第14話

 腹の虫が鳴き始めた頃、沢遊びを一旦区切り、昼休憩となった。

「店長ー。お箸とってください」

「はいはい」

 沢に興奮した咲ちゃんは、いきなりエンジン全開で既に疲れているようで、店長が甲斐甲斐しく世話をしている。

重箱に詰められたおかずや握り飯は誰かの手製らしい。小学校の運動会で家族で囲む弁当のように豪勢だ。

「どうですか?」

 渡辺さんはおかずを咲ちゃんや僕に取り分けたり、飲み物を配ったりしていて、まだ食事に手をつけていない。

「普通に美味しいです」

萎びた海苔に巻かれた少し歪な三角の握り飯は、いい塩梅の塩加減で、母の作る握り飯を思い出させた。

「……そうですか」

「香織さん! おにぎり取ってください」

体が疲れていても食欲は旺盛なようで、咲ちゃんが腕を伸ばし、僕と渡辺さんの間に割って入る。

「咲は梅が苦手なので、その他でお願いします」

図々しくも更に注文をつけている。僕が食べた握り飯は、甘酸っぱい梅干しが種無しで入っていた。


 四人で重箱をたいらげ、満腹感に浸っている中、渡辺さんは開始同様、几帳面にてきぱきと片付けをこなす。店長が手を貸そうと言おうにも、私がやるんで休んでいてくださいと一蹴されていた。その間動かず充電していた咲ちゃんは完全復活を果たし、遊びたい欲求が戻ってきたらしく、落ち着きなく渡辺さんの周りをうろつき始める。

「咲ちゃん。あっちでスイカ冷やそう?」

「はい!行きます」

 片付けに一段落ついた渡辺さんが、見かねて咲ちゃんを連れ出す。咲ちゃんは、彼女の言葉に、一度その場で跳ねて、嬉しそうにかけていく。二人で網に入った大きなスイカを掲げ、上流を目指す。二人寄り添う後ろ姿は仲良し姉妹のそれである。

「千埼さん。ありがとうございます」

 二人を見送ってから店長がこちらに向き、姿勢を正し改まって頭を下げる。

「咲ちゃんが最近また何か言ってたみたいで。迷惑かけました。今回も急でしたし」

「いや、そんな迷惑だなんて」

「本当に、思いついたら即行動なんです。あの子は」

 咲ちゃんの行動に対して店長はいつも苦笑しているが、その目には大抵優し気な色が見える。子を見守る親とも違う親愛の情があるのだろう。

「咲ちゃんは、多分間違ったこと言ってないので。むしろ、感謝しています」

「そう言ってもらえるなら良かったです。ただ、まあもう少しは自重させますけどね」

ニヤリと笑う店長の顔は、咲ちゃんのような無邪気さと陽気さを含んでいる。

「お弁当は香織さんが作ってくれたんですよ」

「そうなんですね」

てっきり店長お手製かと思っていた。

「意外にまめなんですよ、彼女」

握り飯もおかずもどれも手の込んだもので、あれだけの量を作るのに、結構な時間がかかったのではなかろうか。

「僕は来る予定でなかったのに、足りてよかったです」

むしろ僕がいなければ、三人の腹は満腹どころではない量があった。店長は少し微妙な顔をして、あーっと唸る。

「実は千崎さんを誘うことは事前に決まっていたようで……」

申し訳なさそうに頭を掻いた。

「俺には内緒で、二人で決めてたらしいんです」

何か企んでいることは分かっていたが、ギリギリまで白状させられなく、店長も当日知ったらしい。だから、あの重箱は始めからきっちり四人前ということだ。

「急に『スペシャルゲストをお呼びしまーす』って。困っちゃいますよね」

「いや、良かったです。とても気持ちが良いので」

「ありがとうございます」

何度も感謝されるようなことは何もしていないのだが、店長は僕に対していやに腰が低い。

「ここは空気が澄んでいますね」

 周囲に視線を巡らせる店長にならう。流れる水面。湿り苔むした岩。天高くそびえ立つ木。真っ青の空。そしてまた透明純度の水。目を閉じると水の流れる音だけが、耳の中にこだまする。せせらぎというには重低音で、沢と言えど多量の水がせめぎ合い、下流へ我先にと流れていく。

「香織さんと何かあったんですか?」

 店長の問いかけに、自然に溶け込もうとしていた体が現実へ呼び戻された。目の前にはただ何の変化もなく沢が流れている。

何もなかったと言うと語弊があるが、かといって何かあったと言えるほどの出来事はない。答えあぐねていると店長が早目の助け船を出してくれた。

「香織さんのことが少し心配なんです」

店長は咲ちゃんに見せる顔とはまた別の顔で、渡辺さんに思いを寄せる。

「実は香織さんは従兄弟でして、小さい頃から知ってるんですよ」

その言葉で、店長の態度に妙に納得がいく気がした。

「少し前にいざこざがあって。塞ぎこんでいた時期が暫くあったんです」

咲ちゃんもそうだが、渡辺さんの事になると皆急に口が軽くなる。それが逆に、本人からは絶対に個人情報を得ることができないことを証明しているようだ。

「咲ちゃんからそう聞きました」

「本当に手が付けられないほど、荒れていたんです」

 咲ちゃんさえも自分よりじゃじゃ馬だったと呈するのだから、相当渡辺さんは参っていたのだろう。

「だから、千崎さんと楽しそうに飲んでるのを見て驚いたんです」

 咲ちゃんが言ったことをまるっと同じように店長は言う。まるで僕が彼女を救ったかのように。どういう解釈をすればそうなるのかは、僕には一生理解することはできないだろう。

「やっと会えたのかなと。年甲斐もなく思ってしまいました」

「いや、そんな……」

強く否定することも、その通りですと肯定することも出来ない。しかし、店長は更に首を降り、自身の発言の正当性を主張する。

「卑下しないで。千崎さんは香織さんにとって唯一無二なのだから」

 突拍子もない、現実味もない店長の発言は、社交辞令にしては大袈裟で、冗談にしては面白くない。

揺れる水面に浮かぶアメンボは難なく水の上を進む。僕は言葉の波に今にも沈みそうだ。

「頭で考えるだけでは伝わらないって本当ですよね」

店長は僕が溺れそうになっていることに

気付いたようで、語りかけから語り流しに変更した。僕の反応を気にせず、落とされる言葉にただ耳を傾ける。

「分かってるつもりなんですけど。俺も咲ちゃんによく注意されます。ちゃんと言ってと」

 青色のトンボが通り過ぎる。細い体つきで赤い翅を一対持ち、普段見る種類より洗練された雰囲気を纏っている。

「年を取るとそれを自然としなくなるのは、何でかな?」

 対岸に青色の蝶がとまっている。羽をゆっくりと動かす様が、時の流れが穏やかであることを教えるてくれる。ここに生きるものはどれも見目麗しく、見たことがないものが多い。空気が綺麗だと、綺麗な生き物が生まれるというのは本当なのかもしれない。

「咲ちゃんがその都度言葉足らずを指摘してくれるので、事なきを得ているんですけど」

 咲ちゃんは本当に真っ直ぐで、店長はそれを分かっている。その関係は誠実で、多くの人が望むものだろう。

「千埼さんと香織さんもどちらも少し言葉不足ですかね」

僕と彼女の関係は何だ。 

「俺が口を挟むことではないんですが、咲ちゃんの影響を色濃く受けてますので。もちろん、心配しているのは本当ですからね」

 一気に言いつのって僕を見据える。

「はい」

 すいませんと続けようとして、口を閉じる。

「あ、ありがとうございます。……迷惑掛けました」

 言葉を発した途端、顔へ熱が集まるのが分かった。直接相手の顔を見ることも叶わず、目線は組んだ足に落ちていく。尻すぼみになる言葉を店長は逃すことなく掬い上げた。

「いえ。二人でちゃんと話した方が後悔がないと思いますよ」

 店長が笑い片手を小さく振ると、張り詰めていた緊張が緩む。彼は穏やかに訴え、咲ちゃんのように、ただでくの坊を揺すっていた。

「そうで、」

「おーい! お二人さーん。こっちこっち」

 上流の方へ行ったはずの咲ちゃんがこちらに戻ってきて叫ぶ。

「行きましょう」

 店長が腰を上げて歩き出す。僕の言葉は宙に浮いて流れて、どこかへ泳いでいった。


 二人は冷やすはずのスイカを持ったまま、滝の前で立ち尽くしていた。水音は激しさをまし、白波を立ててうねり、体を涼めるどころか冷やしにかかってくる。半袖では肌寒く思わず腕を擦った。

 水は何十メートルも上から落ち、白い水飛沫を上げている。その飛沫は宙を舞い、木漏れ日を受けて光りながら、雪のようにゆっくりと落ちていく。

「ああ」

 誰かの口から感嘆の息が漏れた。滝を囲む地形は、地層のような断面がそびえ立ち、その上部よりも水が少しずつ零れ落ちてきている。よく見ると断面全体にも水が流れているようで、所々に薄茶色のつららのようなものが形成されていた。

 この空間に立ち込める霧が僕らを包み込み、暫しの思考を停止させる。

「ねっ! すごいでしょ」

 その無言の圧力をいち早く解いた咲ちゃんが、得意げに僕たちに見せびらかす。

「そうだね」

 店長は腰に手を当てて頷く。

「……」

 渡辺さんは少し口を開け、まだ呆然と滝を見つめている。滝の存在感が僕を圧倒し、冷えて澄み渡った空気が、焦る気持ちを落ち着かせる気がした。

 ずっと意識しないようにしていたざわめいている『何か』が鳴りを潜め、僕が腹に手を添えると心臓が鼓動し、生を主張する。

「神秘的ってこうゆうのかな」

 自然と言葉が口を出る。

「そうですね」

 少しびっくりした様子で、現実に引き戻された渡辺さんが返事をしてくれる。

「心あらわれますね」

 心現れる、まさにその通りだと感じる。僕はそれを感じる。

「そうですね。あらわれた気がします」

渡辺さんはもう一度頷いて、滝を見上げた。

「スイカ割りしますよー」

 咲ちゃんの言葉にハッとする。僕は滝の近くにいる渡辺さんを見ていた。神秘的だと思う心に不純があったかもしれない。

咲ちゃんは僕らの言動などお構いなしに、反応も気にせず「先戻っちゃいますよー」と簡単に一言添えてスイカを抱え、荷物の方へ走って行ってしまった。それに笑いながらついていく店長。

 僕は彼女見て、彼女が僕を見る。

「僕たちも行きましょうか」

 ごうごうと荒ぶるような滝でさえ、僕の背中を押しているような気がする。


 荷物の所まで戻ってくると、図ったようにポツポツと雨が降り出した。

 結局スイカ割は出来ず仕舞いで、その後沢でも遊べなかったのが心残りなのか、咲ちゃんは駄々をこね出した。

「ほんと、もう最悪」

「結構暗くなってきたし。山は天気が変わりやすいって言うから」

 店長が必死に宥めるも、片付けをしながらずっと文句を並べている。

「咲ちゃん。私、この後お店で飲んでくよ」

「え! 本当ですか!」

 渡辺さんの一言で急にやる気が出たらしく、咲ちゃんは僕に片付けの指示を出し始める。まさに鶴の一声である。咲ちゃんは単純が売りなのだ。

「千崎さん。これを持ってください! あ。こっちも」

「はいはい」

「はいは、一回!」

 咲ちゃんの笑顔は枯れることを知らないが、やはり名残惜しいのか、滝があった方向を見て、沢辺にある石を蹴る。

「また、来たらいいじゃないですか」

 つい出た言葉に、咲ちゃんは口を大きく開け、驚いていますを全身で表した。来たかったら、また来ればいい、それだけだろうに。他二名も同様な空気を纏っているため、僕は逆に呆然とした。

「千崎さーん!」

 何故か満面の笑みで咲ちゃんが急接近してくるので自然と逃げ腰になる。

「千崎さん!」

 両手を握って何故か名前を連呼される。がっちり握られた手に、逃げる隙を与えてくれない。

「千埼さん! そーですよね! そーですよね!」

 そして、そのまま「うん、うん」と頷いて僕を一緒に揺らす。脳みそまで揺れて、世界がガタガタ震えた。

「雨が強くなりそうですね。急ぎましょう」

 見かねた店長の掛け声で、咲ちゃんがやっと離れ、揺れが収まる。

「千崎さん。みんなでまた来ましょうね」

 咲ちゃんはウィンクを足し、嬉しそうにそう言うと、リュックを背負ってまた先頭に立つ。

濡れて滑りやすくなった岩場を慎重に歩いていると、木々の間から暗い空が時より見える。出来るだけ急いで戻った方が良さそうだ。

車に戻ると急いで荷物を乗せ、すぐ出発する。数分後には窓を叩きつける雨が勢いをました。

「結構降ってきましたね」

「危なかったですねー。降られなくて良かったー」

 緩やかに力強く流れていた沢は、その顔色を替え激流となって地面を削り、あの景色も次来たときには違うものになっているのだろうか。ずっと変わらず同じであることなどあり得ない。刻一刻と移り変わっていくからこそ、その一瞬がかけがえのないものになるのだろう。

 口を手で押えるのに間に合わなかったのか、くしゅんっと隣から盛大な音が聞こえた。そちらを見ると渡辺さんが恥ずかしげに口許を押さえている。

「寒いですか?」

「大丈夫です」

 彼女はもう一度くしゃみをしながら店長に答えている。沢で十分冷やした体に雨をしこたま浴びたのだ。芯まで冷えているだろう。しかし、それを彼女が口に出すことはない、

「少し濡れたし、肌寒いですね」

「そうですよお。寒ーい! 店長どうにかしてー」

「ちょっと暖房入れますか?」

「お願いします」

「……」

 隣から鋭い視線を感じるが、僕が寒かっただけなので、ここは無視を決め込む。肌に心地いい温かさの風が当たる。疲れた身体には余計効くらしく、隣からほっと息の抜ける音がした。やっぱり寒かったのだ。

今度はチラリと目線を送ると「何ですか?」と睨まれ、前に座る二人の笑い声を誘う。それがますます渡辺さんをふくれっ面にした。

 ワイパーが右へ左へ動いては雨を拭い、また雨に打たれ視界が遮られる。雨の中のドライブも車内が暗くなることはない。

「今日はおごりますので、弱まるまで店で飲んでいってください。身体も温まりますし」

 ご厚意甘えっぱなしだという気もするが、その店長の提案に、僕は驚くほどあっさりと同意した。今日くらいは素直に受け取ることもいいかもしれない。大喜びの咲ちゃんに、また名前を連呼された。

 店に着く頃には、雨は更に激しさを増し、咲ちゃんと渡辺さんは足早に車を降りて店内へ駆け込む。

「荷物は雨がやんでから出すので大丈夫ですよ」

 降りるのを躊躇っていと店長が声を掛けてくれる。至れり尽くせりで申し訳ない。

「じゃあ、先行ってます」

 手を掲げ視界を確保しながら雨の中を走る。大した距離もないのにずぶ濡れだ。せっかく乾いたズボンがまたじっとりと重くなる。

 開け放たれた店の入り口から中へ入ると、ふわりと頭にタオルが掛けられ、視界が奪われた。

「香織さん。犬みたいにやっちゃってください」

 面白がっている咲ちゃんが不穏なことを言う。近づいてくる気配が、頭上のタオルに触れた。

「えーっと。よーしよしよし?」

 戸惑いがちに置かれた手はだんだんと積極的に動き、終いにはガシガシと頭を拭かれる。少し痛いし、これは何だろうか。

頭に乗せられた気配が遠のいていく。その気配の後を追うように、タオルの中から顔を出すと、彼女の顔が思いの外近くにある。

「わっ!」

「何で千埼さんが驚いてるんですかー。普通逆ですよ、逆!」

 咲ちゃんから盛大なブーイングが起こる。そう言われても、条件反射は許してほしい。

「ちょっと、咲ちゃん手伝って」

 いつの間にか厨房に回っている店長が咲ちゃんを呼ぶ。

「二人も掛けて」

「はい」

 いつもの端の席に座ろうとして、折角だからと真ん中の席、店長の真ん前に座ると、彼は嬉しそうに笑った。

 渡辺さんは傍までは来たのに、そこから石像のように突っ立ったまま動かない。少し日焼けで赤くなった腕を引く。

「よかったらここ座ってください」

 彼女は目を伏せ、そのまま僕の隣へ腰を下ろした。

「お腹は減ってないと思いますけど、取り合えずビールにします? それとも熱燗?」

「じゃあ、ビールで」

「私も」

「咲も!」

 手伝っていたはずの咲ちゃんが、いつの間にか渡辺さんの隣に座っている。

「どうせこの雨じゃお客さん来ないでしょー。たまにはいいでしょ?」

小首を傾げる咲ちゃんに、店長は同意を示し、どうせなら呑んでしまおうと開き直ったようで、ジョッキをそれぞれに配ると自身の分もよそいだした。

「いただきます」

「ちょっと、待ったー」

ジョッキに口をつけ、至福の喉ごしに、うつつを抜かさんとした時、咲ちゃんの制止が入る。そのままの状態で停止すると、咲ちゃんが僕を睨んだ。

「そこは乾杯でしょ!」

 渡辺さんの前を通して僕を指さす。

「そういうとこですよ」

「はあ、すいません」

僕の気のない謝罪には目もくれず、咲ちゃんは楽しげに続ける。

「はい、かんぱーい」

「はい、乾杯」

 カチンと一方的にジョッキを当てられ、危うくこぼしそうになった。笑いながら店長も厨房の方からぶつけてくる。

「ほらほら」

 咲ちゃんに急かされ、僕と渡辺さんは目を合わた。

「はい、お疲れ様です」

 彼女のジョッキにカツンと当てると、小さく「お疲れ様です」と返してくれる。その向こう側で、「何で乾杯じゃないのー」と咲ちゃんが喚いていた。

 頬が緩んでいくのが分かる。きっと嬉しいんだと思う。隣に彼女がいて、店長と咲ちゃんがいて、この雰囲気が好きであると。答えは単純だが、深く複雑な迷路の先にあった。入り組み過ぎていて、実は入り口の近くにあったなど、結局は辿り着くまで分かりはしないのだ。ならば、さ迷いこじれながらも『何か』をかえたいと思う心を、僕は燃やし続けなければならないだろう。

渡辺さんの顔が赤く色づいていくのを見ながら、僕は緩んだ頬を締めることができないでいる。


 咲ちゃんが店の外の様子を見に戸を開けた時うっすらと見えた空は、随分暗くなっていた。それは雨雲のせいだけではないだろう。

「雨、ほとんど降ってないですよ」

 オッケーサインを掲げ、帰宅可能の旨を伝える。

「そろそろ、帰りますか?」

週末最後の休日は早期帰宅が望ましい。

「じゃあ、そろそろ。今日は本当にありがとうございました」

 車で家まで送っていくという店長の申し出を丁重に断り、少し浮わついた足取りで出口へ向かう。

「あ、私も帰ります」

 戸に手をかけ、雨上がりの匂いが鼻を掠めた時、渡辺さんが慌てて動き出したのを背中に感じる。

「香織さんも帰っちゃうんですか?」

「明日仕事だし。朝早いから」

「それじゃあ。仕方ないですね」

あっさりと引き下がる咲ちゃんから、よからぬ思惑を感じる。

「多少は降ってるんで傘貸しますよー」

柄に大きく店名が印刷され、盗難防止された傘を渡辺さんへ差し出す。僕へは差し出されない傘に、咲ちゃんを見ると「一本で終わりです」とヘラりと笑った。小雨になったといえど、家に着くまでにはずぶ濡れになるだろう。

「咲ちゃん、千崎さん困ってますよ」

店長の助け船がすかさず入るが、咲ちゃんはものともせず言い募る。

「ここは相合い傘でしょーに!」

咲ちゃんの主張は反対多数で否決し、店長から僕も傘を受けとる。

「二、三日中に必ず返しに来ます」

「いつでもいいですから」

 店長の丁寧な返しとは対照的に、咲ちゃんは膨れっ面で舌を打つ。見かねて渡辺さんが頭をなでると、猫のように気まぐれな機嫌はけろっと直り、嬉しそうに彼女に抱き着く。

「すぐ来てくださいね! 香織さん」

「近いうちにね。また来るよ」

 二人は、名残惜しそうに離れると互いに手を振る。

「今日はありがとうございました。ご馳走様でした」

 最後にもう一度頭を下げて、渡辺さんと連れ立ち、店を後にした。

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