第10話

 梅雨が尾を引き、八月に入ったというのに蒸し暑い日々が続いていた。しかし、外気温など関係なしに正装が義務付けられている行事はいくつか存在する。上着を早々に脱ぎ、内ポケットにねじ込んだハンカチは汗で湿ってもう使い物にならない。招待状に記された目的地は最寄り駅から徒歩五分という良立地にあった。しかし、この暑さでは着く頃には全身汗だくなっていた。

 結婚式場と言われると凡そチャペルのような建物を想像してしまうが、今回招かれた会場は古風な屋敷であった。にこやかな笑顔というよりかは、落ち着いた微笑。晴れやかなおめでたい雰囲気よりかは、厳かな神秘的な雰囲気。日本人ならではというものは、ここにも浸透しているのだろう。

 全面ガラス張りの窓から庭園を一望できるようになっていて、今では忘れ去られている和の雰囲気がそこかしこに散りばめられている。悠々と鯉が泳ぐ池には橋が掛かけられ、真ん中にある野外式場には長椅子がきれいに並べられている。

「受付はこちらです」

 入り口付近に立ち止まっている僕の歩を進めるように、厳かな雰囲気を破って少し張った声が聞こえた。軽く手を上げた女性が催促する。

「新婦友人は私に、新郎友人は彼にお願いします」

 やっと近づいて来た僕に、今度は静かに和を保ちながら話し掛ける。祝辞と祝儀を渡すと丁寧なお辞儀を返された。

「控え室はそちらです。式が開始するまで今暫くお待ち下さい」

 手洗いを済ませ控え室へ行くと、既に多くの参列者が集まっていた。正直一人でやってくる人は少ないだろう。皆、塊を作って笑っている。見知ったような顔もちらほらいるが、そこに混じっていくほどの度胸は僕にはない。結局、端に空いていた机にひっそりと腰を下ろす。余裕のない性格からか、かなり余裕をもった行動をするほうで、式が始まるまでには二十分以上ある。

「あれ、千埼じゃん」

 僕の名を呼ぶ人間がいるかもしれない空間で、それが聞こえたなら、少しの反応を返してしまうのはしょうがないだろう。聞こえた声に気合い和紙から目を離すと、目の前に洒落たスーツをきっちりと着こなした男がいた。彼は確実に僕に目を向け話し掛けている。『何か』が腹の中で宙返りし、背中側にくっついた。

「……あ、久しぶり」

 彼は、誰だろうか。そう思ったが、言葉が先に出てしまった。

 今回の主催者である新郎新婦は、小学校の同級生であるので、必然的に同窓会となっているのだから、彼が僕を知っていても不思議ではない。ただ、僕がそれを思い出せるかは重要でないはずだ。僕の言葉に彼は嬉しそうに笑う。

「ほら、やっぱりいるじゃん」

 彼の後ろからもう一人こちらに来る男がいる。その男は雰囲気こそ変わっているが、同じくクラスの木島敦彦だと分かった。何故かは分からないが、長い前髪に隠れている目に当時の無邪気さを湛えているようだ。

「ここ座ってもいいかな?」

 人が多いとはいえ、ホテルの一室にこれでもかと机と椅子が用意されているのだから、他に空いているところはもちろんある。それでも彼と木島は僕との相席を望んだ。

「こいつさ、自分の結婚式にお前を呼べなかったの悔しがってさ。絶対来ないって言い張ってたんだよ」

 木島は得意気に彼の肩を叩き、大げさに笑う。

「何言ってんの?  お前はちょっと黙ってて」

 彼はムッとした表情で木島を威嚇するが、その手は退かしたりはしない。彼らは当時のまま年を取り、更に仲を深めているのだろう。

「まあ。お前、昔から連れないからね」

 彼は何かしらを僕に感じさせようとしているが、それを知る術を持っていない。

「お前ら仲良かったのになあ。まあ仲良かったからこそ、みんなの前で大喧嘩もするわな」

 彼は鬱陶しそうに今度こそ木島の手を振りほどく。木島はおどけてわははっとまた笑った。

「あれ、もしかして忘れてる?」

 一通り笑うと木島は僕に向かって爆弾を投下した。

「こいつはこんなに引き摺ってるのに」

 僕に身を寄せて囁く言葉は、彼の目玉をひん剥かせた。

「ほんと何なのお前」

「いや、まじで千埼忘れてそうだから」

 彼が今度は木島をどつき、誤魔化す様に笑う。

「まあ、覚えているよ」

「……相変わらずだな」

 僕の空返事に彼と木島は口をそろえてそう言う。縮こまっていた『何か』がピンポン玉のように腹の中をはじき回り出した。当時の事を覚えているかと言われれば、鮮明に思い出せることは数少なく部分的で、彼らと果たして話したことさえあるのかどうかも怪しいところだが、彼らは僕の覚えていない僕を覚えているようだ。それがどうも腹にいる『何か』を暴れさせている。彼らはどういう風にあの日々を覚えているのだろうか。薄れ掠れていく遠い日々は、本当にあったことかどうかさえ怪しい。


 夏の暑さの中、外で式を挙げるなど無謀ではないかという思いとは裏腹に、意外にもそれは開放的で見入ってしまうような魅力があった。蒸し暑いと感じていた外気温も日が傾くにつれ和らいで、過ごしやすい陽気になる。袴姿の花婿と白無垢姿の花嫁は、青空と日本庭園によく映えていた。その後ろを手直しのため付いて回る中年女性が、厳かな雰囲気を壊しながら度々視界を掠める。

「あのおばさん、何?」

 一応周りに気を使ったのか、右隣にいる木島が控えめに呟く。確かに、大袈裟に言えば新婦が一歩進む度に白無垢の裾を引っ張ったり、顔に布らしきものを当てたりと積極的に関わっている。参列者は入場してくる二人を収めようとカメラを構えるが、シャッターチャンスを与えてくれない。

「ちょっとじゃまじゃね?」

 木島の言葉に彼が僕を挟んで隣からチョップをくらわす。この席順になったのはなぜだか今だに分からないのだが、彼と木島が嬉しそうに僕を真ん中に座らせているので断ることは到底出来なかった。二人の小競り合いはさておき、新郎新婦が参列者の正面に立ち、儀式めいたしきたりをこなしていく。式が始まってからは大人しくしている『何か』も腹の中心に集まり、固唾をのんで見守っている。

 二人は笑い合い、きっと幸せを感じ合っていた。


「この後、用事なかったら飲み行かない?」

 式と披露宴が終わり帰路につこうとした時、彼が不意に投げかけた。何の準備もない僕はそれを全身で受け止め、式で疲れ強張った体は、気づいた時には首を振っていた。

「ごめん。少し疲れたから」

「確かに疲れたよな。いろいろ久しぶりだし」

 彼は惜しむように気にしないでと言う。それなのに僕はまだ彼を思い出せないでいる。

「また今度、飲み行こう」

 離れがたい空気に思ってもみないことを口走るとはこのことで、言ってからすぐ取り消せないことに気付く。

「え、あ。そうだな、そうしよう」

 彼はまた嬉しそうに笑った。それに『何か』が回転して僕を責める。

「飲みいく時は絶対呼んでねえ。はぶはなしよ」

 他の集団にいつの間にか混ざっていた木島が話を聞きつけて僕と彼の肩を組み、酒の匂いを帯びた息を吐き出す。

「ちょっと、まじで止めろ。この酔っぱらいが!」

 彼が木島の手を振り払いながら叫ぶ。彼の顔も同じように赤く酔いが回っていて、声がだんだんと大きくなっていく。攻防に打ち勝った彼がこちらを向き、また何とも言えない表情をする。

「お前。変わったな」

「……。どんな風に?」

 何年もこの身体で、この顔で、生きてきた自分の変化など手に取るように分かるものだが、彼の目からはどう見えているか少しだけ気になった。

「昔より取っ付きやすくなった。それに分かりやすい」

 ニヤリと悪戯に笑うその顔に記憶が重なって、『何か』が急に増殖し僕の腹の中を満たす。

「絶対、連絡しろよ」

 彼と木島に念をおされ帰路につく。振り返ると気付いた彼が手を軽く振り、その隣で木島が何か言って、彼がまた木島を威嚇する。腹一杯の『何か』が身体を温め、踏み出した足を軽くするような気がした。


 久しぶりに足を運んだ店内は活気に満ち、店長と咲ちゃんを忙しなく動かしていた。店長は僕が来るなり、いつもの席に座らせ、新メニューを開発中なので食べてほしいと依頼してくる。味覚についても正直自信はないのだが、曰く頓着のない人がどう感じるかを知りたいそうだ。

「砂肝とレバーのコンフィです」

そう題されて差し出された小鉢に鳥レバーが盛られていた。聞きなれない料理名だが、オリーブオイルの香りから洋風な装いが感じられる。そして、見た目はとても洒落ている。格好だけでもと評論家のごとく見た目を観察していると、何を言ったらいいのか余計に分からなくなった。

「まあ、とりあえず食べてみてください」

 店長の救いの一言で、何も発することなく小さな塊を口に放り込む。オリーブオイルが鼻を抜け、今まで食べたことの無いようなねっとりとした食感が口に残る。ともすればチーズのような風味を感じる。なるほどつまみにはもってこいだ。

「美味しいです」

 僕の安直な感想に、店長は満足気に頷く。新メニュー開発とは言ったものだ。店長は笑みを深め、こちらに手を伸ばし自分も一粒食べる。

「もう少しニンニクを足して、来月からメニューにしますね」

 嬉しそうに笑うその顔に、それ以上に何の意味があるのか、僕には知る由もない。

 渡辺さんが暖簾をくぐったのはそれから数十分した頃で、僕を見つけると迷わず隣に腰を下ろした。それを見つけた咲ちゃんが仕事そっちのけで飛びつくようにやってきて、店長から咎められる。その一連の動きはここ最近習慣化されていて、それがすむと渡辺さんと咲ちゃんは顔を見合わせて笑い、店長はしょうがないと肩を落とす。下手なコントよりも息の合った連携だ。

「千崎さん、何かありました?」

 渡辺さんは景気よく飲んだジョッキを机に置いた。

「なぜそう思うんですか?」

 質問に質問で返すのは卑怯かもしれないが、どうしてか気になった。いつかのように彼女の顔が暗く、少しの隈ができているせいかもしれない。

「何か……。いや、何となくです」

 やはり明確な答えをよこすことはなく言い淀んでその話題を流す。彼女は手を組んだりほどいたりして気を紛らわしている。不意に机の上に置いてある僕の携帯電話が振動した。

「彼女からですか?」

 いつものように揶揄する言葉もまして覇気がない。

「小学校の同級生です」

 液晶に塩見翔也の文字が躍っている。連絡先を交換して初めて彼が塩見であることを思い出したのだった。気づいてしまえば、彼の言動は確かに記憶の塩見と一致していた。

「もしかして、あの結婚式の?」

「まあ、そこであった旧友です」

 柄にもなく旧友などという言葉を使っていることが、『何か』をくすぐり、体が自然と前かがみになる。

「へえ、良かったですね。本当に友達いたんですか」

 渡辺さんは、どうしても上から辛辣に物申したいらしい。だからかは分からないが、珍しく彼や結婚式について話したくなった。

「久しぶりに参列したんですが、和の装いで綺麗な式でした」

 言葉に出してみると、腹の中にある不安定な『何か』が明確な形になるような気がする。その形を増やしたくて、僕はそこかしこに散らばる『何か』をかき集める。

「温かさがより強く、大勢に祝福されている二人は幸せを体現しているのだと思いました」

 珍しい僕の長丁場の演説を、渡辺さんは珍しく口を挟まず聞いていた。彼女は手遊びを止め、下ろした髪で顔を隠している。

 あれもこれも見たものを幼稚園児のように報告をしている自覚はあったが、話が止まらないのは久しぶりに飲んだ酒のせいだろう。それを止めたのは小さく鼻を啜る音だった。僕の自己満足な体験談を聞きながら彼女は泣いていた。俯いた顔は髪のベールでその表情を見せてはくれない。ただ、きっと泣いている。それだけは分かった。それに気づいた時には、『何か』が溶け下へ下へ落ちていき、内臓をぺしゃんこにしていた。僕がそれに気づき、気づいたことに彼女が気づくと「そうですか。本当に……良かったです」と思い出したかのように合いの手を入れる。

『何か』が乾いて枯れて底に砕け落ちる。落ちたところから腹を侵食し暗く黒く染め、うねうねと小さな蛇のように身体中を徘徊していく。

「そろそろ、帰ろうかな」

 彼女の声にもう感情は見当たらない。

「送ってきます」

 咄嗟にそう言うとやっと顔を上げた彼女の赤い目が僕を捉えた。

「咲ちゃん、会計をお願いします」

 駆け寄ってきた咲ちゃんは、渡辺さんを心配そうに覗くも声を掛けられないでいる。素早く会計を済ませ、何か言いた気な咲ちゃんに見送られながら、僕と彼女は店を出た。


 渡辺さんの足取りは、今までないくらい不安定で、質の悪い酔っ払いの象徴のようである。腕を取って地べたに座らないように、地に足を付けさせる。

「大丈夫ですか?」

「……涼しい」

 僕の問いかけに答えることはなく、小さな声で呟き襟元をパタパタと扇いでいる。太陽が置いていった暑さもこの時間になると随分和らいでいた。渡辺さんの目を赤く染めているのは、酒のせいでもあるかもしれない。

「何で帰りますか? 電車?」

「タクシーで」

 自分の状態の把握は出来ているようだ。タクシー乗り場までの距離を何んとか運ぼうと、脇の下から背中に手を回し、彼女を担ぐようにして歩く。触れた肌が熱い。さっきまで、不服を申し立てていた『何か』は現金なもので、今度は熱を持って丸まって僕の体温を上げる。

「私は……」

 覚えたての日本語を披露する子供のようにポツリポツリと言葉をこぼす。

「上手く生きてきたんです。ちゃんと周りに合わせて。操り人形みたいに。だらりと全身をぶら下げて、こうね」

 彼女は空いている手を空中に上げ、下に繋がる何かを操るように指を動かす。

「風に吹かれれば揺れるし、雨に降られればその色に染まる」

 空に浮いた腕で何かを掴むように拳を握る。

「そうやって当たり障りのない人生を歩んできたんです」

 やはり彼女の目からは感情が溢れようとして、寸前でそれを止めている。感情を露にしたくなくと必死に抵抗でもしているのか眉間には皺が刻まれている。『何か』が震えて手を生やし心臓を掴むので、僕も自然と目頭に力が入った。

「だから、まあ間違うこともあったけど」

 僕に向けて話しているのかは定かではないが、僕は頷きながらそれを聞く。もしかしたら彼女も僕のように彼女の中にある『何か』と戦っているのかもしれない。

「でも今、仕事がちゃんとあるし。家族も優しい。ありがたいと思ってる」

 本当に、本当にと何度も繰り返す。

「これが世にいう幸せなんだと。だから、これといって不満もないし。私は幸せです。幸せなんです」

 強調するようにそれを繰り返す。言葉にすることで形ができると信じ、彼女は何度も口に出すのかもしれない。

「幸せなんです」

 もう一度そう言うと、遂に彼女の目から感情が溢れた。堰を切ったように流れ出すそれは止めどなく頬を濡らす。彼女は拭うこともせずに、落ちていくそれを目で追っている。頬を伝って勢いを増し、空をきって地面に吸い込まれていく。

 どうして綺麗だと思うのか。彼女の感情と随分かけ離れた『何か』が僕の中に生まれるのを感じた。彼女の感情を知りたい。流れるそれに触れたい。衝動はその一瞬を過ぎれば、気の迷いで済むことを知っている。僕は『何か』がまた動き出す前に、腹を撫で、ともすれば動きそうになる手を、強く握り締め抑え込んだ。

 駅前の乗り場についたドンピシャなタイミングで、一台のタクシーが横付けされる。運転手が渡辺さんを手招きした。

「千崎さん。ありがとうございました」

 乗車際、僕の手から離れ一人で立った渡辺さんはやっと顔を上げ、一度僕を見て頭を下げた。赤く腫れた目にの中にはもう感情はなく、淀んで底が見えない『何か』がある。

「大丈夫ですか?」

 僕は馬鹿の一つ覚えに繰り返すしか出来ない。

「タクシーに乗るだけなんで、もう大丈夫ですよ」

 渡辺さんはもう一度「ありがとうございました」と言ってタクシーに乗り込んだ。触れていた体温が離れる瞬間、引き戻したいと僕は思ったはずだ。それでも彼女を追った手は、中途半端に宙に浮いたまま動かなかった。僕にはその意味が分からない。

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