夢
私は夢を見ていた。
夢を見ながらそれが夢であることに気付いていた。
いわゆる明晰夢である。
そこは時代劇に出てきそうな日本家屋の一室で、私はその一室に座布団を敷いて座っていた。
十畳はあろう広々とした部屋で、障子の貼られた引き戸は開け放たれていた。
外には質素な日本庭園がある。石灯籠やつくばいが設置され、池は無い。確か露地庭と呼ばれる種類のものだ。
夕刻が終わりそろそろ完全に夜になろうという時刻なのだろう。
西の端に太陽が残り火を燃やし、それを夜の闇を消し去ろうとしていた。
その部屋にはまるで見覚えが無かった。
部屋に見覚えが無ければ、庭にも家屋にもまるで見覚えが無かった。
夢は記憶の集積物だという説があるが、少なくとも実体験ではない。
その説に従うならば時代劇化何かで見たものを脳が再構築しているのだろう。
私の眼前にあおむけに横たわる若い女もまた、全く見覚えが無かった。
女は輪郭の柔らかな瓜実顔で、長い髪を枕に敷いている。
色白な頬はふっくらとして、唇は赤い。
その女が静かな声で「もう死にます」と言う。
女は血色良く、到底死にそうには見えなかった。
私は何と返したものかわからず「そうですか」と相槌を打った。
夢が何かを告げるという話は多い。
「夢枕に立つ」という表現があるとおり、個人や神仏が現れて物事を告げるのはありふれたタイプの伝承だ。
夢の中に出てきた人物は夢を見ている人物に恋慕の情を抱いていると古代の日本では考えられていた。夜寝るときに長い衣の袖を折り返すと意中の相手が夢に現れるという呪いもあったという。いずれも古い和歌によく使われている題材である。
夢は思わぬ創造をすることもある。
「イエスタデイ」はポール・マッカートニーが夢の中で完成させた曲だ。夢からヒントを得たという作家や映画監督の例は少なくない。
しかし、これはどういう夢なのだろうか。
私はこの女のことを知らない。
この家屋のこともこの部屋の事も確かに知らない。
ここが日本のどの辺なのかという見当すらつかない。
現実に存在する場所かどうかすらあやふやである。
さらに根本を質すなら、この夢が何かを訴えているのか何の意味も無いのかそれすらわからない。
お告げでなく創造的行為だとしても筋が通らない。
私は常に締め切りに追われているが、この夢が締め切りを守るための創造的行為であるととても思えない。
見知らぬ女はじっとこちらを見据えている。
私の気の利かない相槌に呆れるでも残念がるでもなく、ただ長いまつ毛の下の黒い瞳で私を見つめている。
「もう死にます」
女はもう一度はっきりと言った。
見つめる双眸は光沢があり、また長い黒髪も艶がある。
ひどく健康的に見えたが彼女の言葉には差し迫った死を思わせる凄味があった。
「そうですか、死ぬのですか」
私は言った。
「ええ。そうなのです。もう死ぬのです」
と女は言った。
西日は完全に消え、完全なる夜になった。
満月が浮かび、月明かりが我々を照らしている。
近くに海か湖でもあるのだろうか。
湿り気を帯びた涼しい風が吹き込んでくる。
「死ぬには悪い日ではないかもしれない」と私は思った。
「死んだら、埋めて下さい。また逢いに来ますから」
私は「いつ逢いに来るんですか?」と聞いた。
「百年、待っていて下さい」
女は思い切った声で云った。
「百年、待っていて下さい。きっとまた逢いに来ますから」
〇
夢から覚めるといつものワンルームだった。
引き戸は障子ではなくガラスで、外に庭は無く素っ気ないベランダがある。
ベランダを夏の午前八時の強い日差しが照り付けている。
寝ぼけ眼を擦りながら起き上がり、簡単な朝食をとる。
食事を済ませ覚醒しきったが、私はまだ夢の余韻を引き摺っていた。
これほどまでに夢がその余韻を引き摺ったのは初めてだった。
今日は編集部に立ち寄る用がある。
千鶴さんに連絡して、予定が合えば帰り際にでも夢の解釈を聞かせてもらおうと思った。
二階にある部屋を降り、オートロックの正面玄関を出る。
秋の気配が近づいてくる時期だが過酷な残暑の熱気がまとわりついてくる。
じりじりとコンクリートで舗装された地面からの照り返しが肌を熱くする。
私は「まだまだ暑いな」と毒にも薬にもならない独り言をつぶやいた。
正面玄関を出て数メートル。
前ではなく、下を向いて熱く焼けたコンクリートの歩道に目を向けたのはただ何となくだった。
歩道の一隅に私は目を奪われた。
舗装された歩道の一隅にヒビが入り、一輪の百合の花が咲いていた。
それを見て私はなぜか確信していた。
「これは彼女だ」
千鶴さんのところに駆け込んで調査してもらおうと考えていた。
百合の花を見た瞬間、その行為がひどく無粋なものに思えていた。
私の手は千鶴さんにメッセージを送ろうとスマートフォンを握りしめていたがその手を放し、代わりにかがみこんで白い花弁にそっと触れた。
「百年ぶりだね」
自然とそう、呟いていた。
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