第13話
ジリジリと目覚まし時計のように鳴く蝉の声が、締め切っているはずの部屋にまで充満している。よく耳を済ますと単調な音だけでなく、複数のパートに別れ歌っているような大所帯である。緩慢な体を引きずりカーテンを開けると、既に太陽がべた塗りの青い空に浮かんでいて、遅起きの僕をきつく照らす。今日は一段と暑いのだろう。
寝巻から部屋着に着替え、跳ねた髪を手櫛で整える。時間を確認しようと手に取った携帯電話が咲ちゃんからの連絡を知らせた。この前安易に連絡先を交換してしまったことを思い出す。受信時間は二時間ほど前で、咲ちゃんは学生の割りに随分早起きのようだ。
『至急、お店に来てください!!!』
簡潔な文だが、らしさが十分伝わってくる。しかし、果たして至急の用事にまだ間に合うのだろうか。今更、何を返していいのか分からない。まごついた手から転げ落ちるように携帯が振動する。どこからか見ているようなドンピシャなタイミングで、咲ちゃんからの着信である。
「もしもし! 千崎さんですか?」
「はい。千埼です」
「起きてます?」
変なことを聞く。
「今からすぐ、お店に来て下さい!」
至急の用事はまだ生きているらしい。
「今からですか?」
「そうです。今から! というか未読無視はやめてください!」
どうしてですか、なぜですか。聞きたいことはいくつかあったはずだが、急げ急げと捲し立てる咲ちゃんに押しきられるようにして是と答える。
「すぐ来て下さい!」
了承を得たら用なしと言わんばかりに直ぐに通話を切って、携帯電話がそれ以上声をあげることはなかった。現状、分かることと言えば、急ぎであることと集合場所が店であるということだけである。
取り合えず、咲ちゃんをこれ以上怒らせることのないように、着替えたばかりの部屋着から、外出できる服装に着替えることにした。
予想通り外は一段と暑く、一歩踏み出すごとに大粒の汗が額から垂れた。照り返しで足元から茹でられ、皮膚をさらした部分は太陽光線でくまなく炙られる。先々の地面からはゆらゆらと陽炎が立ち上り、 更に暑さを助長しているようだ。
道を行く人々は帽子や日傘で身を守り、日影を探して歩く。僕もそれに習い影を踏む。日影に避難する動物園の動物のように、列をなし緩慢に動く。眩しくなく、暑くもない。しかし、『何か』が腹から出て僕を置いていくような気がして、一人影を出た。早速首筋を狙われ、じりじりと焼けているが、それでも今日は明るい道を歩きたい。そんな気分だ。
店に着くと、当たり前に閉店中の札が掛かっていた。どうしたものかと一通り考えを巡らせると、この時間には到底開くはずのない店の戸が勢いよく開く。
「あ、千埼さんいるじゃないですか。なんで入ってこないんですか?」
咲ちゃんが少しむくれて顔を出した。頭には大きな麦わら帽子が乗っている。
「いいから来てください」
早く早くと手招きをする咲ちゃんに急かされ、店の中へと足を向ける。
「はーい。特別ゲストでーす!」
バラエティー番組の司会者よろしく楽しそうにそう言って、僕を招いた。店内には店長と渡辺さんがいて、二人の視線を一様に浴びる。困惑の視線を投げ掛けられても、正直一番それを感じるのは、この場合僕だと思う。
「咲ちゃん。千埼さんに説明したんですか?」
「今からするんです!」
咲ちゃんは元気に手を挙げて僕に向き直る。それを見て店長は肩を落としながら「すまないね」と僕に項垂れた。全く状況の把握はさせてもらえないらしい。
「千埼さん! 川です。夏ですので」
説明になっていないが、言いたいことはなんとなく分かる。
「夏は海というのはもう遅れてます。時代は川です! 川!」
確かに、海は塩辛くて暑さの逃げ場がないイメージがある。川なら山に近ければ近いほど、水に浸かってなくても涼しそうだ。
「私がどうしても行きたいって言ったら、香織さんも行ってくれることになって。で、どうせなら千埼さんもと思いまして」
どうせなら僕という咲ちゃんの思考は、理解に苦しむが、こちらの様子を見ていた渡辺さんと目が合うもまた断ち切る様子に、呼んでいただいた感謝をしなくてはならないだろう。
「千埼さん。夏ですから!」
ともすれば暗くなりそうな雰囲気を咲ちゃんは簡単に吹き飛ばす。夏はその暑さに大部分の人がだれるが、咲ちゃんはより活発になる時期なのかもしれない。
店長が所有しているワンボックスカーに各々荷物を乗せ、出発の準備を着々と進めるが、事前に知らされていない僕はもちろん持ってきているものなどない。咲ちゃんの膨らめた大きな浮き輪が、最後尾のシートを占領している。出来れば一度家に帰かえりたい旨を伝えるが許可は下りず、そのまま車は発進した。
「さあ。レッツゴー」
助手席に座る咲ちゃんは、何時もに増してテンションが高い。その言葉が車の中を明るくしている。
店長の性格の如く穏やかな運転に身を委ね、揺られていると、この唐突なイベントも悪くないと思ってしまう。
「店長、あれかけてー」
CMで最近よく聞く曲が流れる。夏の恋の歌。
「ここから近いんですか?」
清らかな川というと生活圏内にはおおよそないだろう。淀んだ大川ならよく目にするけれど。
「三十分くらいで着くと思いますよ」
私服の店長は、その役割を捨て、温和な人当たりのよさを、更に振り撒いている。
「千埼さん。川とか行きそうにないですもんねえ」
知らないですよねと小馬鹿にするように、咲ちゃんが笑う。あははっと声をあげ、また店長にたしなめられる。そんな喧騒に反応を返すことなく、渡辺さんは静かに流れる景色を見ていた。
空にはパン屋に並びそうな焼きたての雲が列をなし、どこへ向かっているのか、流れていく。信号で車が停まっても、雲が止まることはなく、どんどんと先へと進む。上空は風が強いのかもしれない。天気予報で今日一日晴天が崩れることはないと言っていたが、果たしてどうだろうか。
「何ですか?」
渡辺さんがメンチを切るようにして聞いてくる。何もないのだが、それを言ったら、それこそ腹を切られてしまいそうな勢いだ。
「雲が速いですね」
「はあ?」
「何ですか、それ。第一声がそれとか、うけるー」
咲ちゃんが今度は腹を抱えて笑い出す。
「本当に千埼さんは変ですねー」
普通でない自覚はあるが、咲ちゃんに言われるのは少し違う気がする。隣でふっと息が抜ける音がして、渡辺さんが目を細めて笑っていた。
咲ちゃんが笑うと彼女も笑って、僕と店長が笑う。車は陽気を乗せて川へと向かって行く。
街中を抜け、山道をたどり、随分道が狭くなったところで、車が停まった。咲ちゃんが目的地だと指差したところには駐車場と呼べるものはなく、道幅の少し広いところに車を寄せて止め、徒歩で川へと下りる。道には所々車が点在していていたが、見渡す限り人の気配はない。
溢れんばかりの蝉の声で耳が潰れそうだ。家の周りで聞いた大合唱が学園祭なら、世界大会くらいの規模である。
道を囲むように太く立派な木々が生えている。背が非常に高く、真っ直ぐで姿勢もよく、木の頂きは霞んではっきりとしていない。
道の端に生える葉一枚をとっても、この環境下で生息する植物は、家周辺に生えているものより幾分も大きく感じる。自然を破壊する生き物が近くにいないと伸び伸びと生きられるのかもしれない。
「こっちに道がありますよー」
先頭の咲ちゃんが指針になり、他の三人を引っ張っていく。一応人の手は加えられているらしく、古い木製の階段があり、それに沿っていくと川に着くようになっていた。
ここまで来ると蝉の大合唱は鳴りを潜め、代わりにせせらぎが聞こえ始めて、やっと涼しさを伝える。しんとした静けさが、更に暑さを消し飛ばした。
「あっ! 川です!」
「咲ちゃん! 危ないから、ちゃんと前向いて」
階段を降りきると、川というより沢が流れていた。幅は狭く、岩や土がむき出しの小さな崖に囲われている。足場が少なく尚且つ滑りやすいので、後ろを振り向きながら歩く咲ちゃんを渡辺さんが咎めた。
「大丈夫ですよー。行きましょ」
彼女の態度にもお構いなしで、その手を取り先へ進む。沢は浅く流れもそこまで速くないように見えるが、彼女は慎重に進みたいようだ。足元をじっと見てたまに止まり、手を引っ張られている。
「咲ちゃん、危ないから手を離して!」
前屈みになりながら、お世辞にも橋とは呼べない板の上を渡っていく。渡辺さんが懇願しても、珍しく咲ちゃんは手を離さない。足場が不安定にグラグラと揺れている。
「わあ!」
我慢できず渡辺さんが悲鳴のような声を上げると、咲ちゃんは楽しそうで、嬉しそうに笑う。
「咲ちゃん!」
「ごめんなさーい」
二人は無事橋を渡り切り、きゃっきゃと楽しそうに進む。
岩場の間にあるできるだけ平らな場所を見つけ、銀色のシートを敷き荷物を下ろす。どこも小石や岩が一面にあるので、おおよそ座り心地がいいとは言えないが、座ると尻が痛いことですら、咲ちゃんにかかれば楽しむ要素の一つらしい。荷物を置いて座り、一笑いしてから、咲ちゃんと渡辺さんは沢に入っていく。
「冷たーい!」
透明な水面に波を立て、その流れを乱す。サンダルを履いたまま気持ち良さそうに歩く二人。僕は暑苦しい靴を履いて、シートに座り、二人の涼を見ている。咲ちゃんの膝下三十センチ程の水量では、流石に泳ぐことは出来ず、大きな花柄の浮き輪は僕の隣に置いてけぼりだ。
「店長も! 千埼さんも! 何してるんですか、こっちに早く! これだからおっさんは」
咲ちゃんの声に仕方なく腰を上げ、店長は参戦の意を示す。その足元はやはりサンダルである。僕は所詮暑苦しい靴だ。ただ革靴でないことだけが、せめてもの救いだ。
「ちょっと、咲ちゃん! 香織さんまで!」
遅れてきた罰として店長には、二人から水飛沫が贈られる。そこから、よくある水の掛け合いが始まった。
宙に舞う飛沫が反射して輝き、また水面へと戻る。戻った水は新たな波紋を生み、幾つもの重なった波紋が不規則に動く。それが余りにも不自然で、何があるのか目を凝らすと、僕達だけだと思っていた沢には先客がいたようだ。アメンボが懸命に流されないよう上流へ向かい水面を滑っていた。
「冷たっ」
僕が前のめりになったことをいいことに、咲ちゃんがこちらにも水を掛けてくる。愉快そうにこちらを指差し笑う。
「変な目で見てるからですよー」
咲ちゃんはどうしても僕を巻き込みたいらしい。どうせ反撃も何もしてきやしないと思っているのだろう。確かにその通りではあるが。渡辺さんと店長が驚いて僕を見る中、一人ニヤニヤしている。
その顔をどうにかしたくて、たまには売られたものを買ってやろうかという気分になった。そう思うと自然と手が動いて、咲ちゃんに向けて水を飛ばす。
「あ、冷たっ」
思わぬ反撃に怯んだのか、咲ちゃんは避けもせず、攻撃をもろに食らう。その間抜けな姿に、思わず頬が緩んだ。
「やりましたねー! あ、逃げるなー」
咲ちゃんの逆襲が恐いので、そそくさとシート後方へ逃げる。渡辺さんと店長が咲ちゃんを宥め、また笑い合って僕を見る。緩やかな沢の流れの中で、穏やかな時間が流れている。
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