人を呪わば 後編

 深夜、私は荏原神社にほど近い目黒川沿いの路上で生臭坊主の父から借りたジャガーE-PACEの運転席に身を沈めていた。

 父曰く高級外車を乗り回すのも修行の一環らしい。

 ボディは漆黒で完全に日の落ち切った住宅街の暗闇に溶け込んでいた。


 すでに張り込み始めてから一時間以上経っている。

 私と助手席の千鶴さんはトイレに立つことすらなくじっと座っていた。


 真夏の熱気は深夜でも厳しい。

 冷房を付けたかったが冷房の音は千鶴さんにとって集中を乱すものらしく、妥協案として窓を全開にして川から吹き込む風に身をゆだねていた。


 冷房の音が駄目なら音楽も駄目だろう。

 映画を見るわけにもいかないので、私と千鶴さんは雑談に興じていた。

 しかし、悲しいかな一時間も経つと話題が尽きてしまった。


 いつもならば積極的に話題を持ち出す千鶴さんだが、意識の何割かを警戒割いているらしく今一つ会話が乗らなかった。


 私は沈黙の漂う虚空を探り、退屈しのぎの話題に――話題として適切かどうかは不明だが――千鶴さんに尋ねた。


「丑の刻参りについて詳しく教えてもらえませんか?」


 きっと彼女の思考の多くが丑の刻参りで占められていたのだろう。

 よく考えると、退屈しのぎの話題には不適切だが、今日この場においては適切な話題だった。

 千鶴さんはスラスラと話し始めた。


「丑の刻参りは呪う対象の髪の毛をいれた藁人形を使うけど、人形を使った呪詛は古今東西に存在する。日本だと古墳時代後期のころにはすでに記録があるし、ハイチやアメリカ南部で盛んなブードゥー教にも人形を使った呪詛の儀式がある。男の子の君にはあまり縁がないだろうけど、ひな人形ももとは呪詛の一種だ。上巳じょうしの祓と言ってね。自分の身に降りかかる災難を形代に移らせて川に流したのがひな祭りの原型で、今でも『流し雛』という民俗行事として残っているよ」


 彼女は一度息継ぎをして続けた。


「あの女の子が不運な目撃をしてしまった荏原神社はもともと品川貴船社、丑の刻参りで知られる京都の貴船神社から勧請かんじょうされたお社だ。だから私は最初、相手は伝統的な術者なのかと思っていたけど……君ももう理解したと思うけど違うようだね」


 成程、それが今日の時間が許す限りの入念な調査の理由だったわけだ。

 慎重な千鶴さんは相手が年季の入ったオーセンティックな術者か素人に毛が生えたレベルか決めかねていたのだ。


「そしてここから先が最も肝心なところだ」


 私は街頭に照らされた千鶴さんの顔を注視した。

 彼女の眼差しは真剣そのものだった。 


「丑の刻参りは儀式の現場を目撃されると効果が無くなるどころか、呪いの念が自分自身に返ってきてしまう。『人を呪わば穴二つ』という諺は本来、『他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺されることになるので、墓穴が二つ必要になる』という意味だけど、まさにこの状況そのものだね。」


 私は「それが目撃者を殺さなければならない理由ですか?」という阿呆のような相槌を打とうとした。

 私が発言のために息継ぎすると、千鶴さんは口の前にさっと人差し指を立てて制した。


「来た」


 何が来たのかは言うまでもない。

 彼女は懐から紙でできた何かを取り出した。


 千鶴さんは備えをしていた。

 彼女の手に握られているのは形代かたしろ、人の形に見せて作った紙の人形だ。

 人形には不運な目撃者である桟原結衣の氏名と生年月日が書かれており、人形の中には昼間、千鶴さんが少女の脱いだキャップからこっそり拝借した髪の毛が入っている。(帽子を脱ぐように促したのはそのためだった。抜け目がない)

 この人形は少女の身代わりであり、呪いの受信機だ。

 形代が呪いを受け止めている間、その呪いから千鶴さんは呪いの発信元をトレースできる。


「どうです?千鶴さん」

「感度良好。バッチリだ。残念ながら敵は荏原神社に在りじゃない。

指示するから運転を頼む。安全運転でお願いね」


  〇


 北品川の路上から車を走らせ10分弱。

 「ここで止めて」という千鶴さんの指示で、大井町の隣二葉町付近の路上で私はジャガーを停車させた。


 事前の調べでこのほど近くに二か所の神社があることが分かっている。


「どっちですか?」

「西だね」


 私は張り込み前に徹底的に頭に叩き込んだ地図を反芻した。


「こっちです」


 千鶴さんは魔力のトレースに何割かの意識を持っていかれている。 

 私は彼女が迷わないように声をかけながら、真夜中の住宅街を駆けた。


 低層階の集合住宅を抜け、都心ならではの狭い道を歩くと石塀で囲まれた建物と鳥居が見える。

 下神明天祖しもしんめいてんそ神社は樹齢六百年のご神木がある。

 間違いない、犯人の目的はそこだ。


 静まり返った深夜の住宅街。

 よく耳を澄ませると、何か硬いものを打ち付けるような音がする。

 そして、感覚を研ぎ澄ませると……空気に混ざって禍々しい何か、怨念とでも形容すべきものが漂ってくるのを感じる。


 鳥居をくぐり、二対の狛犬の間を通り、ご神木であるかやの大木に向かう。

 音が近くなってくる。

 禍々しい何かも近づいてくる。


 そして、「それ」は居た。


 「それ」は人間だった。

 女性で、私の一回り上ぐらいの年頃に見えた。

 顔を真っ赤に塗りたくり、頭に五徳をかぶって松明を灯し、一心不乱に藁人形に五寸釘を打ち付けていた。


 私と千鶴さんは彼女の近くに立った。

 立って「それ」を見た。

 しかし、「それ」は私たちを見なかった。

 手を止めず、止める気配すらなかった。


 私はどうしていいかわからなかった。

 「それ」は人間だったが人間に見えなかった。

 人種が違うとか、言葉が通じないとかそういうレベルのものではない。

 人としてあるべき理性や人間性が感じられなかった。


 私は何も言えず、ただ「カンカン」という釘を打ち付ける音だけが響いていた。


「呪術で人を殺しても殺人罪に問われない」


 隣から声がした。

 それが千鶴さんの声だと認識するまで数秒を要した。


「殺人の立証に必要な『凶器』の存在が証明できないからだ。君がやってることは殺人罪には該当しない。でも殺人だ」


 「それ」は何も変わらなかった。

 ただ一心不乱に槌を振り上げ、振り下ろすだけだった。


 私は何か言わなければと思い、思考を巡らせた。

 丑の刻参りが不法侵入罪、器物破損罪に相当し、少女への脅迫罪も成立するという法解釈を口にしようかと思ったがあまりにも馬鹿げているので思いとどまった。


「呪いは解呪できる」


 千鶴さんが言った。

 「それ」の手がピタリと止まった。

 千鶴さんはさらに続けた。 


「私は結構腕のいい術者だよ。君が無辜の少女にかけようとしていると呪いと、君に跳ね返ろうとしている呪い……雁字搦めで厄介かもしれないけど両方何とかしてみよう。だから少し手を止めて、私の話を聞いてくれないかな?」


 沈黙が真夜中の境内を支配した。

 私は固唾を飲んだ。


 幾らかの時間が経った。

 沈黙を破ったのは「カンカン」という乾いた音だった。


 私は千鶴さんを見た。

 彼女は目を閉じ、苦悶を目尻に浮かばせていた。


 そして、先ほどの型代を手にして呪文のような何かを唱えた。

 その言葉は風に乗って夜闇に消えた。


  ○


 千鶴さんはジャガーの後部座席で目を閉じて沈黙していた。

 眠っているのか瞑想しているのか判別不可能だが、話しかけるべきではないだろう。


 運転席でヒュームさんがハンドルを握っている。

 助手席には私が収まっている。

 

 千鶴さんが唱えたのは呪い返しの呪文だった。

 その短い文句ですべてが終わった。


 千鶴さんはヒュームさんに電話し、限りなくビジネスライクに状況を伝えるときっかり三十分でヒュームさんが駆け付けた。

 彼は動かなくなった「それ」を検めると、被害者少女の状況確認をするので済み次第報酬を払う旨を告げた。

 ヒュームさんはどこかに電話し、制服を着た二人組の警察官が駆け付けた。

 彼は二人組の年配の方に一言、二言に告げると「帰りましょう」と告げて、自ら運転手を買って出た。 


 車は狭く入り組んだ住宅街を抜け、幹線道路に差し掛かった。

 眠らない大都市は車が行き交い、深夜営業の店が煌々と明かりを灯している。


 私とミスター・ヒュームは会話を交わしていた。

 主に私の疑問に彼が答える形だ。 


 彼は「それ」について調べていた。

 過去に寄せられた品川エリアの神社への不法侵入事件の記録と、女の年代・背格好からその素性にはあたりがついていた。


 「それ」はごく普通の会社員だった。

 大卒で三十代で独身で一人暮らしで、都内の建設会社で派遣の事務をしている。

 「普通」が字面上に浮かんできそうな経歴だ。


 ただ一つ異常なのは、派遣先が変わるたびにその派遣先で誰かが死んでいることだ。


「きっと最初はほんの冗談で、ちょっとした気晴らしのつもりだったのでしょうね。

身近に気に入らない人間がいて、それで試しに呪いの儀式をやってみた」


 ヒュームさんは言った。


「今回の件でお分かりと思いますが、呪いの儀式というのは素人でも成功してしまう場合があります。……それで、彼女は味を占めてしまった。その先は真っ逆さまです」


 ジャガーのヘッドライトが道路を照らしている。

 目線の先に見える標識がここはまだ品川区であることを示していた。


「彼女はどこでおかしくなってしまったんでしょうか?」


 私は尋ねた。


「僕にはもう、彼女が人間には見えませんでした。まるで怨霊そのもののように見えました。彼女はどの時点であれほどまでに誤ってしまったんでしょうか?」


 彼は言った。


「人を殺した時点で、ですよ」


 時計は深夜二時過ぎを指している。

 帰宅するころには何時になっているだろうか、と私は思った。

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