第15話
弱まった雨は、引き際を忘れた子供のように頼りなさ気に、しとしとと降り続けている。真っ暗な空から傘を叩いては、地面に引っ張られて落ち、足元を濡らす。
互いにさした傘の分だけ離れて歩く僕と彼女の間には、それ以上の何かがあるだろう。柔いはずの雨は、僕らの間に落ちた緊張にあてられ、時より思い出したように大粒を落としては催促する。互いの顔は見えない。
「私、酷いことを思いました」
傘の向こうで呟かれた言葉は、雨を掻い潜って僕に届く。
「どうせ幸せは続かないって」
「……」
「他人の祝福話を素直に喜べないんです」
「……」
「どうしてもあの幸せそうな雰囲気に飲まれると、気持ち悪いような、泣きたいような気分になるんです」
今、泣いているような声で、彼女は吐露する。
「それは、……」
「別に無理にフォローしなくて大丈夫ですから。独り言ですから」
こんな時でも渡辺さんは砦を崩さない。
「それは、駄目なことなんですか?」
「駄目って……。そんなの普通思わないですよ。可笑しいんです、私は」
自嘲する彼女は、僕がそれが駄目かどうかも分からない対人におけるずぶの素人である事実を知っているだろうか。きっと自身を批判することばかり忙しく、目にはいることもない。
「例えば、新郎を長年好きだった人はその結婚式を心底祝えますか?」
「それは極端ですね」
「じゃあ、職を失ったばかりの人はどうですか?」
「……」
「自分の中にある何かを失った人も祝えないかもしれません」
「……」
「状況が違えば感じ方も違う。それが普通だと、僕は思います」
僕と同じように、彼女も『何か』を感じているのだろうか。あったはずの何かを探して途方にくれているのかもしれない。見えるはずのない顔を、傘越しに見詰めた。
咲ちゃんが「自分が駄目だって、出来損ないだって言うんですよ」と言っていた。店長が「誰にも言わず自分の中にため込んでしまうんです」と言っていた。僕の意見も加味して、三人が口を揃えて言うのだ。間違いはないだろう。
彼女は彼女の中で、何かと戦っている。それはきっと僕のなかにもある何かで、人一倍大きい何かだろう。小さな彼女の中にしまいこめない量の何かが溢れ、彼女を苛み苦しめている。長い時間をかけて自身を忌み嫌い、責め続けているのだ。
それなら、僕は……。
「少しくらいは許してあげてもいいと思います」
僕は誰かを慰める言葉を知らない。それでも、今、渡辺さんにかけるべき言葉を探し続けている。それでも一度止まるともう二度と言葉を発することが出来なくなるような気がして、早口で言い募る。
「渡辺さんが何を感じて、何を想っているのか」
雨粒が一粒頬に落ち、涙のように頬を伝う。
「それは無視できないし、僕はしたくありませんから」
そう感じる事実を隠すことは出来ても、そっくりそのまま取り替えることは出来ないのだから。
言葉足らずの稚拙な熱弁は、果たして彼女に届くのか。ましてや、言葉はこの口からついてでて、僕は本当に話しているのだろうか。彼女からの反応はない。
霧雨の中、僕と彼女の歩みだけが聞こえる。黙々と歩くと目的地である駅が驚くほど早く視界に入った。少し上向きになった彼女の傘もそれに気づくと、歩調が徐々に遅くなり、最終的に止まった。
僕はそのまま進み、正面に立つけれど、相変わらず傘で拒んでいる。その小さな抵抗に渡辺さんらしさを感じながらも、僕は思い切って傘に手を掛ける。意外にもその後の抵抗はなく、傘を上げ彼女と対面できた。
彼女は、感情で頬を濡らしていた。溢れた感情が頬を伝って襟口を濡らし、シミを作る。それは止まることを知らず、次から次へと流れ出ている。引き寄せられるように手を伸ばす。触れた指先から、温かさが身体に染み込んできた。
彼女の感情はとても温かい。頬を擦るようにそれを拭ってから、彼女の頭の上に手を乗せる。
「つらかったですね」
僕が声を掛けると彼女はやっと声を上げて泣いた。頭を撫でると、ずっと固く握られていた拳が解かれ、僕の方へ伸びてくる。所在なさげにさ迷ってから服を摘まんだ。そのまま彼女は暫く泣いていた。
金曜日の夜、店内は極めて混雑する。一人客が帰ったとしても、またすぐ次が来る。何度も開閉さるる扉が、ひっきりなしに音を立てていた。咲ちゃんは注文を取るために、狭い店内をあちらこちら歩き回り、僕の隣を通る度、文句を落としていく。
「狭すぎて目が回るよー」
特に今日は忙しさの極みで、いかにも大変そうである。しかも、「こっち追加ー」や「いつものやつ」等おおよそ分かりやすいとは言えない注文ばかりであり、咲ちゃんではなければさばけないだろう。元気に返事をし、よく動いている咲ちゃんは、さすが店長自慢の看板娘だ。
店長はいつもの如く焼き鳥を焼いていて、その傍らには見慣れない男性が立っていた。咲ちゃんくらいの年代で、背が高く整った顔立ちをしている。店長は案外見た目重視の採用なのかもしれない。
咲ちゃんは就活・卒業論文に向け、本業である学業が忙しくなるので、店長の計らいで新しく雇ったらしい。本人は嫌がっていたようだが、店長の判断に間違いはない。ほとんど毎日足しげく働いているらしいから、最後の一年くらいは勉学に重きを置くべきである。年を取れば嫌でも働かなくてはならないのだから。
その男性は、焼き鳥を焼く店長から片手間にビールの入れ方を教わっているようだ。それでも彼は器用によそってみせ、店長からオッケーサインをもらうと、此方にやってきた。
「お待たせしました。生です」
少し高さを残した声は、初々しさを感じさせる。
「ありがとう」
「千埼さん。何か違くないですか?」
思わず口に出すと、耳敏く咲ちゃんがこちらに寄ってきて、僕に対しても文句を落とす。
「私に対してはもっとこう……」
片手を空に止めて少し考える。
「蔑ろ? 適当?」
「てきとう!」
「適当ならいいじゃないですか」
店長まで忙しい手を止めて笑う。僕も思わず笑うと、咲ちゃんは頬を膨らませむくれた。
「常連さんですか?」
彼が僕を見て、店長に尋ねる。
「まあそうだね。どちらかというと上お得意様?」
「千埼さんです!」
何故か咲ちゃんが胸を張って彼に紹介してくれる。それに店長はまた笑った。
「河野です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしく」
「やっぱり、何か違うー」
嘆く咲ちゃんに店長が「千崎さんが心を開いている証拠ですよ」と宥める。その一言で「だからかー」と納得しまた調子を取り戻す。いつもの光景。
ガラッと店の戸がまた来客を告げる。
「こんばんは。空いてます?」
「らっしゃい。お疲れ様、どうぞ」
「香織さーん。聞いてくださいよ。千埼さんが酷いんですー」
すかさず咲ちゃんがやって来た渡辺さんに張り付く。
「咲ちゃん、そろそろ仕事に戻って」
「はーい」
店長の声色が少し低くなったのに気づいたのか、しぶしぶ咲ちゃんは伝票片手にまた店内を回りだす。
「香織さんはこっちに座って下さい」
いつものように僕の隣へ店長がおしぼりを用意する。
「千埼さん。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
今日から外回りが始まると言っていたため、疲れてはいるようだが、血色は随分良くなっている。
「何ですか?」
じっと顔を見ている僕に居心地の悪さを感じたのか、つっけんどんに聞いてくる。
「いや、顔色が良くなったなと」
「そうですか?」
渡辺さんは顔を引っ張ったり叩いたりしている。化粧や表情などではなく、以前より顔が明るく見えた。
「まあ、そうですね」
最後は何か納得した顔で、頬を擦っている。
「ご注文お決まりですか?」
河野君が渡辺さんに話しかける。この店では珍しい女性客に緊張しているようだ。
「とりあえずビールで」
優しくする必要はもちろんないが、そんなに威嚇しなくてもいいだろうに。ぴしゃりと注文を叩きつけられた河野君は、何度か頷くと店長の元に素早く帰っていった。
「千崎さん」
渡辺さんは、不服そうに頬杖をつく。彼女の沸点は、咲ちゃん以上に難解である。
「あの子は何ですか?」
「新しいアルバイトらしいですけど」
「え、聞いてないんですけど」
「それは店長に言って下さいよ」
「千崎さん知ってたんですか?」
「まあ」
「えー。私、聞いてないんですけど」
いつの間に聞いてたんですかと性懲りもなく僕を問い詰め、ブーブーと声に出してブーイングをする。最近、咲ちゃんの影響をより濃く受けているようで増して文句が多く、本当の姉妹になってしまったようだった。
良いか悪いかはさておき、近くにいるとその色が滲み、徐々に染まっていくのは事実なのかもしれない。兎にも角にも近しい他人は影響力が強い。僕もいつかはそうなるのか。全く想像できないが。
「お待たせしました」
タイミングよく河野君が運んできたジョッキに、疲れた彼女の意識が向いて、それ以上突っかかってくることはなくなった。花より団子。嫌味より食い気である。
渡辺さんは、今日は珍しく髪をハーフアップにしている。炎天下で一日過ごしてきたからか、出ている耳が焼け少し赤くなっていた。飲っぷりは相変わらず豪快で、実に上手そうに飲む。ビールのコマーシャルに起用されても遜色ないだろう。僕も同じように口をつける。
「今日も一日、疲れましたね」
その通りだ。だから、美味い。
「もう帰るんですか?」
そろそろ帰ろうと財布を取り出すと、隣の酔っ払いに絡まれる。
「明日、休みじゃないですか」
「そうですけど」
「帰っちゃうんですか?」
彼女の目は、僕を捉えているようでいない。完全に酔っている。それに素面なら僕が帰ることをこんなに惜しむことはないだろう。
「じゃあ、一緒に帰りますか?」
「え? う、はい」
どうせ届きもしないと思うと言葉は軽薄に口から出てきた。彼女も理解できない頭で、簡単に頷く。飲み過ぎは良くないと今度言おう。
「咲ちゃん、お会計をお願いします」
会計を済ませ、店長に挨拶をして、最後に咲ちゃんに「ちゃんと家まで送ってくんですよ」と念を押されながら店を出る。
午後十時を回っているのに、まだ息苦しいほど暑い。夏も折り返し、子供たちの夏休みも残すところあと僅かだろう。この暑さが和らぐのが待ち遠しい。
辺りが暗くなっているにも拘わらず、なき続けているのは蝉だろうか。蝉の寿命は実は一か月くらいあるが、夏の暑さで一週間という短さで一生を終えると聞いたことがある。本当かどうかは分からないが、これから温暖化を進める地球では、より生きづらくなっていくだろう。生きる限りは、環境に適応していかなければならないのだ。
「千崎さん」
静かな空気を裂いて、彼女が僕を呼ぶ。
「今、幸せですか?」
いつかの僕のように、少し躊躇いながら、それでも好奇心に動かされる。
「分からない」
口から出た言葉は同じであるが、あの日には無かった温かな空気が僕を包む。そして、続きがある。
「でも、幸せになれそうな気がします」
「……何ですか、それ」
うははっと笑って、彼女は僕の手を握る。
『幸福とは』そんな大それたこと僕には語れない。今、この瞬間の温かさを溢さないように、必死で手の中に集めることで精一杯だ。だけど、僕たちはそれでいい。
この胸に落ちた温かな『何か』は、きっと僕に幸せを教えてくれている。
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