憑き物落ちる 後編
「憑き物だね」
私が大まかな事象を説明すると、風宮千鶴は静かに答えた。
「憑き物……ですか?」
我ながら阿呆のような相槌だと思った。
「無念を残して亡くなった死者、邪悪な意志の持ち主、生前から力があった人間。
そういうものは成仏することなく留まり続ける。場合によって悪霊と化して害を成す。その典型例が憑き物だ。それらを使役して任意の誰かに憑かせる場合もあるけど、今回は自然発生的なものだろうね」
彼女は淀みなく話した。
「西洋の思想にあるだろう?生前に悪を成した人間は悪魔になるって。
1970年代にドイツでアンネリーゼ・ミシェルという女性が悪魔に憑かれた事件を知ってるかな?」
私は頭を振った。
「彼女は勉強したこともないラテン語を話すなど、科学で説明のつかない現象を起こしたことで悪魔憑きと認められた。
エクソシズムの儀式はまず、悪魔に名前を言わせることから始まるけど彼女には複数の悪魔がとり憑いていたそうだ。
……ちょっと待ってね」
彼女はソファを立ちあがると本棚の前にいき一冊の書物をめくり始めた。
『暗号解読』『代替医療解剖』『イギリス・ルネッサンス詩集』『マネー・ボール』『宇治拾遺物語』『遠野物語』『シャーロック・ホームズの冒険』『世界最高のクラシック』『ブリティッシュ・ロックの名盤100: 60~70年代編』
『ウォッチメン』『地球の歩き方』『世界ビール大全』雑多なファッション誌やビジネス誌。
本棚の書物にはまるで統一性が無かった。
統一性の無さが彼女という人物を物語っているように私は感じた。
「ああ、これだ。彼女に憑り付いていた悪魔は六体。
ルシフェル、カイン、ユダ、ネロ、ヴァレンティン・フライシュマン、アドルフ・ヒトラー。錚々たる面々だね」
私は尋ねた。
「そのアンネリーゼという女性はどうなったんですか?」
彼女はあっさり答えた。
「エクソシズムの一年後に衰弱死した」
私は面食らった。
そのような物騒なことを飄々と口にするこの人物はどういう人物なのだろうか。
思わず顔が強張る。
「そんなに怖い顔をしないでよ。同じ結末を辿らないように私が居るんだ」
彼女はやはり飄々と答えた。
〇
「いいかい、天明くん。憑き物を落とす際に二つ注意がある。優先順位はどちらも一番目だ」
彼女の元に相談に訪れた数日後。
「準備が完了した」という彼女の連絡を受けて、憑き物の少女のところに向かった。
現場は蒲田にあるごく普通の一軒家だ。
駅から徒歩十分。
蒲田名物の羽根つき餃子ののぼりが立ち並ぶ商店街を通り過ぎてゆく。
神官の服装でもしてくるかと思ったが、彼女は丸の内の会社員のようなごく普通の格好だった。
私は彼女に答えた。
「はい。風宮さん」
「その名前、語呂悪いし呼び辛いでしょ?一応親せきなんだし、千鶴さんでいいよ」
「ああ……はい。では、千鶴さん」
男だらけの家系に育ったせいか、ほぼ初対面に近い若い女性を名前で呼ぶのは面映ゆい気持ちだった。
「私は祓い屋を職業にしてる」
我々のような「視える」人間の中でも特に神秘の世界の出来事に積極的にかかわり、解決することを仕事としている人種を「術師」とか「魔術師」と呼ぶこともある。国や地域によってそれは異なり、わが国では伝統的に「祓い屋」と呼ばれる。彼女は公的な機関に認められた職業的な祓い屋だ。
「君も何となく知っているとは思うけど、祓い屋には可能な限り隠密に仕事を完遂する義務がある。二十一世紀にもなって幽霊や妖魔が表に出たら色々都合が悪いからね。憑き物が落ちて彼女が助かってもそれはお祓いの効果ではないと両親に思わせる必要がある。彼女が治ったら『これは
私は「はい」と答えた。
「よし。では、第二に……気を強く持って欲しい。
悪魔、悪霊と呼ばれる存在は心の不安定さにつけ込む。
私が何をしても動じない……いや、動じていないように振舞って欲しい」
私はやはり「はい」と答えた。
件の家を訪れ、中に通された。
この家の両親は共働きだが、娘のことは当然心配なのだろう。
平日だが、母親の方が仕事を休んで立ち会ってくれた。
千鶴さんは母親に「神社生まれのセラピストです」と身分を名乗った。
「お母さま」
彼女は説明を始めた。
「これはあくまでも娘さんがオカルトに傾倒した結果の思い込みであり、
これから行うことは思春期特有の極端な思い込みを解消するためのものです。
私がやっていることは医学とも科学とも呼べない代物です。
仮に娘さんが今日の儀式をきっかけに治ったとしても必ず医療機関を受診してください。話を聞く限り、娘さんの症状は癲癇の可能性があります」
母親は黙って彼女の話を聞いていた。
「いいですね?」
千鶴さんの念押しに母親は強く頷いた。
〇
我々は憑かれた少女の部屋の前まで案内された。
母親の話では少女は症状の悪化でここ数日は引きこもっており、そろそろ学校の担任が訪問に来ることになっているという。
「必要な儀式を行っているということに信憑性を持たせたいので、我々だけにしていただけますか?」
千鶴さんの要請に母親は渋々首を縦に振り、我々に部屋の鍵を渡した。
母親が去ったのを確認すると、彼女はショルダーバッグから銀色のスキットルを取り出した。
「口噛み酒が入ってる。巫女の唾液で発酵させた神事に使われるものだ。
伊勢の実家に頼んで定期的に分けてもらっている。
巫女は穢れの無い存在だからね。邪を祓う効果がある。
私は俗世に漬かりすぎて穢れてるから、悔しいけど自分では作れない」
「そういうものなのか」と私は思った。
「なぜウィスキー用のスキットルに入れているんですか?」
私は聞いた。
「このスキットルは純銀製だ。銀は祝福された物質だからね。邪を祓う効果がある」
「西洋のエクソシストみたいですね」
「私の術は東洋と西洋のちゃんぽんだ。効果があるのならばこだわる必要などないだろう?」
そこまで言うと、彼女は鍵を開け、静かにドアを開けた。
私は彼女に続いて部屋に入り、後ろ手で静かにドアを閉めた施錠した。
少女はベッドに座り込み、こちらを睨んだ。
禍々しい姿だった。
碌に食事を摂っていないのだろう。
ノースリーブから見える腕は細くなり、背中まで伸びた髪は廃屋の雑草のようにボサボサだった。
こちらを睨んだ少女は声にならない唸り声をあげた。
唸り声に千鶴さんは答えた。
「……そうか。怖がらなくていい。今、楽にしてあげるからね」
少女は一層強い唸り声を発した。
千鶴さんは手に持ったスキットルの蓋を開け、驚くほど俊敏な動作で中身を少女にぶちまけた。
少女の体から靄のようなものが吹きあがった。
「天明くん!彼女の肩を押さえて」
私はとっさに少女に駆け寄り、両肩を押さえてベッドに押し付けた。
少女が私の腕を押し返してくる。
どこからこんな力が出てくるのだろうか。
千鶴さんは少女に駆け寄ると少女の額に右手の人差し指と中指をあて、払うような動作をした。
少女の体から、黒い靄のようなものが沸き上がってくる。
彼女はさらに少女の頭に手をおき、唱え始めた。
「
少女がうめき声をあげ、体から湧き上がる黒い靄はさらに大きくなる。
「
詠唱が終わると、少女の体から出た靄は人のような形になっていた。
私にはそれは小さな子供のように見えた。
それが私が始めた見た「祓う」瞬間だった。
それだけでも驚きだったが、次に千鶴さんが取った行動はさらに私を驚かせた。
彼女は、その小さな人型のような靄をそっと抱きしめたのだ。
「痛かっただろう?熱かっただろうね」
彼女は優しく囁いた。
「もう誰も君の事を傷つけたりなどしないよ。
君の苦しみはもう終わったんだ」
黒い靄は薄くなり始めていた。
「さあ、もうお行き。ここに居ては行けないよ」
彼女の言葉の後、黒い靄は霧散した。
部屋には私と千鶴さん、そして穏やかな顔で健康そうな寝息をたてる少女だけが残った。
私は何かが自分の頬を濡らしていることに気づいた。
口元を通り過ぎた液体は仄かな塩味だった。
それが自分の涙だと気づいたの数秒先のことだった。
〇
「少女の霊だ」
依頼人の家を辞去した我々は谷中まで戻り、クラシカルな装いの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
母親は娘が嘘のように元に戻ったことに驚き、恭しく我々に例を述べた。
一封を我々に渡そうとしたが、千鶴さんはそれを固辞した。
彼女曰く、「前準備の段階で管理団体である祓い屋協会に連絡して正式な仕事にしてもらった」とのことで、検分の後に正式な契約に則って報酬が出るらしい。
「大した事件じゃなかったから額面もそれ相応だけど君にもお裾分けだね」とさらに付け加えた。
私は儀式の時の涙の理由――悲しみ、痛み、苦しみは一体何だったのか――を彼女に問うた。
千鶴さんは短く答えるとさらに補足した。
「準備段階で調べた。あの家の近所で事件があったんだ。
アル中の母親が泥酔した挙句、誤って子供を風呂で溺れさせ、温めようとして電子レンジに放り込んだ事件だ。父親はろくでなしでとっくに失踪。幼子一人抱えた身で母親は相当なプレッシャーだっただろうね。もともとネグレクトの疑いがあり、通報を受けた児童相談センターの職員が訪問の予定だった。事件が起きてしまったのは訪問の直前だ」
彼女は一息置き、コーヒーを含んだ。
そして続けた。
「憑かれた子は、一人っ子で両親は共働きで遅くまで帰ってこないことが多いそうだね。まだ中学に上がる前の女の子だ。寂しかっただろうね。そこに『共感』が生じてしまったんだ」
私は何も言えなかった。
「しかし、泣くなんて君も青いな」
彼女は笑った。
私は思わず語気を強めた。
「何が悪いんですか?」
私はムキになった。
千鶴さんの正確な年齢は知らないが三十歳ぐらいらしい。
年上は年上だが、二十代半ばの青年にとってそれほど明確に「目上」と言えるほどの存在でもない。それでつい子供のような反応をしてしまった。
私がムキになるのと対照的に彼女は静かに答えた。
「いや、いいと思う。――いいかい、私たち術者は生まれた時点で少し……ほんのちょっとばかりだが普通じゃない。マトモでいる為にもそういう気持ちは大事だよ。
少なくとも私はそう思う」
近頃日が長くなっていた。
夕刻に差し掛かるが日はまだ高かった。
にも関わらず、私は微かな寒気を覚えていた。
この世界には人知れない闇がまだあるのだろう。
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