想のマスコミ関係者がいて、騒ぎになった場合は?」
彼女はそれを一笑した。
「そんなことはまずありえないよ」
一笑して言った。
「実際のところ、本当の神秘っていうのは人の目が向かないようなところ――日常の中に潜んでいるものだからね。そんなものにニュースの価値はないでしょ?」
〇
結構な"売れっ子"である千鶴さんはなかなかの頻度で仕事が入っている。
来週、私と彼女はとある依頼を遂行しに行く予定になっていた。
それで、涼みながら打ち合わせでもしようという話になった。
本郷三丁目から地下鉄に乗り、上野御徒町で降車する。
千鶴さんの自宅は徒歩圏内であり、私の自宅へは乗り換えれば帰り道になる。
上野繁華街であれば店も多いので、この辺で喫茶店でも探そうという話になった。
時間帯は平日の帰宅ラッシュ前、学校の下校時刻と会社の定時の間頃で車内はさほど混んでいなかった。
制服姿の中高生がちらほらと見える。
夏服は涼しいとは言え、制服は酷く窮屈に思える。
それでもスーツよりマシだろうが、私は就職以来スーツなど数え切れる程しか着たことが無い。
うち一回は確か兄の結婚式だと記憶していたが、よく考えたらそれはまだ学生のころで、しかもスーツではなく礼服だった。
数少ない私のスーツを着た回数公式記録がマイナス一された。
気になったので千鶴さんにも今までスーツを着た回数を聞いてみた。
彼女がスーツを着た回数は「今までの人生で全部合わせて五回以内」らしい。
きっとスーツ着用のお堅い職業人は夏服の学生服を見て「楽そうだ」と思うのだろう。
だが、夏服を来た学生もまた、ラフな格好をした我々を見て「楽そうだ」と思うのだろう。
空白の多い車内に、間もない駅到着を知らせるアナウンスが響き、我々は目的地に到着したことを知った。
自動ドアが開くのを見計らい、電車を降りる。
東京の日常の光景だ。
混雑時間帯に比べれば相対的には少ないが、絶対数で言えばそれなりの数の人がホームを行き交っている。
その日常光景にちょっとした非日常が混ざっていた。
男性は三十代の後半ぐらいに見えた。
彼はホームのベンチに座っていて、いかにも「調子が悪い」といった様子だった。
これを傍観者効果と言うのか。
彼の前を通り過ぎる人は相当数いた。
数人に一人は彼を一瞥したが通り過ぎ、それ以外は見もしなかった。
寺に生まれたせいか、どうにも私はお節介焼きらしい。
急ぐ用もないので千鶴さんに一言断りを入れ、男性に声をかけた。
「どうしました?」
男性は弱弱しく「調子が悪くて」と返事を返した。
返答通り、明らかに正常な状態に見えなかった。
顔面は蒼白で、手が微かに震えている。
「一型ですか、二型ですか?」
一歩遅れて着いてきた千鶴さんが唐突に言った。
唐突過ぎて私ではなくベンチの男性に声をかけていることに気付くのが一瞬遅れた。
「二型です……ランチを取り損ねたのが災いしたみたいです……」
後で理解したことだが、男性は糖尿病だった。
低血糖による発作を起こしていたらしい。
「では、これをどうぞ」
千鶴さんはゴソゴソとポケットの中をまさぐり何かを取り出した。
見ると、ビニールで包装されたいくつかの飴玉だった。
「私の非常食です」
男性は弱弱しく礼を言い、包装を破って砂糖の塊を口にねじ込んだ。
〇
男性は鈴木雄介と名乗った。
スポーツ用品メーカーで営業職をしている会社員で、今日は私用で早退し帰途の途中だったそうだ。
早退するためにさっさと仕事を終わらせようとしたところ、集中のあまりいつもはとるはずのランチをおざなりにしていた。
それで低血糖の発作症状を起こしてしまったようだ、と語った。
男性が少し落ち着くと、「言うまでも無いですが医療機関を受診してくださいね」と千鶴さんは念押しした。
彼は「もちろんです」頷いた。どちらにして今日は通院の予定で早退していたらしい。
お節介を始めたのは私だが、結局お節介の続きは全部千鶴さんが引き継いでいた。
助手が探偵に敵わないように、弟子が師匠に敵わないように、私は千鶴さんに敵わない。
地下鉄駅から地上まで出ると「では、気を付けて」と暇を告げようと思った。
すると千鶴さんが思いもかけないことを言った。
「お住まいは近所ですか?」
流石に初対面の相手に住所まで明かさなかったが、果たして鈴木雄介氏は徒歩数分内の住人だった。
「では、谷中方面ですね?私も近所なので途中まで行きましょう。発作を起こしたばかりですし、念のためにね。お節介のついでです」
確かに千鶴さんの自宅はこの近辺だが、どうにも不自然だった。
彼女は冷血ではないがここまでお節介でもないはずだ。
聡明な彼女は私の疑念に気付いていたようだ。
先回りして疑念に答えた。
「この人、妙な気配がする」
言われて気付いた。
私も多少は経験を積んだ。
呪殺された被害者を見た。妖精を見たし、魔術も見た。
それらに比べるとだいぶ弱い気配だが、確かに鈴木雄介氏には何かが憑いている。
私は千鶴さんに従い、男性へのお節介の延長を決めた。
駅から出ると猛烈な熱波が襲ってきた。
我々は発作を起こしたばかりの糖尿病患者のことも考慮しながら出来るだけ、日陰を選んでゆっくり歩いた。
雄介氏が糖尿病に罹患したのは最近の事らしい。
彼の父も叔父も糖尿病で、当人は「糖尿病のサラブレッド」と自嘲していた。
自分が糖尿病を発症することは遺伝的にあり得ることとして覚悟していたが、罹患したばかりなのでまだ付き合い方をよく理解していないと話した。
そして「しかし、よく低血糖への対処法をご存じでしたね。おかげで助かりました」と改めて礼を言った。
「たまたまですよ」と千鶴さんは謙遜した。
ところで千鶴さんが低血糖への対処法を知っていた理由だが、彼女は勉強が好きと言う奇特な人種なのだ。
祓い屋学校には一般的な学科のクラスもある。
一般的に憑き物を落とすときは「心理的な作用」と説明するため、心理学を熱心に勉強する学生は多いが、一般的な医学知識を学ぶ学生は少ない。
千鶴さんは在学中に取得できる単位はすべて取得しており、その中に家庭の医学も含まれていた。
低血糖の発作に対処できたのはそういう理由からだ。
「ところで、あなたは"一型か二型か"と聞きましたが、なぜ糖尿病だとわかったんですか?」
それは確かに疑問の残るところだ。
男性の問いに千鶴さんは苦笑した。
「それです、それ」
千鶴さんは男性が背負ったリュックのサイドポケットを指した。
サイドポケットはメッシュ状になっていたペン型の何か入っているのが見えた
「それ、インスリンペン型注入器ですよね?糖尿病以外にそんなものを持ち歩く理由は無いでしょう?」
簡単すぎるタネが割れて男性は破顔一笑した。
しかし、そう言われても、サイドポケットに入ったインスリンペン型注入器に気付く人間はそれほどいないだろう。
これは注意力や観察力といったものの産物なのだろう。
ある名探偵は「見ているだけで、観察をしていない」と助手を窘めたが、どうやら私も見ているだけで観察できていないようだ。
〇
男性の自宅は谷中の千鶴さん宅からほんの二ブロック程しか離れていなかった。
ここまで近所なら互いに顔ぐらい知っていてもおかしくないが、自営業の祓い屋と雇われ者の会社員では家を出る時間も帰宅する時間も全く違う。
生活リズムが違い過ぎて今まで顔を合わせることが無かったのだろう。
しかし、こうして我々は顔を合わせた。
そして、男性からは妙な気配がする。
いよいよ奇縁と言うものだ。
男性の名前はわかっているし、どこに住んでいるかもわかっている。
あとは祓い屋協会に頼んで口実を作ってもらい、男性とは後日話せばいいと思った。
門の前で少しばかり立ち話をして辞去しようとしたところ、雄介氏と同世代に見える女性が出てきた。
奥方らしい。
夫の通院に付きそう為に一足早く早退していたようだ。
雄介氏は駅で発作を起こしたことを話し、我々を「親切な隣人」と紹介した。
鈴木梨沙子と名乗った奥方は、礼を述べると「暑いし、冷たい飲み物でもいっぱいいかがですか?」と我々を誘った。
日本的な文化では断るところだが、我々にとって渡りに船だった。
我々は多少遠慮する姿勢を見せながら誘いに従い、厚意に甘えることにした。
〇
麦茶には体を冷やす効果があるという。
誰が飲み始めたのか不明だが、伝統的であると同時に合理的でもあり、しかも安上がりだ。
実にありがたいと思う。
冷たい麦茶を飲みながら、夫婦と少しばかりの雑談になった。
鈴木夫婦は共働きで結婚十年。まだ子供はいない。
だが子猫はいる。
猫は良く寝る生き物だ。
一日の大半を寝て過ごす。
鈴木家の飼い猫である縞と白のバイカラーの日本猫も、ご多分に漏れず寝ていた。
ソファの脇で丸くなって固まっている物体が何なのか、入室時には気付かなかったがそれははたして昼寝中の猫だった。
「この子、名前は?」
千鶴さんが尋ねると、雄介氏が答えた、
「フクです。猫なら招き猫だから、福を呼ぶでしょう?それが由来らしいです。安易でしょう?」
雄介氏は「フク」と猫を呼んだ。
フクは呼ばれたことには気づいたらしく、顔を少しだけ持ち上げたがすぐに昼寝の体勢にもどった、
フクは中々の古だぬきならぬ古猫で、すでに十五歳を超えているらしい。
横着してスマートフォンで検索したころ、飼い猫の平均寿命が十五歳とのことなので人間なら立派に晩年である。
元は雄介氏の祖母の飼い猫だったが、五年前に祖母が死去し、以降は鈴木夫婦が飼っている。
夫婦が引き取った時点ですでにフクは十歳だったので、まさか今も生きているとは想像していなかったそうだ。
雄介氏は再び「フク」と名前を呼んだ。
今度は、フクは顔すら上げずピクリと耳を動かしただけだった。
「素っ気なくて」
フクは主人のことなど関せずの様子で丸まって寝ている。
それでも夫婦はあまり気にしていない様子だった。
「あんまり人懐っこいのも猫らしくないですしね。ほら、言うじゃないですか
犬は人に懐く、猫は家になつくって」
〇
結局雄介氏から感じた妙な気配の正体は私にはわからなかった。
千鶴さんの様子だとなにか掴んだようだが、彼女は何も言わなかった。
あっさりと辞去したが彼女はどういう考えなのだろうか。
外は変わらず真夏の日光が照り付けていた。
猫でなくともエアコンのきいた室内で昼寝を決め込みたいところだ。
いかに大都市東京とは言え、昼間の住宅街は人通りが少なかった。
だから、気付いた。
我々の後を一匹の日本猫が歩いている。
特徴的なガラと首に付けた鈴からして、恐らく先ほどまでお邪魔していた鈴木家の飼い猫のフクだろう。
猫がふらりと主人の家を出ることは珍しくない。
猫は体が小さく、俊敏であるため、主人の思いもよらぬところから抜け出していることも少なくない。
私の実家は寺だが、寺の境内をよく猫が出入りしている。
野良猫も相当数いるはずだが、首に鈴をつけた明らかな飼い猫もいた。
一度など、近所の住人が猫を探しに境内に入ってきたことがある。
しかし、どうにも奇妙だった。
鈴木家の飼い猫のフクは我々の後をついてきているように見える。
その奇妙さに気付いた――訂正、どうやら鈴木家に招かれた時点で彼女はアタリをつけていたようだ。
千鶴さんは足を止めるとついてきたフクの前にかがみこんだ。
そして、そっと柔らかな毛並みに手を触れた。
フクは触れられるがままにじっとしていた。
猫はじっと見られることを嫌う習性と言われているが、彼女――メスらしい――はじっと千鶴さんを見返していた。
「この子、猫又だね」
千鶴さんは思いもかけないことをはっきりした口調で言った。
「正確には猫又になりかけてる」
「ニャー」というフクの鳴き声が、私にはまるで千鶴さんの言うことを肯定するように聞こえた。
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