停車場の童 後編

 時は1923年。元号表記に直すと大正十二年のことだ。

 この三年後に大正天皇は崩御し、大正という一つの時代が終わりを告げることになるが、松本家の歴史にも一つの区切りが訪れようとしていた。

 没落が顕著になっていた松本家の当時の家長、松本幸次郎氏が美術商の商売を畳むことを決断したのだ。妻の忍と幾晩も続けて話し合い、吐くほど悩んだ末の決断だった。

 幸次郎と忍の娘であり、千鶴さんの曾祖母であり、物語の語り手である文子は当時十代の前半だったが、彼女は利発で大人びておりよく状況は理解していた。妹の清美はまだ齢五つで状況をよく理解していなかった。

 商売を畳んだ後のことだが、前述の通り幸次郎氏は伊勢の風宮本家と和解に成功しており、本家を頼ることにしていた。

 借金はあったが可処分財産をすべて処分すれば完済できる見込みだった。

 幸次郎氏はため込んでいた美術品を一部除いて処分し、忍は余分な着物を売った。

 東京の家も売り手が決まった。

 そしてもう一つ、売るものがあった。

 軽井沢の別荘だ。


 軽井沢は明治初期にアーネスト・サトウによって避暑地として紹介されたことで、現在へと続く歴史が始まる。

 明治の終わりごろには百軒を超える別荘が立ち、皇族や華族も避暑地として親しむようになった。もとより西洋人が避暑地として利用し始めた地であり、避暑に訪れる人の国籍は20に及んだ。「日本にいながら西洋を感じる」場所として、知識階級にも好まれるようになった。

 当時の松本家もその「知識階級」の一人だ。

 山師レベルの商売人だった江戸時代から、時間を経て洗練された文化人になった松本家は豊かなインテリジェンスを誇っていた。

 文子の話によると幸次郎氏は四か国語が話せたそうだ。


 松本一家にとって金銭的にも精神的にも最も豊かだった時代の象徴。

 それが軽井沢の別荘だった。

 別荘を処分するということは豪商松本家の終わりを意味する。

 夫妻はもちろん、利発な文子もその意味をよく理解していた。

 幼い清子も理解せずとも雰囲気ぐらいは感じていたかもしれないし、柴犬のタロウもご主人様一家のただならぬ様子は感じていただろう。


 大正十二年の八月末。

 一家は別荘で最後の日を過ごすべく軽井沢へと旅立った。


  〇


 「上野発の夜行列車降りたときから」という昭和のヒット曲がある。

 今や上野は東京のターミナル駅としての役割を新宿や東京に譲っているが、当時の上野は地方と首都・東京をつなぐ玄関口だった。


 八月末の暑い日の朝、松本一家四人は上野駅のプラットフォームに立っていた。


 当時の東京はすでに人口三百万人を超え、四百万人に迫ろうという勢いだった。

 現在のロサンゼルスと同レベルの都市規模だ。そう考えると少し恐ろしい。


 上野駅は人でごった返し、息をするのも苦しいほどだった。

 現代に比べれば当時の日本はまだいくらか涼しかったがそれでも高温多湿な日本の夏である。

 幼い妹をあやしながら、文子は涼しい軽井沢に着くのが楽しみでならなかった。


 今ならば東京駅から新幹線で一時間だが、当時は上野から軽井沢までは汽車で六時間かかった。横川でアプト式の機関車に付け替えるのに三十分かかり、そこから軽井沢までは二十六本のトンネルを通り抜けて一時間と十五分かかる。

 松本清張の小説ではやたらと長時間かけて登場人物が汽車で移動しているが、新幹線登場以前の日本列島を移動するのはそれほど大変なことだったのだ。


 駅につくと出迎えに来た別荘番の大八車に行李やバスケットやスーツケースを積み込む。夏の軽井沢では毎日のように繰り広げられる光景だが、今までと違うのは荷物を詰め込むのが召使ではなく松本一家自身であることだ。些細なことだが、文子は自分の人生が一つの区切りに入ったことを改めて感じた。

 

 着いた先は喧騒とまるで別の世界だ。

 軽井沢を最初に広めたのは外交官のアーネスト・サトウだったが、明治後半から大正にかけての歴史を作ったのは宣教師たちだった。

 自然豊かな寒村であった軽井沢は清貧を旨とする彼らの琴線に響いたのだ。

 大正の頃にはゴルフ場も完成し、後楽もできた。


 一家は宣教師をはじめとするもはや馴染みとなっていた西洋人たちと語り、ゴルフをし、木立の道を散歩した。夜は友人を呼んでボードゲームに興じた。

 毎年過ごしてきたバカンスの過ごし方だった。

 このバカンスが来年にはやってこないということだけが例年と違っていた。

 

 夏のバカンス――最後のバカンスはあっという間に終わった。

 東京に戻る朝はにわか雨のさえない天気だった。

 「最後ぐらい晴れてもいいのに」と文子は思った。


 朝食を食べ、ご近所さんたちに暇を告げ、別荘を後にする。

 あっさりと駅に着き、両親は切符を買いに窓口に向かった。

 文子は告げられた通り幼い妹の手を取って停車場で待っていた。


 駅舎の時計は午前十一時を指している。

 静かな朝だった。

 文子は妹が迷子にならないよう注意を払いながら、ぼんやりと空を見上げていた。


「今日東京に戻っては駄目」


 突然、声がした。

 文子はぎょっとして振り返った。

 しかし、見識ったような顔は見いだされない。

 彼女はなにかの聞き違いかと思った。すると、もう一度同じような声が聞こえた。

 その声は耳のそばで囁くようにきこえた。


「今日東京に戻っては駄目」


 またぎょっとして振り返ると、十歳ほどの少女がじっと文子を見ていた。

 どうやらその少女が彼女に声をかけたようだった。

 手をつないだ妹を見やると、妹もその少女をじっと見ている。どうやら自分だけが見ている幻ではないようだ。


 少女の髪はおかっぱで、赤い振袖を着て、妙に整った顔立ちをしている。

 どことなく浮世離れした雰囲気があった。


「どうして東京に戻ってはいけないの?」


 文子はそう聞こうとした。

 しかし、文子が瞬きした次の瞬間、少女の姿は消えていた。


 やがて切符を買った両親が戻ってきた。

 当然、東京に戻ろうという話になる。

 この時、文子は「どうしてももう一日いたい」とゴネた。

 理由は言えない。

 しかし、文子の直感があの少女の忠告を聞くべきと告げていた。


 普段聞き分けのいい文子がさんざんゴネたため、松本夫妻も一顧だにする問題と考え一家はもう一日軽井沢に留まることになった。


  〇


 一家が延泊を決めたほんの一時間後、関東大震災が起きた。

 震災による犠牲者総数は十万人を超えたが、その中に松本家は含まれなかった。 


 難を逃れた松本家は、なけなしの家財を持って伊勢に移り住んだ。

 伊勢に移り住んだのち、文子は風宮家の次男坊に嫁ぎ旧家である風宮の傍系の家系となった。

 文子は弱いながら"こちら側"の力を持っており、主系の次男と婚姻したことで強い力を持った子供が生まれた。

 以後、主系の風宮は神に仕える仕事をし、傍系である千鶴さんの家系は世俗に紛れた神秘に対処する祓い屋になった。


「お前にこんな話は釈迦に説法だろうけど……」


 晩年、文子は千鶴さんに語った。


「世の中には本当に不思議なことがあるものだね」


  〇


「私の推測だけどね。その子供は座敷童だったんだと思う」


 長い話の締めくくりに、千鶴さんは千鶴さんらしく考察を述べ始めた。

 私もその考察に付き合うことにした。


「松本家はそのころ決定的な没落期に入っていたんですよね。座敷童が去った家は没落する。言い伝え通りですね」


 座敷童は座敷または蔵に住む神と言われ、子供の姿をしている。

 見た者には幸運が訪れる、家に富をもたらすなどの伝承があるが、その一方で座敷童が去った家は傾くともいわれる。

 

 文子が停車場で見た少女は「赤い」振袖を着ていたが、赤い服を着た子供、赤ら顔の子供を見るのは座敷童が家を出ていく前触れと言われている。


「私はね、座敷童は『去った』わけじゃないと思うよ」


 彼女は私の考察を否定した。


「座敷童が去ったならもっと明確な凶事が起きるはずだからね。極端な例だと赤い服の童子を見たという家族一同が食中毒死したという話があるね」


「では、千鶴さんはどう思うんですか?」と私はたずねた。


 彼女は答えた。


「きっと座敷童は力を失ったんだよ。松本の家が傾き始めたのは明治から大正にかけて。

現代の科学が神秘の闇を駆逐し始めた時代だ。しかもその先端を行く東京にいたのだからね。急速に力が弱まったんだ」


 そして付け加えた。


「力を失って、家が衰退して……きっと最後の力でお礼がしたかったんだ。それだけ松本の家が好きだったんだろうね」


 千鶴さんは何か満足気にそう語った。

 私にとっても満足な話だった。

 しかし、一つ気になることが語られていなかった。 


「ところで松本家が住んでいた東京の家は?やはり震災で崩壊してしまったんですか?」


 彼女はその質問に「しめた」とばかりにニヤリと笑った。


「今、私が住んでるよ」


 震災で松本の家は奇跡的に難を逃れた。それを風宮が買い取り、改築した。

 今、子孫である千鶴さんが住んでいる。

 私はこの奇跡と巡りあわせに何と言ったら適切かわからなかった。


「季節感の無い話ですね」


 店内で流れるクリスマスソングのBGMに乗せて、私は苦し紛れな感想を述べた。

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