影踏み 前編

 勅使河原明彦てしがわらあきひこ氏は駒込に居を構える旧家の人物だ。

 本業は不動産鑑定士だが、勅使河原家は江戸以来の豪商の家であり、多くの歴史的資料が残存している。

 代々受け継がれてきたそういった遺産に触れてきたため、明彦氏は自然と歴史に興味を持つようになり、とりわけ民俗学を好んだ。


 本業の傍ら、資料の収集や研究を行っておりとりわけ彼が収集した怪談は相当な数になる。

 五十を超えているがほっそりとして背筋のよく伸びた上品な紳士で、その年代に珍しいことにネットでの情報収集や交流にも熱心だ。

 そんな明彦氏がオカルトサイトの編集長である本城さんと知己になるのは当然というものだろう。


 私は以前、本城さんの代理で明彦氏の開催する百物語に参加することになっていた。

 生憎とその日は主催者である明彦氏の急病で会は急遽中止されていた。

 季節が巡って秋になり、また百物語が主宰されることになった。

 本城さんに会に誘われた私は千鶴さんを連れて行くことを許可してもらい、承諾された。


 明彦氏の邸宅は堂々とした昔ながらの日本家屋で、ちょっとした宴会が開催できそうなほどの広間があった。

 参加者は概ね中年以上の男性が多く、私は堂々の最年少だった。

 本城さんに紹介に預かりながら私と千鶴さんは古参メンバー一人一人に挨拶し、挨拶が終わると会が始まった。


 私もそれなりにストックは持っていたはずだが、さすがは好事家たちの集まりで古参メンバーの話は語り口と言い雰囲気と言い絶妙だった。

 しかし、誰よりも目立っていたのは千鶴さんだった。

 さすがは本職だ。既定の九十九話目を誰がやるかという話が出た段階で、投票になったが全会一致で千鶴さんが選ばれた。

 

 会合が終わるとちょっとした食事が出て懇親会になった。

 参加者全員が千鶴さんに話を聞きたがり、彼女の周囲はちょっとした人だかりができていた。


 そのうちの一人、立派な福耳をした初老の恰幅の良い紳士が少し気がかりなことを言った。


「いやあ、すまないねお若い人。こんなオヤジばかりの集まりでさぞ窮屈だったでしょう」


 千鶴さんは「大変興味深い会でした」と笑顔で答えた。

 恰幅の良い紳士は心から残念そうな調子で言った。


「本当は一人、女性の会員もいるのですがね。何というか、ずっと患っていまして……」


 そこまで言ったところで紳士はその先の言葉を呑んだ。


 「どうしたんですか?」と私は尋ねた。


「いえ、止しましょう。軽々しく口にするような問題ではありませんので」


 何かが胸につっかえているようなそんな調子だった。


  〇


 会はお開きになり、参加者は一人、また一人と家路についた。

 「俺たちもそろそろお暇しよう」と本城さんが言うので私と千鶴さんもそれに従うことにした。

 帰り際に明彦氏に挨拶をしておくことにした。


 明彦氏は下戸らしく、一人茶を啜っていた。

 我々が暇を告げると心からの調子で「またいらしてください」と温顔で述べた。

 挨拶からの流れで少しだけ雑談になった。

 詳しいのは当然のことだろうが、明彦氏は千鶴さんのことを「お若いのに詳しい」と感心しきりだった。


 千鶴さんの本職は霊能力者で祓い屋だがまさかそんなことを真面目に言うわけにもいかない。

 彼女は自分の身分を「本職はセラピストで兼業で民俗学の研究をしている」と語っている。

 セラピストは彼女が仕事に赴くときに表の身分としてよく名乗っているものである。

 憑き物を「心理的なもの」と説明したうえで仕事にかかることが多いからだ。

 本人曰く「全く売れていない」らしいが民俗学の本も出しているらしい。

 つまり完全な詐称ではない。


 散々怪談話をした後だったので雑談の主たる内容は他愛もない世間話だった。

 話題が急激に方向転換したのは千鶴さんが伊勢の生まれで伊勢神宮に関係する一族の出身だという情報が出たのがきっかけだった。

 ちなみに私は浄土真宗の寺院の生まれである。

 明彦氏は「神社の関係者と寺院の関係者が居合わせましたか……」と何やら胸に一物ある様子で呟いた。


「いえ、少し奇妙なことがありまして」


 「奇妙なこと」と言われては静観を決め込むわけにもいかない。

 私と千鶴さんは身を乗り出し、日本的に態度で「興味がある」ことを示した。

 明彦氏は社交的な人物であり、心の機微を読むのに長けている。


「せっかくの機会です。少々長い話になりますがそれでもよろしければ」


 時計は既に午後八時過ぎを示している。

 明彦氏の表情は「奇妙」に「深刻さ」が混ざっているように見える。

 先ほどの恰幅の良い紳士と同じような深刻さだ。

 彼らのただならぬ態度から私はその先が気になって仕方なくなっていた。

 千鶴さんは職業的関心から身を乗り出し気味になり、「お暇しよう」と言い出した本城さんからはその場を辞そうとする態度が消滅していた。

 

「昨年の秋口に行った恒例の影踏み鬼の時です」


 明彦氏は語り始めた。


  〇


 「影踏み鬼」は単に「影踏み」とも称される我が国の伝統的な遊戯である。

 月明かりの夜に行われることが多く、「影や道陸神、十三夜のぼた餅」と囃し立てながら他の者の影を踏むのが作法である。


 この遊戯には二つの方式がある。


 一つは開始の合図とともに全員が一斉に他の者の影を踏むことを競うもの。

 もう一つは鬼役を一人に決め、合図とともに開始し、鬼に踏まれた者は鬼の役割を交代するものである。


 この遊戯は古くから伝統的に行われ明治三十年ごろまでは盛んだったが、近代化とともに廃れてしまった。

 明彦氏の会合は民俗学を趣味とする好事家たちが趣味の範囲でそれを真剣に追及するものだ。

 伝統的な遊戯もまた民俗学と無関係とはいえない。

 そんな妥当な理由から明彦氏は定期的に伝統的な遊戯を行う遊戯会を執り行っていた。


 彼らの行う遊戯会に決まった演目は無いが、一つだけ決まったものがある。

 

 十三夜に行われる影踏み鬼である。

 十三夜は旧暦の九月十三日の事であり、現代では十月のどこかに当たる場合が多い。

 月見と言えば中秋の名月が名高いが、十三夜の月もまた負けず劣らず美しいものと大切にされてきた。

 また、台風の影響を受ける事が多い十五夜と違い十三夜は晴れることが多い。

 そんなこともあり彼らの遊戯会は十三夜に行われることがしきたりとなっている、

 眠らない街東京で、今更月明かりも何もないとは思うが、伝統に意味などないと言えばそれまでだろう。


 明彦氏主宰の影踏み鬼はフィールドを明彦氏が町内会長を務める町内と定められおり、町内会に参加している世帯にも門戸を広げている。

 開催時間は午後七時から午後八時までの一時間で、終了後は宴会になる。

 宴会の会費は大人千五百円、子供千円と控えめだが食べ放題、飲み放題で飲食物の内容もかなり充実している。

 明彦氏は毎年正月に三百通もの年賀状をやり取りする顔の広い人物で、秋口は山ほどのお中元を受け取る時期である。

 宴会で出す飲食物の相当部分をお中元の品で充足させているのだろう。

 気前のいい人物である。 宴会目的の参加者も相当数居るに違いない。


 遊戯会は遊戯会だけあって毎年穏やかなものである。

 祭りの神輿担ぎのように大人の子供も一体となり、一刻の間、鬼ごっこというアナログな遊びに興じる。

 私はスマートフォンもパソコンも据え置きゲーム機も手放せないような人物だが、こういう遊戯の機会が時にあってもいいと思う。


 そんなノスタルジックで心休まる光景だが、昨年、事件が起きた。


 参加者の一人が「気分が悪い」と宴会前に帰宅してしまったのだ。

 客観的にその事実だけを見ると決して奇妙なことではない。

 しかし、その中座した参加者のことを知る人々にとっては驚きに値することだった。


 彼女――その参加者は中年の女性で、小さな輸入代理店を経営する大変社交的で陽気な人物だ。

 宴会を欠席したことは一度もなく、また健康オタクで体調不良ともほぼ無縁だった。

 古参の参加者たちは一様に動揺し、一様に彼女のことを心配した。

 明彦氏も彼女のことを心配し、何か変わったことはなかったか古参のメンバーたちに聞いて回った。

 

 すると、古参メンバーの一人が「彼女の影を踏んだ」と申し訳なさそうに名乗り出た。

 影踏みで影を踏むことはルール範囲内の行為であり、咎められる理由などない。

 しかし、その古参メンバーは影を踏んだ厚意に罪の意識すら感じているようだった。


「影を踏んだら、彼女は顔面蒼白になり、悲鳴を上げながら走り去ってしまった」


 彼はその時の様子をそう語った。

 我々に何かを言いかけたあの恰幅の良い紳士がその当事者だ。


 それ以降、ほぼ一年。

 影を踏まれた古参メンバーの女性は一切夜歩きができなくなってしまった。

 訪ねていけば会ってくれるし、社交的に話に応じてくれる。

 昼間の会合であれば喜んで出てくる。

 ところが、こと夜の会合となると頑として誘い応じない。

 今日の集まりもまた、会が夜まで続くと知ると一切の説得に応じなかった。

 これが「少し奇妙なこと」の概要である。

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