第12話
バイトへ赴く咲ちゃんに同伴を申し込まれたが丁寧に断りを入れ、駄々をこねる彼女を引き離して別れた。店を出るころには空に詰まっていた雲は散り散りになり、時よりのぞく空から太陽の光が地面を照らしていた。
元々目的も予定もなく、あてもなく歩き出していたので、これからも明確な進路はない。ポケットに手を突っ込んで歩くのは行儀が悪いと幼少の頃から口酸っぱく言われてきたのだが、この歳になっても変わらずしてしまうのは、習慣として既に身についているからだろう。上着のポケットにしまった手が奥底の紙くずに気付く。それを引っ張り出すと、青葉パークのロゴが目に飛び込んできた。青色の短冊だ。僕の中にいるはずの『何か』は静観したまま、僕を動かすことも責めることもしない。
もう一度短冊をポケットにねじ込み、駅へと足を向ける。自分の思考回路でさえ、分からないのに、他人の『何か』など考えても無駄だろうに。僕は彼女の事が気になるらしい。何を考え、何を思い、そして何を感じているのか。それを目の前にして僕が何を感じるのか。そればかりが脳内を占めている。自ずと体はあの日と同じように
改札を通り電車に乗っていた。
ここ最近よく目にする見慣れたロゴが見える。咲ちゃんと別れてから三十分後には青葉パークに到着し、不審がる受付嬢からチケットを購入して何とか閉園前に入園できた。同じ道を同じように通ってきたつもりだが、何故だか時間が掛かったような気がする。
閑散としている園内は、それはもう営業終了しているかのような雰囲気を醸し出している。園内を掃除している係員達は歓迎などいざ知らず、遅がけでやってきた大人一名に生暖かい目線をすれ違う度くれた。
園内マップを片手に同じルートを歩く。閉園間近になると徐々にアトラクションやイベントは終わっていくようで、ジェットコースターの乗り口は既に閉鎖され、全く人気がない。暗がりにそびえ立つジェットコースターを見上げる。背面から当てられた沈みかけの太陽の光がこちらに影を伸ばし、その存在をより大きく見せはするが、寂しげを助長してただ佇んでいるようにも見える。
彼女はあの時僕の手を取らなかった。大丈夫かと問いかけても一人で立ち続けていた。彼女の中にあるプライドは富士山よりも遥かに高く、僕ごときでは登ることも叶わないのだろう。それが彼女を奮い立たせ、いつまでも強がらせている。ベンチに腰掛けた彼女は初めて僕に対して甘えたのかもしれない。あれが甘えた内にはいるかは微妙な線だが。足は止まることはなく彼女の軌跡を追っていく。思い出す彼女の顔はいつも寂しげで、思い出した途端消えてなくなってしまう。彼女の顔を僕は上手く思い出せない。
笹飾りの絵を見つけるとあてもなく動いていた足がやっと止まった。机は撤去されていたが、模造紙は同じ場所に取り残されていた。雨に打たれ色褪せて、所々にシミが付いている。しかし、少し黄ばんだ模造紙に願いはそのまま掲げられている。
僕はあの日と同じように願いを片っ端から見ていく。先を急く『何か』を宥め出来るだけゆっくりと見ていく。
『幸せになりたい』
それは左の一番隅に神経質そうな字で丁寧に書かれていた。様々な色で鮮やかに書かれている願いの中に一つだけ、シンプルにボールペンで記されている。存在を出来るだけ薄くし、その願いを主張しないように。しかし、消すことは出来ない。彼女は、確かに、望みを持っている。
風にはためくそれに触れると、急に『何か』が心臓を掴み、もったいぶるように徐々に力を込めて僕を痛めつけた。その痛みに耐えるように背中を丸めると『何か』がもう片方の手を伸ばし、喉の奥まで押さえつけてくる。『何か』が触れたところから水分が蒸発して喉が渇く。唾を飲み込むも違和感が拭いきれず首をつかむ。喉を開いて、中を掻きむしりたい。無意識に体全体が力んでいることに気づき、一度だらりと力を抜いて深呼吸をすると、幾らかましになる。
笹飾りから足を引きずるように離れ近くのベンチに座り、前かがみになって『何か』を押さえ込むように呼吸を整える。視界に入った腕時計が閉園時間が後数分に迫っていることを知らせた。また歩き出さなくては。思いとは裏腹に、身体がベンチに張り付いて動かない。
彼女は今何を思ってるのだろうか。ベンチの背もたれに身体を預けると一筋の冷たい風が頬を撫でていく。
彼女は何時も悲しく笑って、卑屈に嘆いていた。誰に甘えることも救いを求めることもなく、ただ、強がっていた。
彼女は感情を息をするように隠していた。いや、咲ちゃんは気づいていたのだから、誰にも手出しできないところに追いやっていたのだろう。自分自身にさえそれを隠し、弱さを責め批判し、自分に実力以上を常に求めていた。
彼女は出来ない自分を認められず、受け入れることが出来ないでいる。幸せだと、幸せなんだと言い聞かせながら顔を歪ませて泣き、分かったふりをすることだけが彼女を保っていた。
それなのに、彼女は僕に手を差し伸べた。情けかもしれない。下の人間を見つけた優越かもしれない。それでも僕は嬉しかったはずだ。彼女が僕を見ていたというその事実が。
僕は分かっていたはずだ、彼女が酷く強がりだということを。けれど、それが彼女の望みなら、そうしたいのなら、それでいいと思っていた。僕は何も分かっていなかった。何も分かろうとしていなかった。僕の中の感情を彼女は示していたはずだ。『何か』はずっとそこにあったのだ。
風が僕の感情を攫うようにもう一度吹く。『何か』が込み上げてきて目頭が熱い。徐々に視界がぼやける。眉間に力をいれると感情が溢れ、熱く頬を伝った。悲しいのかどうかは、僕には分からない。それでも僕は、彼女を想って泣くのだろう。これが彼女へ向かう感情だったらいいと思う。
ゴーンゴーンと遠くで閉園の音が響く。張り付いている身体をベンチから引き離し、出口へと向かう。ポケットの奥に今だ丸まっている短冊には願いは記されていない。人目に晒される場所へ張り出す勇気もない。けれど、足は確実に目的地へ向かって進んでいる。
ここ数日、会社で目にする渡辺さんはいつにもまして忙しなく、幾度とない接触の試みも不発に終わっていた。昼食時たまたますれ違った彼女を引き留め、どうにか話をしようにも、努めて僕を視界から排除する姿勢に、接触の頻度の低さは仕事の忙しさだけでないと知る。彼女は落ち着きなく身体を揺らしていた。
話をしなくてはならないという強迫観念にも似た『何か』があれからずっと腹に居座ってる。そればかりに気をとられ、渡辺さんの態度に気付くことが遅れて、事態を悪化させてしまったようだった。これではいけない。理屈では分かっているが、そう簡単に切り替えられるほど、物分かりのいい人間ではない僕は、ただあたふたと不審な動きをするだけだ。それに、不足の事態というものは重なるようで、張り出された掲示に『何か』がはぜた。
『海外出張組の激励&送別会を行います。皆で明るく送り出しましょう!! 詳細は追って連絡します』
何も気にするところではないが、それは腹に居座る『何か』の機嫌をすこぶる悪くした。腹の底を捻って摘まむ。おかげで昼食の冷やし中華を半分も残してしまった。
足りない頭でいくら考えても答えは出ないのだと嫌になるほど理解している。
早目に昼食を済ませ部署へ戻ると、不審な僕の動き以上に皆の動きが固くなっていた。その理由はすぐ分かる。部署の上座、一番の奥の一番でかい机で、重役会議や出張で駆り出されることが多いため空席が目立つ席。この部署の最も偉い人物が腰を据えているのだ。部署内は仕事にいい緊張感に包まれている。
部長の姿を目にして、『何か』が揺れる。少しの決意を寄こす『何か』に押されるように足が動いた。不器用にも行動に移すことができるなら、微々たる進歩は見込めるだろうか。
「部長、お話があるんですけど」
昼食時でまばらな席だとしても、部長に物申す輩は嫌でも注目を浴びる。話好きな先輩集団がいないだけましだろうが。
「ああ、それじゃあ、隣の部屋に行くか」
部長は部署内に目を巡らせ、予備室へ入っていく。部署の片隅に給湯器や茶器が置かれている部屋があり、小休憩スペースとなっている。建前上は自由に使用可能なのだが、実際は部長の机の隣にあることも相まって、滅多なことがなければ皆使用していない。
扉が音をたてないようゆっくりと閉めてから振り返ると、部長は窓に寄りかかるようにして僕を見据えていた。
「どうした?」
問い掛けてくる声が心なしか固く、僕を責めている気がする。それに釣られた身体が力んで『何か』が小さく悲鳴を上げた。話があると言っておきながら、数秒間一言も発することが出来ないでいる。
時間は有限で、部長は忙しい。分かりきっていることが、頭を回るだけで、何も変わらない。強く握る拳だけが視界に入り、顔を上げることすら出来ない。しびれを切らした『何か』が皮膚をなぜ、及び腰になる僕を震え上がらせた。
「部長、海外出張の件ですが……」
口に出してみても、結局は上手く続かない。目を見て話すという社会人として最低限のルールも守れない。目の前にいる部長から細く長い息が落とされる。
「まあ、良かったよ」
部長の言葉さえ意味が分からない。思わず顔を上げると、彼は疲れたように苦笑していた。
「千埼から珍しく話し掛けてくるから、退職願いかと内心冷や冷やしてたぞ」
その笑い顔が僕の固まった顔も柔らかにするようで、やっと口から言葉が滑る出した。
「海外出張の件ですが、返事もしないですいませんでした……」
言葉が落ちる。その勢いのまま頭を下げる。
「俺も千埼をこの部署に引っ張ってきた責任がある。けど、その贔屓目を抜きにしても仕事は出来ると思ってるよ」
頭のはるか上から落ちてくる言葉がうなじを優しく撫ぜている気がする。
「でも、所詮会社は人で出来ている。やる気が見えない奴は評価されないだろうね」
革靴が床を叩き、気配が目の前にやって来る。
「いつまで頭下げてるんだよ。ほら、上げて」
部長は僕の肩を持つと、背筋を伸ばすよう上へと向かせた。
「余り言いたかないが、評価してもらうには、目に見える熱量が必要なのも事実だ。だから、今回の件はお前は外され、田辺が選ばれた。田辺は自ら志願したからな。何事にも前向きに取り組む姿勢っていうのは、案外難しいんだよ」
捲し立てるようにそう言って、僕の肩を叩く。
「それでも、まあ本当に良かったと俺は思う訳だ。元々反応薄かったけど、最近お前ますます磨きがかかって、一時期ロボットかなって思ってたからね」
自分の例えがツボにはまったのか、わははっと大きく笑い、部長は部屋を出て行こうと扉に手を掛ける。
「チャンスはまだまだある。まっ頑張れよ」
もう一度僕の肩を叩き、予備室から出ていく。解決したことは何一つない。予備室から出て見た世界が少し変わっていたのは誇張のし過ぎかもしれないが、『何か』が変わったと思えるくらいには、余裕が生まれてきているのかもしれない。
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