第11話
昔から趣味と呼べるものがない。休日は大抵一日を無下に過ごしている。年を追うごとに、新しい物事に興味を持つという意識自体が薄れているのだろう。家から出る用事といえば、コンビニにつまみと雑誌を買いに行くくらいだ。それが僕の常だった。最近、渡辺さんに誘われ外出の機会が多く落ち着かない休日を過ごしていたが、それもなくなり平常に戻っていた。しかし、どうして『何か』は落ち着きを取り戻さず、休日だというのにこうして朝早くから僕を起こし、腹の中で不服を表して、熱くなった手足を腹の至る所に押し当てているのだろう。疑問を抱え『何か』に促されるまま家を出て、駅への道を歩いていく。その行動は常でないというのに、『何か』は満足したかのように大人しくなっていた。
湿気を連れてきた風が雨の気配を知らせる。ここ数日真夏日が続き、水不足が嘆かれ始めた矢先であった。空は明らんでいるが、所々薄黒い雲が目いっぱいに詰まっている。そこから降り始めた雨は、まだ勢いが弱く、僕の肩に落ちる前に霧散して、跡形もなく消えた。
花壇には色とりどりの花が咲いている。シャッターが下りたまま暫く開いていない書店は今日も休みのようだ。通勤時には数えきれない程の人間が律儀に信号を守り止まっている横断歩道も、休日ともなれば一組の若者しかいない。同じ道なのに、どこも少し違うように見える。僕もきっと違う。それに違うのは服装だけではないだろう。
「あれ、千埼さん?」
男女二人組の一人が僕を見て失礼にも指を差す。
「何、知り合い?」
「そうそう、知り合い。だから、じゃあね」
「え、焼き肉食べに行かないの? 行こうよ」
「この人におごってもらうから」
もう一度じゃあねと言った女性は強引に男性を帰したいらしい。
「また連絡するからな」
最後まで引き下がれないと食いつく男性を軽くあしらい、咲ちゃんは僕に向き直った。
「咲ちゃん、彼よかったの?」
去っていく彼が僕に寄こした視線はきっと優しいものではない。要らぬ勘違いを起こしていそうだ。
「いいの、いいの。むしろナイスタイミングですよ」
咲ちゃんの視線が僕の頭のてっぺんから足の先まで値踏みするかのように素早く動く。
「千埼さん、思っていた以上に若いですねえ」
自分の若さは棚に上げ、装いが年相応でないと揶揄する。二十五を超えたあたりから服装については袋小路に陥っていて、ラフ過ぎれば大学生と間違われ、かと言ってオフィシャルな装いを私生活に持ち込めるほど洒落ていない。Tシャツにジーンズ姿が学生にしか見えないのだろう。対する咲ちゃんは短パンにサイズを間違え過ぎた大きなTシャツを着て、肩を晒している。足元は夏らしくサンダルだ。店の制服姿より幾分か幼く見えるのは、晒した足や肩のせいだろうか。
「ちょっと、変な目で見ないでくださいよー」
楽しそうに晒した肩を隠す。
「千埼さん、ごはんって食べました?」
「いや、まだですが」
先ほどの会話が聞こえていた手前、これから起こり得るであろう事態は予想に容易い。
「ちょうど近くにおしゃれな店があるんです! おごってください!」
咲ちゃんは目の前でぱんっと合掌し、チラリと上目に僕を見上げる。先程の男性に同じように頼めば、きっと二つ返事で了承してくれただろうに。あえて僕を選ぶ理由が分からない。
「今月厳しいんですよ。お願いします! あ、さっきのは同じ大学の子で、さすがにたかれないでしょ?」
納得できる理由を用意してくるあたり、咲ちゃんは世渡り上手なのだと思う。外見に見合わず、国立大学に通い学費をバイトで賄っているのだから、苦労しているだけある。店長が我が子同然に自慢したくなるわけだ。
「分かりました。おごりましょう」
「やったー! ありがとうございます」
咲ちゃんは僕の返事を聞くや否や回れ右をして、待っていた信号を渡らずに元来た方向へ戻っていく。
「早く早く。置いてきますよ」
咲ちゃんは意外に足が速い。サンダルには当たり前にヒールが十センチ以上ついているはずだが、しっかりと地に足をつけた危なげない歩みで僕を引き離していく。よほど腹が空いているのかもしれない。
目的の店は、駅を通り過ぎ五分も歩けば着く距離にあった。店先に到着した咲ちゃんが、ツアーガイドよろしく僕を先導する。薄暗い店内は落ち着いた雰囲気で、昼はランチ、夜はバーをやっているようだ。そこかしこにワイン樽が置かれている。横並びでカウンターに通された。
「ご注文お決まりですか?」
「はい!」
元気な咲ちゃんの返事に、急いで最後までメニューに目を通す。
「本日のおすすめランチとガトーショコラ。あと、ジンジャーエールで!」
淀みなく容赦なく、遠慮もない注文。
「お連れ様は?」
「……僕も同じものとアイスコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
店員は笑顔で注文を繰り返し素早く下がると、数秒でドリンク二つを持って戻ってきた。革のコースターにグラスを置いていく。
「千埼さん。香織さんと何かありました?」
咲ちゃんはストローで遊ぶようにかき混ぜ、氷と泡を躍らせている。
「香織さん、最近あんまり来ないので」
「いや、何も」
「じゃあ、何か知ってませんか?」
「いや……何も」
渡辺さんのことを聞かれても僕は何も分からない。自分自身の事ですら分からないのに、他人のことなどどうして知り得るのだろうか。咲ちゃんはストローを軽く噛みながら、ジンジャーエールを飲み下す。
「香織さんって千埼さんに香織さん自身のこと話します?」
「いや。込み入った話をする間柄ではないでしょうから」
僕の返答に咲ちゃんは不服そうに唸り、ストローを咥えたまま頭を抱える。
「私の口から言うのはどうかと思うんですけど」
そう前置きするも咲ちゃんはその先をなかなか話し出さない。間を埋めるようにコーヒーを飲み下すと、喉の奥で『何か』が鳴った。
「香織さんも言わないし、千埼さんも聞かないと思うので言いますね。先に言っときますけど。私、香織さんの事、超好きなんで。本当に」
前置きにさらに前置いて、咲ちゃんは念には念を押すことに余念がないらしい。
「泣かしたら許しませんよ」
いつもの軽く陽気な雰囲気を封印し、僕を見据える顔は、本当に真剣そのものだ。若さゆえの純粋な真剣さに、真摯に向き合うのは、人生の先輩の義務だろう。『何か』がまた一つなく。
「初めてお店に来た時、香織さんは前の会社に勤めていて、咲はバイトを始めたばかりでした。まあ、当時付き合っていた人がうちの常連で、香織さんを連れてきたのが初めての時なんですけど」
前置きの通り、渡辺さんのことを詳細に話し出した咲ちゃんは、一気に話してしまう算段だろうか、一息つけることなく情報を垂れ流す。本人の意図しないところで聞く内容なのだろうか。『何か』が活発に動き出し口から出ようと試みるが、咲ちゃんの話に相槌を打ちながらそれを抑え込む。
「それから何回か来てくれてる間に仲良くなって。ほら、ああいうお店っておっさんばっかじゃないですか! もう香織さんが天使に見えて」
渡辺さんの方がいくらか年上だろうに、咲ちゃんは時々妹を見るような目で彼女を見ている。
「それに店長の従妹だし、店長とのことを相談したりしてたんです。あ、そのおかげで咲と店長は晴れてお付き合いを始めているんですけど」
一気にそう言うと急に速度を緩めた新幹線が停止線にぴたりと止まるように達者な口を噤む。咲ちゃんは僕の顔を見てため息をついた。
「千埼さん、全く持って興味なしですか」
「そんなこと、ないですよ」
「普通驚くところですよ。咲の人生においてはビッグイベントだったんですから」
憤慨する咲ちゃんに申し訳ないと思いながらも、なるほど店長の態度に納得がいく。
「まあそうですよね。見た目のせいで歳が離れすぎてるように感じますけど、たったの十四歳差です。あっちが老けてるんです」
「店長は年の割に落ち着いて見えますからね」
「……。そうじゃなくて。まあ、そうなんだけど」
丁度運ばれてきたおすすめランチには、エビフライとハンバーグがのっている。お子様ランチのようなメニューがプレートに品よく並べられ、とても洒落ていた。
咲ちゃんは話よりも空腹が勝ったようで、手を合わせて早速食べ始めている。僕もそれに続くように『何か』がいちゃもんをつけて暴れている腹に食べ物を詰め込んでいく。
咲ちゃんは渡辺さんの話を断念したわけではなく、暫く黙々と食べ後、ぽつぽつと話しを再開した。曰く、渡辺さんのお付き合いしていた相手は前の会社の上司で、清い関係ではなく一言で言うと不倫だったらしい。テレビでしか聞いたことのないような「仕事辞めたら離婚するから」という常套句で、渡辺さんは会社を辞めたようだ。そして、辞めた途端連絡は途絶え、彼女はつまるところ捨てられてしまったということらしい。
「案の定、香織さんが辞めた途端、ポイですよ。もう連絡して来ないでだって」
その人を知っている分、余計に腹が立つのか、咲ちゃんはどんどん熱くなりストローを何度も噛みしめている。その後ランチを食べ終わるまでは「ひどい」と「あり得ない」の二言しか発しない壊れたロボットになっていた。
「千埼さんも、千埼さんですよ」
そして、憤怒に燃える激しい勢いは、僕に舵を切って突っ込んでくる。
「この際言っときますけど、香織さんにその気がないなら近づかないでください。ただでさえ、傷つきやすい時期なので」
横やりを入れようものなら、ひき殺してやらんばかりのまくし立てである。
「千埼さんはどうせ分からないですよね。香織さんすごく分かりやすいのに。そこんとこどうなんですか?」
弾丸のような言葉が散弾銃の咲ちゃんから放たれ、僕は全弾を無防備に全身で受け止める。しかし、受け切れるはずもなくその場に崩れる。完敗だ。
「その通りです。きっと分からない」
それを開き直るようにしようがないと思えてしまうくらいに、僕の中の『何か』はこじれている。
「私も……ずっとそうでした。認めたくない。本当の気持ちは分からない。相手がどう思ってるかも分からない。一つ言えることは行動しないと何も分からずに何も変わらずに終わるということです」
言い終わると同時にナイフとフォークを揃えて置き、また手を合わせた。咲ちゃんは食べるのが相当速い。
「年を取れば取るほど、いろんなことでがんじがらめになるなら、咲が言うしかないじゃないですか。咲の周りには何も言えないおっさんばっかだから」
咲ちゃんは自分の立場を自覚している。彼女は学生でそのしがらみをまだ持ってはいない。しかしだからといっておいそれと言えるものでもないだろう。
「そうですね。咲ちゃん、ありがとう」
「……別にお礼を言われる筋合いはないですけど、むしろ奢ってくれてありがとうございます、です」
ケーキに行儀悪く刺したフォークを抜いて今度は上品に一口食べる。咲ちゃんは店長のような落ち着いた口調で、僕に小さく頭を下げた。
「私は香織さんには幸せになってほしい。それだけです」
そして、宣言する。
「僕もそう思います」
口からすんないりと出た答えは、意外にはっきりと僕の中に形を作る。咲ちゃんがまじまじと僕を見つめ、いつものように笑ったので、『何か』がやっと浮かばれた。
目下は、渡辺さんを傷つけた誰かより、今傷つけているかもしれない僕をどうにかすることだ。
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