水底に眠る 前編

 夏はアジア圏における最悪の季節だ、と私は信じて疑わない。

 私は用向きがあり、真夏の炎天下の中、外出せざるを得ない状況になっていた。

 一歩外に出ると、日本の恒例行事、炎天下の日光が降り注いでいた。

 外に出たとたんエアコンで冷やされた体が一気に解凍される。

 加えて湿気を帯びた不快な熱気が体に纏わりついてくる。

 出て数秒で外出を後悔し始めていた。


 ここ数年の間、東京の訪日外国人観光客は急増している。

 最寄りの駅に向かう間、中国語を話す団体(中国人なのか台湾人なのか香港人なのかシンガポール人なのか、北京語も広東語も解さない私には判別できない)とフランス語を話す男女二人組とすれ違った。

 中国語を話す団体はリピーターなのだろう、この暑さを当然のものと受け入れているように見えた。

 フランス語を話す二人組はコンビニわきのベンチで完全にダウンしていた。

 もはやこの暑さは災害だ。


 しかし、仕方ない。

 用向きとは身内からの頼みであり、その頼みの元といえば身内にとって何より大事な檀家さんからの相談なのだ。

 私はできるだけ軒下を伝いながら歩みを進めた。


  〇


 私の実家で浄土真宗の寺院である真光寺は文京区白山という都会の真ん中にある。

 地下鉄の駅をから徒歩5分というシティライフ真ん中の立地にありながら、墓地を併設したかなりの敷地面積を誇っており、敷地内は豊かな緑で満ちている。


 実家は兄が継ぐことですでに決まっているため、私は実家を出て一人暮らしを決めこんでいるが、晴れた日の実家の縁側は殊更に気持ちがいい。

 死に場所を選べるならばここで最後の時を迎えたいと思っている程には愛着がある。


 門をくぐり、中に入る。

 入ってまっすぐに進むと本尊である阿弥陀如来を祀った本堂、本堂から見て左側に墓地があり、右手側に一家の居住空間と客間がある。  


 男女の幼子が墓地と本堂の中間にある井戸でポンプから水を絞り出し、桶に水を貯めていた。

 私は近寄って彼らに声をかけた。


「何してるの?」

 

 注釈しておくが決して不審行動ではない。

 彼らは私の兄の子供たち、続柄で言い換えると私の甥っ子と姪っ子だ。


 彼らの弁によると井戸の水で西瓜を冷やしているらしい。

 夏の井戸の水は冷たいのでついでで水浴びもしているそうだ。

 私はその回答に満足してもう一つ質問した。


「兄貴……お父さんはどこ?」


 甥っ子と姪っ子が交代で答えた。


「客間でお客さんと話してるよ」

「きれいなお姉さんだった」


 「ありがとう。暑いからほどほどにして中に戻りなよ」と答えて私は歩みを進めた。


  〇


「やあ、天明君」


 客間に行くと予想通り私の兄と、姪っ子の言う「きれいなお姉さん」に該当するであろう遠縁の親せきで祓い屋の千鶴さんが談笑していた。

 この寺の和尚でもある父は御自ら出張法要に出ており留守だった。

 部屋はエアコンがよくきいている。

 千鶴さんは冷たい麦茶を飲み、坊主にとって大事な資産である喉を守るため熱い茶を啜っていた。

 兄が「天明が来たぞ」と奥に告げると義姉が何か飲むかと私に聞いた。

 兄に悪かろうと思い、私も彼に倣って熱い茶を啜った。


 エアコンの起動音に混ざって遠くからクマゼミの鳴き声が聞こえてくる。

 落ち着く音だ。

 今なら悟りの一つでも得られるかもしれないと思ったが、悟りがそんなに簡単なら誰も苦労しないだろう。


 これでも兄弟仲はいい方だ。

 兄とはだしぬけの雑談が始まり、ひとしきり盛り上がったが千鶴さんの「羨ましいね。私、兄弟いないから」という発言で我に返って打ち切りになった。

 

 兄は咳ばらいをすると本題に先立って傍らにあった木製の箱を机の上に出し蓋を開けた。


「これなんだけどな」


 中から出てきたのは銅製の古めかしい鏡だった。

 相当に古いものらしく腐食していた。

 その腐食した鏡は明らかなこの世ならざる念が漂っていた。


「お前も感じたか?」


 ちゃらんぽらんな家系だが、兄も一応はこちら側の人間だ。

 それが曰くつきのものであることぐらいはわかる。

 私もそうだ。


「うん。わかる。僕も念を感じる」


 兄は静かに頷くと語り始めた。 


「それでお前と千鶴さんを呼んだわけだが……まずは経緯を話さないとな」


  〇


 私の七つ上の兄、英心えいしんは寺の跡継ぎである。


 ちゃらんぽらんな父とは違いまじめな人物だが、父譲りの世俗主義者だ。

 宗教法人は税制上優遇されるが、現代において檀家の確保は簡単なことではない。

 寺院が宗教的活動のみで生活していくには最低三百件は檀家が必要だが、それだけの檀家を確保している寺院は全国でも二割程度しか存在しないといわれている。

 私の実家である真光寺もその二割程度に入れない存在だ。

 

 そのような事情で今では多くの寺院がそうしているように兄も多角経営に乗り出した。


 「南無阿弥陀仏」と唱えて阿弥陀様にお救いいただくという考えの浄土真宗において写経して功徳を積むことは重視されない行為だが体験写経を開催しており、中高年を中心になかなかの人気がある。(参加料一人千円で毎回三十人以上の参加者がいるらしい。同時に阿弥陀経と正信偈をなぞり書きできる写経用紙も売り出している)

 兄の妻、つまり私の義姉はもともとヨガインストラクターであり、平日夜間に寺の本堂でヨガ教室を開催している。

 こちらもかなり好評だ(参加費一人二千円也)

 母は和尚の妻として寺の仕事をしながら、生来の器用さを活かして手作りのお香を販売している。お香作りの教室も定期的に開催しており副業としては悪くない額を稼いでいる(月収十五万程度)


 今回の件の発端は多角経営の柱の一つ、寺で行っているコンパ(寺コン。参加費三千円也)でのことだ。

 坊主ではなく一スタッフとして会場にいた兄に参加していた女性の一人がためらいながら「ご相談が」と切り出した。


 その女性は代々わが実家の檀家で由井朋美ゆいともみという。

 先祖は江戸町奉行まで務めた古い家系の長女で、まだ二十代の半ばだが親から「見合いをセッティングする」と脅されており「見合いするぐらいなら」と渋々コンパに参加していた。仕事が忙しすぎて出会いが無いらしい。

 

 相談は朋美の中学生の弟、翔太しょうたの事だった。

 ある日、朋美は両親から「相談がある」と呼び出された。

 

 「また見合いの話か」とうんざりしながらも実家に戻ると、相談事はさにあらずだった。

 久しぶりに実家に戻った朋美が見たのはげっそりと痩せた翔太の姿だった。


 聞くとこの三か月ぐらいで急激に痩せ始めたとのことだった。

 本人に聞いても何も答えず、医者に見せても「睡眠不足」としか言われない。


 それで精神の問題と思い、カウンセラーとも面談させたが翔太は何も答えなかった。

 姉弟の仲は良い。

 姉ならば話すのではと一縷の望みをかけて朋美を呼び出したのだった。


 朋美は合理的な女性だ。

 医者が「睡眠不足」というのであればまずはその可能性から洗うべきと考えた。


 彼女は一日休みをとると、実家に泊まり一晩、翔太の様子をうかがうことにした。

 彼女と件の弟君は十二歳も年が離れている。

 心配で仕方がないらしい。


 私が甥っ子と姪っ子に対して抱いているのと同じような感情なのだろう。


 深夜。

 早寝の両親はすでに寝静まっている。

 久しぶりに寝床を共にした姉弟は遅くまでゲームに興じていたがさすがに眠くなり、零時を回るころに就寝した。


 翔太が眠ったのを確認すると朋美はひっそりと読書灯をつけてコーヒーを啜り、様子をうかがった。

 繁忙期は徹夜も辞さないワーカホリックであるため、徹夜には慣れていたのが幸いだった。


 深夜二時を回ったころ、翔太の様子がおかしいことに気づいた。


 彼は声にならないうめき声を上げると、ふらりと立ち上がった。

 朋美が話しかけても何も言わない。


 いよいよおかしいと思った彼女は声をかけるのをやめ弟の行動を見守ることにした。

 ふらりと立ち上がった翔太は、引き戸を開けて部屋を出た。

 朋美を足音に気を付けながらその後を追う。


 翔太の後に続き、外に出る。

 この家には東京二十三区内とは思えないような立派な庭がある。

 その庭には池があるが、翔太は池の前にかがみこみ水面を覗き込んでいるようだった。


 鮮やかな錦鯉でも飼育しているならともかく、庭の池は一言でいえばただの池である。

 一体、ただの池など見て何が面白いのかわからないがとにかく翔太は池に魅入られたがごとく微動だにしなかった。

 

 そのまま一時間ほどすると彼は踵を返し、家に戻った。

 そして朝まで起きなかった。


 翌朝、彼女はもう一日休みをとり、弟にも学校を休ませた。

 外に連れ出すと一緒にサッカーを観戦し、夜は食事に連れ出した。


 忙しすぎてあまり会えていなかったため積もる話が山ほどあった。

 散々話しつくすと、彼女は食事の席で切り出した。


「昨日の夜中、ずっと池を見てたけど、池に何かあるの?」


 翔太は驚いた。

 彼自身全く自覚のない行動だったらしい。

 その代わり、彼には別の心当たりがあったらしい。


「変な夢を見るんだ」


 夢の中で自分は昼下がりの自宅にいる。

 彼らの家は昔ながらの武家屋敷をリノベーションしてきたもので、今もその面影を残している。

 だが、夢の中の家はガラス戸もエアコンも電気の照明もなく今よりずっと古めかしい。

 まるで時代劇のセットみたいな様相になっている。

 部屋にいると、大きい美しい蝶が目の前を飛んでいる。

 その蝶は誘うように家の外に出ていく。

 つられて外に出ると庭を漂い、どこかに落ちるように消えた。

 消えたあたりには池がある。

 夢の中で少年は池の方に向かった。


 そこに池はなく、井戸があった。

 「家に井戸なんてあったかな?」と訝りながら 翔太はそのゆくえを見定めようとして井戸のそばへ寄って見おろすと、蝶の姿はもう見えなかった。

 水に落ちてしまったのかと、じっと底の方を覗いていると、水のうえに美しい女性の顔が映った。おどろいて左右を見返ったが、あたりには誰もいない。

 蝶が女性の顔に変ったわけでもあるまい。不思議に思っていつまでも覗いていると、その女性の顔はこっちを見あげてにっこりと笑ったので、翔太はぞっとして飛びのいた。


 そこで目が覚める。

 それがこの三か月あまり、絶えず翔太が見ている夢だった。


 朋美は合理的な女性だ。

 翔太は潜在意識下で池の事を気にしているのかもしれない。

 それで池を調べようと思った。


 池はボツリヌス菌発生の危険性があると両親を説得し、業者を呼んで池の水を抜かせた。

 その時、池の底から出てきたのが今、木箱の中に納まっている銅鏡だという。

 

 由井家は旧家で、家屋自体もかなり古い。

 弟は十代の前半という多感な時期でもあるし、こんないかにも曰くありげな家に住んでいただら何か感じるものもあるのかもしれない。

 病は気からとも言うし、弟は超自然的な何かに影響を受けていると思い込んでいるのかも。


 そう思った彼女は代々世話になっているわが実家に相談することにした。

 合理的な女性なので、祓ってもらおうなどと考えたわけではない。

 宗教的な素養があって精神的なケアができる人物がいないかと考えたうえでの行動だった。


  〇


「大事な檀家さんの頼みだけど、俺じゃ何かがこの鏡に憑いてるっていうところまでしか解らない。手間賃は出すからお願いできないか?」


 兄は困ったように頭を掻いた。

 千鶴さんは真剣なまなざしで鏡を見つめている。


付喪神つくもがみですかね?」


 付喪神は九十九神とも書く。

 古くからの信仰で、百年を経た道具は魂を宿すので九十九年目で寺院などに預けて供養する風習からついた名だ。


「多分違う。この鏡からは人の念を感じるね」


 千鶴さん私の意見を否定すると銅鏡にそっと触れた。


「鏡は姿を映すことから、魂が宿りやすいんだ。天照大神あまてらすおおみかみの御神体として祀られてる八咫鏡やたのかがみなんてその例だね。

女性の姿が見えたっていう話だけど、『鏡は女の魂』なんていう諺があるぐらいで、特に女性にとっては重要な存在だからね。多分、その男の子が夢で見た女性がこの鏡に憑いている者の正体だろう」


 彼女は鏡を手に取り、箱から取り出すと机の上に置いた。 

 そして鏡に手を置き、深く息を吸った。


「どうするんですか?」


 兄が心配そうにその様子をうかがっている。


「降霊術を使います」


 降霊術とは主に占いを目的に亡者の霊を呼び出す儀式だ。

 古代のギリシャ、ローマなどにも記録があるが特に十九世紀末から二十世紀のアメリカで流行り、発明王トーマス・エジソンも降霊術に嵌まった一人だ。

 今回の場合、占いが目的ではない。

 死者とコンタクトを取るのを目的としている。


「高天原に神留坐す」


 千鶴さんがそっと祝詞を唱え、神経を集中させる。

 部屋の空気が変わった。


 鏡から靄のようなものが漂い出て、それはやがて形を成した。


 私も兄も「視える」程度の能力しか持っていない。

 よってその霊が何を語っているのかは全くわからない。

 私と兄にはその靄のようなものが人型で美しい女性のように見えたが、それ以上はなにも解らなかった。


 千鶴さんはぶつぶつと小声で何かを呟いている。

 我々にはそれが何かわからないが、霊とコミュニケーションをとっているのだろう。


 そのやり取りは十分ほど続いた。


「分かった。もうお眠り」


 千鶴さんが静かに告げると、靄は霧消した。

 彼女の顔は少し悲しそうに見えた。 


「天明君、ジャーナリストの調査能力で調べてもらえない?」

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