第9話
梅雨の希少な晴れ間。気象予報士が言っていた通り、久しぶりの太陽は容赦がない。気温は三十度を越え、既に夏を感じられるほどだ。一日だけの晴天ということもあり、通り過ぎる家々のベランダには洗濯物や布団がこれでもかと干されている。けれど、梅雨であることには変わりないので、相変わらず湿度は高く、重たい空気が歩を進めるたび身体にまとわりつく。上着を羽織ってきたのが敗因か、すでにTシャツは汗ばんでいた。
待ち合わせの最寄り駅には集合時間十分前に予定通り到着し、改札の前の壁際を陣取る。
「お兄さん。よかったらどうぞー」
構内のビラ配りに珍しさを感じ眺めていると、その視線に気付いた男性に無理やり団扇とチラシを押し付けられた。まあ丁度いいかと団扇を見ると見事な花火の写真が載っている。今日この辺りで七夕祭りが開催されるようだ。裏には場所と時間がでかでかと赤字で記載されている。扇いでみると生ぬるい風が頬を撫ぜた。ないよりはましだろう。
集合時刻二分前に、渡辺さんが軽く手を上げ、小走りにやってきた。『何か』が一つ脈打った。彼女が視界に入るとだいたい『何か』は脈を打つ傾向がある。その仮説を肯定するように『何か』がまたドクンと動く。
遅れていないのに謝罪をし、さあ行きましょうと先導する彼女と連れ立ち、改札を抜け、数分間隔でくる電車に乗って目的地へ向かう。電車内を走り回る子供が母親に引っ張られ怒られたり、男女のカップルが仲睦まし気に寄り添っていたり、車内は賑やかだ。久しぶりの晴天に浮かれ、多くの人が出歩いているのだろう。僕もその中の一人であるということが、地に足をつける。
やはり渡辺さんは定位置から外を眺め、流れる景色に変わらない表情を送っていた。目的地が見えるとその時だけは嬉しそうに、こちらに報告を寄こした。
最寄り駅を出ると、ことさら日差しが厳しく、思わず目を瞑る。渡辺さんは手で日差しを遮り、照り付ける太陽を睨んだ。
「ほんと、こういう日に限って暑いですよね」
細い腕で、細い首を垂れる汗を拭う。『何か』がまた心臓を叩く。
「日焼け止め持ってくればよかった」
「コンビニ寄ってきますか?」
僕の提案に渡辺さんは小さく首を振る。
「大丈夫です。多分、青葉パークにもあると思いますし」
青葉パークという、この地域にある唯一の遊園地が今回の目的地だ。数年前まではCMでよく見かけたが、ここ最近は名前すら聞かない。数年前、『空飛ぶジェットコースター! 君が空を制覇する』という謳い文句のジェットコースターが話題を集め、地域内外から多くの人が訪れているというのを聞いたことがあった。
流行同様、エンターテイメントも一過性のもので、どんなに盛り上がり話題性があろうと、時間が経てば廃れていく。常に次を見据えていかなければ埋もれていくものだ。青葉パークはそのお手本のように展開されている。数年後には閉園なんてのも、もしかしたらやぶさかでないかもしれない。
最寄駅から青葉パークまでの短い距離を歩く。暫くして少し前を歩く渡辺さんが振り返った。
「どうして少し後ろを歩くんですか。なんか従えてるみたいで嫌なんですけど」
眉間に皺を寄せ、不服を露わにしている。特に理由はないが、自然と一歩後ろを歩いてしまうのは何故だろうか。腹に沈んだ『何か』が回転し分裂して頭にくっ付き、僕の脳もくるくると回す。頭が揺れ、世界が回る。
「隣歩くの嫌なんですか?」
「そういうんじゃないです」
「じゃあ、はい。並んでください!」
彼女は僕の腕を引っ張ると隣に並べ、後ろに下がりそうになる背中を押す。『何か』が僕の目も回そうとし、それを止めようと足掻くも止まらず途方にくれる。目が回りそうになりながらも、彼女の隣を歩調を合わせて歩くと、回転が少し弱まった。
混んでいるだろうという予想に反し、青葉パークは閑散としていた。入場口から園内を見ても全貌は分からないが、案外広いので空白が余計に目立つのだろう。見える範囲には家族連れが二組いるだけで、その他に客はいないのではないかと思うくらい静かだ。園のテーマソングが寂しげに流れている。
「あ、イベントやっているんですね」
園内マップを片手に立ち止まった渡辺さんに倣い、マップを広げる。それを見る限りでは、今年導入された新アトラクションやイベントがあるらしい。時期的なもので七夕のイベントも行っているようだ。
「何処から行きましょうか? 千埼さんリクエストあります?」
「いや、別に」
「駄目ですよ。主体的にならないと。分かるものも分からなくなりますよ」
渡辺さんの良く分からない指摘に押し負け、マップをもう一度ぐるりと見渡す。
「じゃあ、このジェットコースターにします」
「千埼さんってジェットコースターは得意なんですか?」
「乗ったことがないので、何とも」
「そうですか……。一度は乗らないとですよね?」
看板商品を取りあえずで選んだものは、あまりお気に召さないらしい。選ばせておいて往生際の悪い渡辺さんに容赦なく頷く。彼女は強がっているのだろうが、顔が強張っている。『何か』が腹の外側を二往復撫でた。
一世を風靡したジェットコースターとあり、その姿は中々に巨大で、小さな僕を圧倒してくる。コースターが通るレールの始めと最後の登りが一際大きく造られ、まさに天駆ける竜のようだ。
「間もなく出発します。こちらにどうぞ」
係員の誘導で乗り場に上がると、一組の家族がレールの向こうを覗いていた。人数が揃わず出発出来なかったのか、他の客を待っていたようだった。少ない方に人数制限があると、この閑散ようではなかなかに出発できないだろうに。小学校低学年くらいの男児が僕に気付くと、母親の手を引き落ち着きがなくなった。
「やっと乗れるね」
「お行儀よくしてないと落ちちゃうよ」
「そんなの絶対ないもん」
半信半疑でそう返すも、母親の言葉を信じてか、忙しなかった手足を落ち着ける。そして、背筋を伸ばして、ジェットコースターへと一歩踏み出す。見守っている母親は微笑みながら、彼が乗り込む手助けをしていた。
コースターは二人掛けのシートが五列あり、最前列は運転席のようになっている。てっきりこの家族が最前列を陣取るのかと思いきや、父親と手を繋いでいた女児がどうしても後ろがいいと懇願したので、彼らは一番後ろから詰めて席に乗り込んだ。
「千埼さん、どこにします? まあ、せっかくなので」
渡辺さんは僕に聞いておきながら返事も聞かずに最前列へさっさと乗り込んだ。その隣に腰を下ろすと係員がやって来て、身体を挟むように安全レバーを下してくれる。
「どきどきしますね」
渡辺さんは安全レバーを両手で握り締めながら前を見据えている。細い筋張った手に血管が浮き出ていた。彼女は今何を考え、感じているのだろうか。顔色を窺おうにも、吹いた風に横髪が流れ、その表情を隠す。『何か』が今度は心臓にぶつかって揺らし、その衝撃で口を開いたが、結局何も音を出さずにそのまま閉じる。僕が何か言う前にジェットコースターがぎこちなく進み出した。
乗ったことがなくても分かるジェットコースターの典型である始めの登り坂。道は途切れ、先が見えない。そのくせ園内と近くの海が一望できるロケーションを少しゆっくりと見させるのは、感嘆と恐怖の落差をより際立たせるためだろうか。僕は重力と少しの風圧によって自然と背もたれに埋もれる。ジェットコースターはこれから起こる恐怖を煽るようにレールを軋ませている。その思惑通り最後尾の家族がきゃあ、わあと叫び、それでもその時を待つ。隣から少し唸るような押し殺した声が聞こえた気がした。程なくして頂に到達したジェットコースターは、少し速度を緩め、一拍置いて下へと真っ逆さまに落ちた。『何か』がふわりと浮かび上がり喉にちょっかいを出すので、踏ん張るように身体に力が入る。
頬を掠める風が痛くなくなったころには、右へ左へと走り回るジェットコースターに身を任せ、前方の空を見上げていた。時より聞こえる蛙の声に隣へ目をやると、渡辺さんは目を固く瞑り、硬直させた身体を前のめりにしてレバーにしがみつき、ただただ何かに耐えているようだった。
スタート地点に戻ってくると安全レバーが自動で外れ、係員が下車を促す。彼女はうつ向いたままなかなか顔を上げない。
「渡辺さん、大丈夫ですか?」
「あ、大丈夫です。ちょっと……酔ったみたいです」
ジェットコースターで酔うことがあるのだろうかという疑問を安直に聞いていい雰囲気ではない。心もとない足取りの彼女の手をとると『何か』が脈打って僕を熱くする。しかし、触れた指先は冷たいままだ。
「だ、大丈夫ですよ」
僕の手を借りることなく、そのまま遠慮がちに押し返す。目的を失った手は、空中をさ迷い、暫くすると定位置に戻っていった。
渡辺さんは僕を追い越し、さも次に行きたいとはしゃぐかのように不調をひた隠しにしているようだ。ジェットコースターは苦手だったのかもしれない。 ジェットコースターの乗り場から退場すると、体調が悪くなった人はここで休憩してくださいと言わんばかりにベンチが並んでいる。
「ちょっと休憩しませんか?」
「え、もうですか?」
疑問を呈しているにしても嬉しそうにこちらを振り返る。
「初めて乗ったので少し疲れました」
「それじゃあ、まあ、しょうがないですねえ」
彼女は我先にとベンチに向かっていることに気付いていない。腰を下ろすと盛大なため息が落とされる。
「何か飲みますか?」
僕の質問が聞こえているはずだが返事はない。俯いた頭を両手で囲っている。
「僕はお茶買いますけど。水とかいらないですか?」
「え、えっと、じゃあ、水をお願いします」
急いで自販機に駆け寄り、水と茶を購入して、彼女の目の前へ戻ってくる。
「ありがとうございます」
彼女は素直に受け取ると、小さく頭を下げた。そして、財布から小銭を出すとこちらに押し付ける。
「百五十円で足りますよね?」
「これくらいいいですよ。それに百三十円でしたし」
それでも有無を言わさず手に押し付けるので、渋々受け取る。二十円の儲けが出てしまった。それに満足した渡辺さんは、ペットボトルに口をつけ、ゴクゴクと喉を潤す。『何か』も水分不足を訴えているのか、僕の腹を殴るので直ぐに買った茶を煽った。僕と彼女の間に生温い風が吹き、湿った唇を撫ぜた。
二十分弱、ベンチで座っていると公園で自然観察でもしているようで、今日一日それでもいいかと思った矢先に、渡辺さんが動き出した。「よしっ」っと気合を入れてから、園内マップを取り出して、次の行先を決める。そして、立ち上がると「行きますよ」と僕を先導した。相変わらずの彼女に戻ったことに『何か』は満足げだ。園内の散策を本格的に開始する。
メリーゴーランドを大人二人で貸し切った後、渡辺さんが突然僕の腕を引いた。『何か』が心臓を叩く。
「あ! これ書きましょうよ」
彼女が指さす先には『あなたの願いを書こう!』とのうたい文句で、大きな模造紙が壁一面に貼ってある。そこに笹飾りの絵が大きく描かれ、客がそれに短冊を貼って願いを祈るイベントらしい。何枚か貼り付けられた短冊が剥がれそうになり、風にはためいている。
渡辺さんは長机に無造作に置かれた短冊へ早速手を伸ばし、願いを書き始めた。もう一度模造紙を見る。絵に描かれた笹にまで願いたい思いなど、果たして僕の中にあるのだろうか。
「千埼さんは書かないんですか?」
素早く書き終えた渡辺さんは、短冊を笹の絵に張り付けている。僕は青色の短冊を手にしてたまま固まっている。自宅でゆっくり考えたら何か浮かんでくるのかもしれないが。
「渡辺さんは何て書いたんですか?」
「それは秘密です。絶対に見ないでくださいね」
貼った短冊を僕の視界に入らないように隠す。
「願い事は人に見られない方がいいんですよ」
その理屈でいくと、願いを不特定多数の人目にさらすこのイベント自体が破綻してしまう。手に持った短冊を上着のポケットに滑り込ませる。渡辺さんの興味は、貼られた他の願いに向いたようだ。自身の願いを見られたくはないが、他人の願いは気になるらしい。
「『お金がたまりますように』願うだけで溜まったら苦労ないよ」
世間を切るコメンテーターのように願いを切っていく。
「『けいこちゃんと付き合えますように』それこそ行動だけが結果に繋がるでしょうに」
多岐にわたる様々な願いは、渡辺さんによって砕かれていく。彼女は自分の願いにまで難癖をつけそうだ。
「小腹すきません?」
ざっと目を通し他人の願いに興味を失った彼女の体は、その役割を思い出したようだ。
園内唯一のレストランは、商業施設のフードコートのような簡素な休憩所であった。年季の入った建物は、園内同様少しの寂しさを纏っている。昼を大分回った時間に利用客は全くいない。それどころか、園内ですれ違う客は午前に比べ、減る一方であった。ホットドックを食べ終わった渡辺さんは、おでこに張り付いた前髪を鬱陶しそうに払う。
「何だか暑いですね」
一応室内であるので空調が効いているはずだが確かに暑い。貰った団扇がそういえばあったと鞄から取り出し扇ぐと多少ましになる。
「そういえば七夕ですね」
渡辺さんは団扇を見て、今更なことを言う。
「ここいきます?」
彼女が指差す団扇の裏には七夕祭りの詳細が記載されているはずだ。
「どうしますか?」
あくまでこちらの判断で行動が決まる問いかけだが、その答えは決められているようで、僕は頷くことしかできない。『何か』が震え出したのはどうしてだろうか。
七夕会場である駅前に戻ってくると、そこはバーゲン会場のように人で埋め尽くされていた。提灯で駅前大通りを照らし、特大の笹飾りを配置して、さらには浴衣姿の参加者が数多くいる。夏祭りの様相がそこにあった。通常とは全く異なる雰囲気に、『何か』が踏み出す足を戸惑わせる。
「すごい人ですね」
ちょうど招かれアーティストによるミニライブが始まったところらしく、人の波は完全に止まった。身動きが取れない。爆音を上げる前方で団扇が舞っている。
「千埼さん。あっちから行きましょう」
渡辺さんが僕の腕を掴み、波をかき分け、そこから連れ出す。彼女は上手い具合に人の合間を縫って止まることなく進んでいくが、その度僕の肩は人にぶつかり祭り客の顔を歪めた。歩を進めるたび『何か』が顔を引っ張り俯かせる。歓声。拍手喝采。ステージから離れているはずだが、人々の声は責め立てるようにこちらに押し寄せてくる。そして、一際大きな地響きが空に上がった。
「わあー。きれー。大きい」
「始まった。急げ急げ」
止まった渡辺さんに顔を上げると赤が混じった少し白い空に、煙がたなびいている。花火が上がるにはまだ少し明るい。いつの間にか離された腕に『何か』が集中して熱を帯びている。
ひゅううううう、どーん。僕と彼女の間に落ちた沈黙を震わすように、まだ明るい空に花が咲く。それは薄く儚く、少し弱い。強く響く音だけが変わらずに、人々を見上げさせ、その歩みを止める。しかし、人々を止められるのは一瞬で、流れは自ずと動き出す。彼女も僕も今度は逆らわず、流れに身を任せて歩き出した。
りんご飴に金魚すくい、からあげ、それとチョコバナナ。四つに一屋台に同じ文字が並んでいる。誰もが購入を検討してリ冷やかしたりしている祭りの花形に目もくれず渡辺さん歩き続ける。花火会場から大分離れ、人通りも少なくなった公園へ入っていく。
「ここ穴場なんですよ」
木に囲われた公園では凡そ花火など見れないと思いがちだが、なるほど、座ってみるとそこだけ切り抜かれたように見える。
「綺麗ですね」
僕の平凡な感想に彼女は小さく頷いた。花火が上がる度、陰影が濃くなる彼女の顔に『何か』を感じる。
「幸せってなんですかね?」
渡辺さんは、僕に聞いているのか、自問自答しているのか、分からない声量で花火に隠す様に零す。
「千埼さんは、今幸せですか?」
瞼を少し下ろし、弱々しく言葉を吐く彼女に『何か』が高波のようにうねりをともない、腹の中を掻き交ぜる。僕らは互いに自身のことを棚に上げ、他人の事ばかり気にするふりをするが、結局ほしいのは自身の答えだけだ。『何か』がうねる速さを上げ、心臓をも一緒に締め付ける。
「分からないです」
応えた声には覇気がなく、花火の音にかき消された。
ひゅううううう。ぱらぱらぱら。季節を過ぎた花が方々に散り、徐々に上へと昇って消える。そして、一息ついたところでとどめの一発。どんと心臓を震わす。
「私は幸せですよ」
渡辺さんの小さな決意は儚くも空に消えていった。
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