最後の魔術
壊れかけの冷凍庫のような生暖かい冬が去り、春になった。
まもなく初夏になり、高温多湿な真夏がやってくることだろう。
真夏の暑さを想像しながらすこしばかりうんざりしつつ仕事をしていると、いつものごとく千鶴さんから「仕事に同行しない?」というメッセージが来た。
詳細を聞くと、よくある鑑定の仕事だった。
若いながらかなりの実績のある千鶴さんは、祓い屋業界でもかなり腕がいいと評判で、特に多くの知識を要する鑑定の仕事が引きも切らない。
もっともその大多数は二束三文の代物か何の神秘も内包していない真っ赤な偽物で、それが解っているため多くの祓い屋は鑑定の仕事をやりたがらないか、やってもおざなりな仕事をすることが多い。
それで千鶴さんのような腕がよく職業倫理にも優れた祓い屋のところに仕事が集中する。
私は何度か彼女の鑑定に同行しているが、今のところ「本物」と言えるようなものを引いたことは無い。
だが今回は望みがあるらしい。
その根拠は、依頼人がどのような人物かという私のつまらない質問に対する彼女の答えだ。
「魔術師だよ」
彼女は何の感嘆詞も絵文字も付けず、こともなげにメッセージを返してきた。
「魔術」とは"magic"の訳語の一つだ。
もとより日本語として存在した「魔法」とほぼ同じ意味合いで使われるが、「魔術」はとりわけ近代になって流入した西洋神秘思想と対応して使われる場合が多い。
また近現代における神秘学を近代魔術と呼び宗教人類学では「呪術」と呼ぶが、要は神秘を秘めた不思議な力全般の呼び名の一つだ。
「ところで、千鶴さんは祓い屋ですよね?」と私はメッセージを続けた。
「そうだね」というメッセージが即座に返ってきた。
私はさらに「祓い屋と魔術師はどう違うんですか?」と返した。
長い返信が返ってきた。
祓い屋は「神秘に関連するものに対処する日本の祓い屋協会から認可を受けた日本の特殊業者」という扱いらしい。
今の今まで知らなかったが、「第一種特殊事象処理業者」という立派な国家資格が無いと開業できないそうだ(ごく少数のモグリもいるようだが)
祓い屋は一応は東洋の術を使い、東洋の神秘に詳しい人が多いという。
が、それらの特徴は「一応」であり、千鶴さんを含め祓い屋には使える技なら日本古来のものだろうと大陸渡来だろうと西洋由来だろうと気にしないという人も相当数いるらしい。
「強引にまとめるとね」と前置きして彼女は締めくくった。
「祓い屋と魔法使いと魔術師の違いは日本をニホンと読むかニッポンと読むかジャパンと呼ぶかぐらいの違いだよ」
なるほどわかりやすい。
長い説明の返礼に私は出来るだけ気の利いた感想を返そうと努力し、実行した。
「『薔薇と言う花を違う名前で呼んでも甘い香りはそのまま』ですか?」
すぐに既読のマークがつき返答があった。
「シェイクスピアは上手いことを言うね」
〇
新大久保はもともと外国人の多い地域だった。
エリアの一角である大久保一丁目はギリシャ出身で来日後に帰化した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が生涯を終えた地であり、彼の墓はここにある。孫文は日本に亡命した際に同じく新大久保エリアの一画である百人町で生活していた。
他にも宣教師や外国人教師たちが、かつてからこの町に住んでいたと言われている。
明治以降、順調に伸びていた外国人比率は上がり続け、今では大久保エリアの総人口の内三割超が外国人らしい。
コリアンタウンとして有名だったが、今の新大久保は元より大きな存在感を放っていた韓国人街に加え、中国、ベトナム、タイ、ネパール、アラブの要素が組み合わさりエスニックタウンとしての様相を呈している。
いつものように待ち合わせした千鶴さんと合流すると、新大久保駅を出て大久保駅を進む。
大手ディスカウントストアやチェーン系の飲食店に混ざって繁体字表記の看板やハングルの看板、私にはどこの言葉なのかもわからない文字で書かれた看板の店が軒を連ねている。
複雑なスパイスの匂い、スパイスと濃厚な脂の混ざった匂いが漂ってくる。
基本的に単一民族のこの国ではなかなか見られない光景だ。
「いいね。東京みたいな大都市で暮らす醍醐味だね」と千鶴さんはなかなか楽しそうな様子だった。
駅から徒歩七分のネパール料理店で待ち合わせした依頼人である野村・ディークシャ・葵は珍しい名前から推測の付く通りにハーフでインド人の父と日本人の母がいる。
母親は金沢出身の純正日本人だが、父親はかなり複雑な混血で、インド、イラン、イギリス、アイルランドの血が混ざっているらしい。
ちなみに依頼人である葵氏の正確な年齢は知らないが四十代の半ばぐらいらしい。
高校の教師で中学生の娘がいるそうだ。
そういえば、私は千鶴さんの正確な年齢を知らない。三十ぐらいらしいが、年齢を確かめるには勇気のいる微妙な年代だ。それを積極的に聞く勇気は私には無い。
対面した我々はまずは型通りの挨拶をすると、打ち合わせに入った。
「お父様の人となりや来歴について教えていただけますか?」と千鶴さんが聞いた。
依頼人はあまり快くなさそうで「必要なことなのでしょうか?」と聞き返した。
千鶴さんは静かな口調ながら断固とした態度で「必要です」と言った。
どうやら依頼人と父君はあまり良い関係ではなかったようだ。
〇
依頼人の父方の家系、ミスラ家はもともとバラモン教の僧侶だった。
家系の歴史は記録すら残っていないほどの昔に遡り、伝承によると大変な高僧として敬意を集め、先祖には妖魔退治の伝承もあるという。
ミスラ家はもう少し近い遠い昔のどこかの時期にペルシャの血縁を取り込んだミックスになり、記録が残る程度の近い時代の昔にはさらにイギリスの血縁を取り込んでより複雑なミックスになった。
記録によると、十八世紀終わりごろのミスラ家は南アジアでもちょっとした大物術師として名を馳せていたそうだ。
しかし、そこが最盛期であると同時に凋落の始まりだった。
十九世紀にはいると、イギリスの対インド貿易が自由化。
産業革命によって大幅な生産性向上を遂げたイギリス製品が流入し、インドの伝統的手工業が壊滅的な打撃を受ける。
インドは貧困化し、対イギリスへの不満が高まり動乱の時代となる。
動乱の中近代化も進み、世の中は魔術どころではなくなっていた。
旧家であるミスラ家は完全に時代の流れに飲まれた。
一族は神秘の探求に対する熱心さを徐々に失い、力も失った。
葵氏の父親であるファルーク・ミスラの代の頃には俗世の人間と大差ないレベルにまで退化していた。
子供の頃のファルーク氏はいい意味で普通の子供だった。
元々ミスラ一族は古都であるコルカタの家系だったが、二十世紀にデリーに遷都されたタイミングで居を移し、二十世紀も後半になると魔術師の匂いもバラモンの匂いもしないただの成功した貿易商になっていた。
ファルーク氏が日本に興味を持ったのは消去法だった。
彼は魔術師の家系としてはあるまじきことに無神論者だった。
ヒンドゥー教に立脚する身分制度であるカースト制を心底軽蔑しており、出来るだけ宗教色の薄い国で暮らしたいと思っていた。
家族愛も郷土愛もあったが、インドは自分の生活する国ではないと思った。
その望みに見合ったのが日本だった。
たしかに日本は世界でも有数の宗教色の薄い国だ。
一応は仏教と神道の国だが、日本の仏教は土着の神道と神仏習合して境目が曖昧なうえ、江戸以降は形骸化した葬式仏教になっている。
ファルーク氏はデリーの大学を卒業したのち、念願かなって日本の大学に留学。
卒業後はヒンドゥー語と英語と日本語を操る語学力を生かして商社で活躍し大学時代の同級生だった日本人女性と結婚、やがて葵氏が生まれた。
完全な異文化圏でありながら、ファルーク氏は日本を居心地よく感じていたようだ。
葵氏の記憶によるとインドに里帰りするのもせいぜい年に一回程度だったらしい。
家庭を持つようになってからは日本語の訛りもほとんどなくなり、時々危うくヒンドゥー語が出てこなくなるという始末だった。
子供のころの葵氏にとってファルーク氏はただの優しい父親だった。
血筋のせいで、葵氏も幽霊や妖の存在を感じる程度の力は持っていたが、微弱過ぎて魔術師の家系であることなど意識したことも無かったそうだ。
「……でも」と葵氏は一度言葉を切った。
「先祖返りなのか父はそういうものに執念のような感情を持っていたようです」
ファルーク氏が五十代も後半に差し掛かったころ、異変が起き始めた。
魔術に対して執着を示すようになったのだ。
最初はオカルティズムや歴史の本を好んで読むようになる程度だった。
そのうち怪しげなものを購入してくるようになった。
以前よりの頻繁にインドに帰るようになった。
この頃から家族の歯車が狂い始める。
ファルーク氏はもはや妖や幽霊を微かに「視る」程度の能力しか残っていなかったが、先祖伝来の方法で魔道具を作ることに執着した。
千鶴さんの推測では「その道具を作る過程で先祖代々の力が復活するかもしれないと考えたのかもね」ということだった。
〇
待ち合わせしていたネパール料理店を出た我々は、メインストリートの大久保通りから一本入った場所にあるマンションに場所を移していた。
ファルーク氏の妄念で完全に夫婦仲はこじれ、ミスラ夫妻は別居し事実上の熟年離婚状態だった。
既に結婚して家を出ていた葵氏はこじれてしまった夫婦間の鎹になろうと努力したがそれは実らなかった。
夫婦関係は修復されることなく、ファルーク氏は自身の血筋のように複雑なエスニックタウンに居を構えた。
ファルーク氏はワンルームの部屋を借り、完全に引きこもった独居老人状態だった。
細々だった連絡が完全に途絶え、心配した娘の葵氏が確認に来ると、彼はすでにこと切れていた。
警察の話では死後三日は経過していたそうだ。
「こちらです」
隣の輸入食品スーパーから流れてくる異国情緒あふれる匂いを鼻腔に感じながら、エレベーターを三階まで登り廊下を進む。
壁が薄いのかエレベーターから一番近い部屋からは中国語の音楽が、その隣の部屋からはアラビア語と思しき言語の音楽が聞こえてきた。
音楽を聴くという当たり前の行為も言語が違うとひどく非現実的に感じる。
葵氏の母であり、ファルーク氏の妻であるミスラ・佳代子は今日の鑑定に立ち会わないし、する予定も無いとのことだった。
佳代子氏は 娘と孫に会うために、葵氏とは度々対面していたが、ファルーク氏とは数年は口をきいていない可能性があるとのことだった。
「どうせ老い先短い身だし、適当にやっておいてくれればいいよ」と遺産の処理についても投げ槍だった。
夫婦の関係についてこれ以上聞かないぐらいの分別は私にもある。
先導した葵氏が合鍵でドアを空け、私と千鶴さんが続いて入った。
その先はさながら異界だった。
よくわからない何かとよくわからない何かが折り重なってちょっとした山脈を作り出している。
そのよくわからない何かにはよくわからない言語で何かが書かれており、一瞥しただけ普通のものではないことがわかる。
いままで千鶴さんの鑑定に立ち会ったことは何度かあるが、確かに今回は今までと違う。
それらは「妖気」とも「魔力」とも形容できる威容を放っていた。
千鶴さんはワンルームの部屋を検め、言い聞かせるように私に言った。
「ファルーク・ミスラ氏の収集癖は相当なものだったみたいだね。
玉石混交だけど、全体の鑑定額はそれなりのものになりそうだよ」
〇
それから丸々五時間。
千鶴さんは一時の休憩も取らずに働いて鑑定を済ませ、鑑定額を書いたリストを仕上げていた。
五時間続けて仕事をするなど私には不可能だ。
集中力一つとっても私が決して敵うことのない人物は相当するいるのだろう。
作業開始は昼前だったが、日が傾き始めていた。
依頼人が同意すればこの額でバイヤーに買い取られることになる。
葵氏はリストを一瞥して、額を確認した。彼女は額面に対して驚きも感動も示さなかった。
ただ「信頼してお任せします」と売却に同意するサインだけ静々と済ませた。
「ところで……ですが」
事務的なやり取りを終えたところで、千鶴さんの口調が変わった。
この先のやり取りがビジネスライクでないことを悟ったのか、葵氏は意外そうな様子だった。
「これが何かご存じですか?」
そう言って千鶴さんは丼のようなものを差し出さした。
丼のようなものは不思議な意匠で、いくつかの国の美術をパッチワークしたようなデザインだった。
それは「これは売っちゃいけないものだね」と千鶴さんが鑑定のリストから外していたものだ。
葵氏はその不思議なものをじっと見た。
そして、「いえ、知りません」と不思議そうに答えた。
「これは……葵さん、貴女が持っておくべきだと思います」
千鶴さんは静かにそう言ったが、その口調には有無を言わせない確固たる意志があった。
葵氏は困惑しながら差し出された丼のような器を受け取った。
受け取った瞬間、何かが起きた。
最初に感じたのは匂いだった。
その匂いは隣の輸入食品スーパーから流れてくるスパイスの匂いに似ていた。
似ていたが別物だった。
その匂いは鼻腔ではなく心を直接刺激するような懐かしさを感じる匂いだった。
匂いのもとを辿ると、不思議な意匠の器にたどり着いた。
器から湯気が漂っている。
湯気の漂う器の中を依頼人の葵氏がじっと見ている。
その表情は鑑定額を聞いた時の無関心な表情とは別物だった。
「……ラッサムです」
彼女は絞るように呟いた。
「……父の得意料理でした。スパイスの調合が凄く複雑で、レシピを教えてもらって作ってもどうしても同じ味にならなくて。
……子供の頃に食べさせられて、辛すぎてビックリしてしまって。たまにしか作ってくれなかったけど、大人になってからは好きになってました」
こうなることを予見したのだろう。
用意していたように千鶴さんが語り始めた。
「この陶器にはいくつかの要素が見られます。まず一つ目はこの五色の模様で、これは『五彩』と呼ばれる九谷焼の特徴です。裏側に描かれている茶褐色の人物はバラモンとヒンドゥーの神様、インドラでしょう。隣の模様はケルティックノットで、ブリテン島の先住民族だったケルト民族にとっての三位一体を表しています。星型のパターン模様はハータムカーリーによく見られるイラン美術の特徴です。
お父様はインド、ペルシャ、イギリスの混血で、お母様は金沢の出身でしたね?
インド神話のドラウパディーの壺、俵藤太物語の米が尽きない俵、ケルト神話のダグザの巨釜など食べ物が無限に湧いてくる器の伝承は各地にありますが、お父様はご自身とお母様の文化的バックグラウンドにモチーフを絞っています。
お父様とお母様が合わさったもの……つまりこの陶器は貴女です」
依頼人は呆然としながらも聞いている。
「お父様が最後にたどり着いた魔術は貴女だったんですよ」
千鶴さんは静かに締めくくった。
葵氏は器の中身に口をつけた。
「……辛い」
彼女の目には光るものがあった。
ラッサムの辛さだけが理由ではあるまい。
〇
外に出ると、傾きかけた日は落ちかけていた。
昼のにぎやかな繁華街は、装いを変えた夜の繁華街に変貌していた。
「せっかくだから」と我々は国籍迷子状態の大久保通りを散策していた。
「きっと亡くなったファルークさんの血には魔術師の遺伝子という時限爆弾みたいな因子が眠っていたんだろうね」
千鶴さんはそう考察を述べた。
彼女がそう言うからにはきっとそうなのだろう。
「それは本人が否定しようとどうにもならない、ファルークさんの切り離せない一部だったんだ。でも……」
「でも?」と私は間抜けな相槌で続きを待った。
「娘を思うただの優しい父親も間違いなくファルークさんの大事な側面だった。きっと、その二つが最後まで本人の中で鬩ぎ合ってたんだろうね」
インド料理店の客引きが声をかけてきた。
今夜は自炊しようと思っていたが、誘いに乗るのも悪くないと思った。
そういう気分だった。
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