停車場の童 前編

 季節ならではの風物というものがある。

 注連縄と門松で年の初めを感じ、着物を着た若者の集団を見て一年が始まったことを改めて痛感。春の嵐と桜の鮮やかな色で春を感じ、梅雨と梅雨に続く猛烈な暑さで夏を感じる。

台風と紅葉で夏の終わりを感じ、乾燥した寒さで冬を感じる。


 年末を痛感させるのがクリスマスだ。


 イルミネーションが煌めき、「あと何年印税が稼げるのか」と言う下種な考えが浮かぶほど定番となったクリスマスソングが流れる十二月。

 陰暦で師走――師匠が走るほど忙しいと称される時期――私は千鶴さんに連れられて長野の旧家へ日帰り出張鑑定に付き合っていた。

 主人の自信と裏腹にさして珍しい品は無く、我々は早々に鑑定を済ませると鑑定料を受け取って帰路に就いた。

 

 松本駅から特急に乗り二時間半、新宿で降りる。

 新南口から出て街を闊歩すると、夕刻の新宿は地球温暖化にいくらか貢献しているのではないかと思えるほど豪奢にイルミネーションが輝いていた。

 「派手ですね」と私がつまらない感想を述べると、「ロンドンはもっと派手だよ」という千鶴さんは教えてくれた。

 上には上がいるという当然のことを知ることになった。

 これで私は今日、一つお利口になった。


 「疲れたからちょっと休もう」という彼女の言に従い、南口を出て少し歩き喫茶店を探す。

 さすがは世界最大のメガシティの中心だ。

 簡単に見つかった。


 店は昭和の匂いが漂う純喫茶だった。

 凡そ日本と韓国ぐらいにしか存在しない東洋的存在だが、ここでもクリスマスソングが流れ、クリスマスツリーが飾られていた。


 日本人の宗教観は恐ろしくいい加減だ。

 初詣は神社に行き、法事を寺で行い、結婚式を教会で挙げて、クリスマスを祝う。

 同じ区画内に土着宗教の神殿と仏教寺院とキリスト教の教会が仲良く並んでいる国など他にないだろう。

 それで宗教闘争が起きないのだから凄いことだと思う。


 私の実家は浄土真宗の寺で、正真正銘の仏教徒であるため家では一度もクリスマスを祝ったことは無い。

 和尚である私の父は絵にかいたような生臭坊主だが神仏への帰依だけは誠実だ。

 子供の頃に「どうして家ではクリスマスに何もしないの?」と聞いたことがありが、父には「異教の存在は否定しないが家では祝わない」ときっぱりと告げられた。


 それは代々神道の家系である千鶴さんも同じらしい。

 私が実家でのクリスマスの方針を告げると「ウチも大体一緒だよ」と彼女は答えた。

 そして「ちなみに十二月二十五日はイエス様の誕生日じゃない。元々は古代ローマで興ったミトラ教の太陽神ミトラを祝う日で、ローマでキリスト教が国教になったタイミングでついでにイエス様の誕生を祝うようになったんだ。イエス様の誕生日は聖書に歴史書にも明確な記述が無いけど、多分十二月じゃない」と加えた。


 私は今日、二つお利口になった。


 時節柄の会話はこれで終わった。

 そしていつものように結局怪談話になった……が、ウキウキしたクリスマスムードにあてらてたのか、千鶴さんは柄にもなく時流に乗ったことを言い始めた。


「クリスマスプレゼントに……取って置きの話を教えてあげるよ」


 彼女からは今まで山ほど興味深い話を聞いてきたが、今から語ろうとしていることは本当に特別らしい。何でも「近しい身内」から聞いた話で「近しい身内が実際に体験したこと」だそうだ。

 伝承や都市伝説は大抵「知人の知人」か「友人の友人」が体験した話だ。

 ソースが誰かの時点で信ぴょう性は知れている。

 そういうレベルの伝承は今まで山ほど聞いてきたが、「近しい身内」がソースとなると、なるほどどうやら本当に特別らしい。

 しかも彼女は祓い屋である。千鶴さんの近親者なら本当に不思議な体験をしていてもおかしくない。私の中で期待が高まった。


「私に話してくれた人物のことを説明するために、私の家系のバックグラウンドを説明しよう。

話は私と君の共通のご先祖様まで遡るんだけど……」

 

 私の家系と千鶴さんの家系は元をただすとどちらも伊勢の風宮(かぜのみや)家に由来する。

 江戸の初期に伊勢の本家から出奔した人物が関東に渡り、家庭を築いた。


 その家庭から枝分かれしたのが私の家系である長南家だ。

 我が先祖は江戸の中期に仏門に入り生臭坊主の血筋の元となった。江戸時代は寺と神社は同じ境内にあり、神社の神職を寺の坊主か兼ねていた。つまり仏僧が神官を兼ねるという二重の権力を持っていた。加えて寺請制度によって幕府より与えられた特権に仏教界は安住し、腐敗した。

 偉大なる生臭坊主のご先祖様もその時代の副産物である。


 しかしその後の激しい廃仏毀釈運動を生き抜いたのだから意外に日ごろから功徳を積んでいたのかもしれない。

 お供え物は寺の人間で食べ、余ったら廃棄される悲しい定めを背負っているが、記録によると享保の大飢饉の頃、当時の和尚で私のご先祖様、長南光徳おさなみこうとくはお供え物を食べるのを止め、貧民に分け与えていたという。

 ご先祖様の数少ない僧侶に相応しき行いに敬意を表し、我々二十一世紀の子孫たちも余ったお供え物を経済的に困窮した家庭に分配する社会福祉活動を行っている。


 同じ関東に渡った風宮のご先祖様から枝分かれし別の家系になったのが松本家でこれが千鶴さんのご先祖様にあたる。この家系は商人として成功した。※


 松本のご先祖様は元は日本橋本町で薬問屋を営んでいた。 

 眼病に効く当時評判になった「益田五霊膏」にあやかり、自身も眼病の薬を生産、販売。

 一定の利益を上げることを成功する。

 薬はビジネスになると悟った当時の松本氏は続いて梅毒に効く(と主張している)薬を売りだした。

 記録によると松本氏が眼病の薬を売り始めた時期と梅毒に効く(しつこいようだが正確には効くと主張していた)薬を売り始めた期間は三か月しか違わない。

 三か月で新薬を開発する奇跡を成し遂げたか、眼病の薬と梅毒の薬は同じ成分だったかのどちらかだろう。

 皮肉屋の懐疑主義者である私は後者を推したい。


 私の邪推が妥当ならば眼病薬と梅毒の薬は同じ成分だった可能性もある。

 しかし、松本氏の薬は「効く」とある程度の評価を受け、売れた。

 薬の効果は偽薬(プラセボ)だった疑いが濃厚だが「売れた」という事実に変わりはない。

 江戸時代の医療水準は「足を怪我して飛脚が出来なくなったので仕方がないから医者でもやるか」という恐ろしい考えが通ってしまった時代である。


 松本のご先祖様は薬を研究することではなく売ることにばかり血道を挙げていたため、幕末に「医者の開業が許可制になる」との布告が出ると自らの商売に対して強い危機感を感じた。

 

 そして布告通り明治初期に医術開業試験が導入され、医者が許可制の仕事になるとそれを期に大胆な業種転換を図った。

 美術商である。

 

 元より趣味で美術品を買い漁っており目利きには自信があった。


 明治初期、上野に東京国立博物館と東京美術学校が創設された。


 商才に長けた幕末、明治初期の松本のご先祖様、松本彦次郎がこれを逃すはずがなかった。

 日本橋本町から上野エリアへと引っ越し、美術商を開業した。


 彦次郎は特に刀剣類の目利きに定評があり、開国で押し寄せたジャポニスム趣味の金持ちヨーロッパ人が上客になってくれた。彼には元々語学の才能があったらしく、英独仏中日の五か国語を習得したのも大きかった。

 商売は膨らみその過程で松本家は山師同然レベルの胡散臭い輩からちょっとした名家へとドラスティックな変化を遂げていた。


 しかし、ローマのような大帝国ですら永遠でなかったように、松本家の商売繁盛も永遠ではなかった。


 ローマ皇帝テオドシウス一世の息子、アルカディウスとホノリウスは共に暗君だった。

 巨大帝国ローマは東西に分裂し、やがて滅亡した。

 松本家の事業も子供たちへと世襲されていったが、残念ながら松本家の商才は彦次郎の時代がピークだった。

 事業は徐々に衰退し、大正初期になると商売を畳むことが現実的選択肢として検討されるようになった。

 

 衰退期当時の当主であった松本幸次郎氏は温厚で人当たりの良い人物で、三世紀ぶりに伊勢の本家と仲直りを果たしていた。

 大正時代に親戚筋を頼っておよそ三百年ぶりに伊勢に戻ることを決めた。

 遅まきながらここでようやく語り手を紹介できる。


 語り手の名前は風宮文子かぜのみやふみこ――旧姓・松本文子といい、当時はまだ十代前半の少女だった。

 彼女は千鶴さんの曾祖母にあたり、千鶴さんがこの話を聞いたのは文子が百と一歳で大往生する前年のことだ。


※当時、商人で苗字を名乗れたのはよほどの豪商だけでしたがそれはあくまでも「公に」の話で、農民も町人も私的には苗字を名乗っていたそうです。

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