影踏み 後編

 後日。

 明彦氏から頼まれて私と千鶴さんは影を踏まれた件の人物の元を訪ねることになっていた。


 六本木一丁目の駅で待ち合わせ、高層ビル群を見上げながら歩く。

 この一帯は金持ちの街、東京でも特に裕福な一帯だ。

 件の人物は経営者らしいが、「社長」という身分にふさわしいところに住んでいると言えるだろう。


「影には魔術的な意味がある。光に対応する闇の存在である象徴性がある」

 

 その道すがら、千鶴さんは自らの分析を口にした。

 いつものように彼女が話し、私はそれを拝聴するポチの役割に徹していた。


「影には本体の魂の一部が存在するとも考えられている。ファンタジーにおける忍術の影縫いは、忍者が敵の影に手裏剣を投げると、物理的には無関係のはずの本体が傷つくけど、これは影に魂があるという考えに基づくものだろうね――」


 彼女は顔を上げた。

 つられて顔を上げると真昼の空にうっすらと月が見える。

 今夜は三日月のようだ。 


「――加えて月の光は狂気を呼び起こすとも言われている。"月と影"が今回のキーワードだね」


「今回はどういう現象なんでしょうか?」と私は尋ねた。


「まずは本人に会ってみないと。これは神秘と関係する事象なのか科学で解明できる現象なのか判断のしようがないからね」


 最近の長雨で気温はぐっと下がっている。

 高層ビル群のビル風を受けながら我々は歩みを進めた。


  〇


 件の人物である高代理恵子たかしろりえこ氏は中小企業経営者らしい腰の低さで我々を迎え入れた。

 年のころからして四十代の前半から半ばというところだろうか。

 本城さんよりも若いかもしれない。


 中学に上がりたての息子と会社員の夫がいるが、双方とも堅気の人物らしく平日の昼間である今現在、不在だった。

 理恵子氏は我々の存在を存外に重要視していたらしく、今日は在宅での仕事を決め込んで我々を待っていたのだ。


 高層マンションの十階というかなり高ステータスな部屋に上げられ、客間に通される。

 理恵子氏はインドネシアやベトナムといった東南アジアからコーヒーを輸入・販売する代理店を経営しているそうだ。

 供された練乳を加えたベトナムスタイルのコーヒーは甘くて香ばしく、極上の味だった。

 千鶴さんは東南アジアでは特にラオスが好きらしく「ラオスのコーヒーは扱ってますか?」と聞いた。

 ラオスに行ったことのある人間はかなり珍しいらしく、理恵子氏と千鶴さんはしばし旅の話で盛り上がっていた。


 理恵子氏のその姿は快活そのものに見えた。

 とても問題を抱えているように思えない。


 しかし――かなり微妙な気配ではあるが彼女からは"こちら側"の問題を抱えた人間特有のものがある。

 その気配に何か掴みどころの無い印象を私は持った。


 旅好き二人の暫しの歓談の後、千鶴さんが率先して本題への方向転換を試みた。

 もちろん「私は祓い屋です」などとは言わない。

 あくまで「スピリチュアル方面にも詳しいセラピスト」と名乗っている。


「何からお話すればいいでしょうか?」


 理恵子氏が不安げに聞いた。


「影を踏まれた時に思ったこと、感じたこと……些細なことでもいいのですべて話してください」


 千鶴さんは穏やかに、しかしはっきりと要求した。

 理恵子氏は甘くて香ばしいコーヒーを一口含むと影踏みの夜に感じたことを語り始めた。


  〇


 理恵子氏は明彦氏の会合の古参の一人である。

 影踏み鬼に参加するのも一度ではなく、「児戯だが風流」と感じて毎年のように参加していた。

 理恵子氏は経営者らしく、負けず嫌い、ある種の闘争心ともいえるような心を持っている。

 やるからに多くの参加者の影を踏んでやろうと思っていて、実際、例年はかなり積極的に動き回っていた。


 ところが昨年の影踏み鬼の時、理恵子氏は例年にない奇妙な感覚に襲われていた。

 明彦氏の邸宅に集まった時点では何ともなかった。

 それが外に出て十三夜の月明かりに全身を包まれた瞬間、「この場から立ち去らなければならない」という強烈な脅迫感に苛まれていた。


 理恵子氏はその感覚が「恐怖」であることに中々気付かなかった。

 自身が恐怖していると自覚したその時、あの恰幅の良い紳士が理恵子氏の影を踏んだ。

 踏まれた瞬間、理恵子氏の心臓は激しく動悸し、顔から血の気がさっと引いていくのを感じた。


 東日本大震災の時、理恵子氏は初めて「命の危険」を感じた。

 あの影踏み鬼の日に感じたのは震災の日の恐怖を何十倍にも増幅させたような圧倒的なものだった。

 彼女は暇すら禄に告げる余裕もなく悲鳴を上げてその場から走り去った。


  〇


「私にもよくわからないんです」


 理恵子氏は苦し気に語った。


「自分の影を踏まれると悪いことがある、寿命が縮むという言い伝えは知っています。だから気にし過ぎが原因んだろうと……内科で検査を受けても『健康です』の一点張りだし、精神科医も『気にしすぎ』というだけで。もう、どうしたらいいかわからなくて……」


 千鶴さんは理恵子氏の話を咀嚼するように聞いていた、

 頷きながら目を閉じて、たっぷり考えると口を開いた、


「しかし不思議ですね」

「何がでしょうか?」

「影踏み鬼で影を踏まれたのがきっかけで調子を崩してらっしゃるんですよね?」

「ええ。それが何か?」

「影ならば昼間の方が発生するはずです。昼の方が夜よりも影を踏まれるリスクが高いのでは?」

「いいえ、何故だかわからないのですが"夜に影を踏まれる"のが怖いんです」


 千鶴さんは「そうですか」と頷き、いつものように尤もらしい説明を始めた。


「私は医者ではありません。お医者様が健康状態に問題ないと診断しているならそれを信じます。

ですので、今日のセッションはあくまでも理恵子さんの心に問題があるという前提で進めます。よろしいですね?」


 理恵子氏が頷いたのを確認すると、千鶴さんは持参したショルダーバックから一本の蝋燭を取り出した。

 これはただの蝋燭ではない。

 私の父のような生臭とは対照的な百日行に耐えた徳の高い僧侶が、修行中写経に使ったという霊験あらたかな蝋燭だ。

 「何にせよ今回のポイントはまず影だ。その人に霊的なものが憑いているなら影にその姿が映るはず」というのが千鶴さんの狙いだった。


 「キャンドルの光には精神をリラックスさせる効果がある」と尤もらしいことを言って千鶴さんは高代氏に部屋の明かりを暗くさせ霊験あらたかな蝋燭に火をつけた。


 千鶴さんは私に「何かに気付いたら教えて」と耳打ちし、理恵子氏には「セッションを始めましょう」と告げた。

 そして「眠れていますか?」「食欲はありますか?」といった型通りの話を始めた。 


 蝋燭のぼんやりとした光が薄暗く部屋を照らしている。

 よく清掃の行き届いた白い壁には我々の影が映っている。

 何の変哲も無いただの人影だった。


 セッションが始まって十分経った。

 変化は何もない。

 千鶴さんは第二の手札をバッグから出した。


 一本の小ぶりな瓶。

 その瓶にはある徳の高い神社に奉納された御神酒が入っている。


 アルコールと超自然現象は歴史的密接な関係にある。

 ビールもワインも紀元前の文明ですでに醸造されていた記録があるが、アルコールの脳への作用と発酵という現象の仕組みを知らない古代人にとって

酩酊も発酵も神秘的な現象だった。

 シュメール人とエジプト人はビールを宗教儀式に用いていたし、インカ人とアステカ人は神への供物としてアルコールを捧げていた。

 これを飲ませて理恵子氏の霊的な力を高めようという腹積もりなのだろう。


 千鶴さんが「これを飲んでください」と頼むと、理恵子氏は当然の反応として疑問を呈した。

 セラピーのセッションでアルコールを飲むなど常識的に考えられない。

 これは想定済みの反応だ。

 千鶴さんは「企業がブレインストーミングの時にお酒を飲むのと同じですよ」と説明すると理恵子氏は頷いた。


 御神酒を一服含むと、変化は劇的に表れた。


 壁には蝋燭に照らされてぼんやりと影が映っている。

 我々三人の人影だ。

 そのうち二人の影は何の変哲もない人影だったが、残る一人の影は骸骨の形をしていた。


 私は驚きで思わず息が漏れた。

 千鶴さんは身を見開いた。 

 理恵子氏は不思議そうに我々の顔を見ていた。

 

  〇


 それから一週間ほどの後。

 理恵子氏は重大なトラブル処理のためどうしても夜間に出社しなければならなくなった。

 要件は長引き、深夜になった。

 

 深夜の路上を女一人でを歩く気になどなれない。

 理恵子氏はタクシーを捕まえようとしたが、なぜか捕まらない。

 タクシー会社に電話して配車してもらうことにしたが、少し時間があった。


 オフィスを出てコンビニで時間をつぶそうと外に出た時、まさかの事態にあった。

 刃物を持った通り魔に襲撃されたのだ。 

 彼女はまさかの事態に何もできなかったが、その時、偶然にも非番の警察官が通りがかり通り魔を取り押さえた。

 不幸中の幸いだった。


 その日は奇しくも十三夜だった。

 月の綺麗な夜だった。


 以降、理恵子氏の夜間の外出への恐怖感は嘘のように消えていた。  


  〇


 事の顛末を本城さん経由で知った私は千鶴さんの元を訪れていた。

 「天気がいいから」と彼女は私を上野恩賜公園まで連れ出し、歩きながら話をしていた。

 銀杏の並木道が黄色く色づき、さわやかな秋晴れの太陽が照らしている。

 気持ちのいい天気だった。


 私が事の顛末を告げると「そうか。うまくいってよかった」と彼女は呟いた。

 私は首を傾げ、彼女は答えた。


「ヒュームさんに、十三夜の夜に誰かを理恵子さんの警護にこっそりつけてってお願いしたんだ」


 事態が把握できて居なかったのは間抜けな私だけだったようだ。


「それで、結局今回は何が原因だったんでしょうか?」


 彼女は答えた。 


「わからない」


 意外な答えだった。


「分からないけど、骸骨が映るなんていかにも危険そうじゃない?だからもし、理恵子さんに危険が迫ってるんだとしたら起きるのは十三夜だろうと思ったんだ。まあ、上手くいって良かったよ」


 そう言って千鶴さんは顔を上げた。

 釣られて顔を上げると真昼の空にうっすらと満月が見えた。


「月には不思議な力があると信じられてきたわけだけど……きっと科学が解明していなければ、私たちも把握していないような力があるんだろうね」


台風の季節が過ぎ、頭上にはさわやかな秋晴れの空が広がっている。

うっすら見える真昼の月を見ながら「今夜の月はきっと綺麗だろうな」とふと思った。

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