第8話

 梅雨は例年七月の半ば過ぎまで続き、その期間中に恩恵と同時に憂鬱と湿気をもたらす。今年は八月初めまで長引きそうだと専門家が口を揃えて言っていた。その意見を証明するかのように、今日の空模様も鈍よりと暗い。今は降っていないようだが、会社の窓から見える歩道は黒く濡れ、ここのところ乾きを知らない。歩道に咲いた傘が、暗い世界に色を添えている。節約と称して照明をつけないこの淀んだ廊下にも、花を飾れば、少しはましになるだろうに。

「千崎君」

 部署に戻ると誰かの机を囲んで立ち話していた先輩が、僕を見つけて近寄ってきた。さり気なく一番奥手の机に目をやるとやはり主はおらず、雑談が蔓延しているこの空間の理由を知る。部長は不在のようだ。

「今日の辞令聞いた?」

「いや、まだです」

「決まったみたいよ。あの件……転勤の話よ」

 目の前まで来た先輩が腰を屈め、耳打ちした。

「ああ、海外転勤の」

 皆知っているのなら内密に話す必要はないのに、先輩は声を落とさない僕を諫めるよう口に人差し指を当てる。

「千崎君に話が来てたって聞いたから。あれかなーと思って」

 申し訳なさそうに先輩は更に声を落とす。その件は何人かに話されているということを知らないのだろうか。

「それでね、田辺君と新塚さんが行くらしいよ」

 僕が話を聞いていないと思ったのか、近くにあった棚に乱暴に手を置き立てた音で聞く耳を持つよう促す。

「田辺君はこの部署のホープだから、若いうちにいろいろ経験しないといけないし。新塚さんは部長のお気に入りだからね」

 先輩は呼び戻されるまで田辺の自慢と新塚さんの恨み言を僕に言い聞かせた。最後に満足そうに僕の肩を叩くき、皆の所に戻っていく。やっと自分の机へ足を向けられる。正直、先輩が話をするまで海外転勤について失念していた。部長に将来を考えろと言われ『何か』が僕に衝撃を与えたはずだが、完全に忘れていた。

 自分にも他人にも、相も変わらず無関心で生きているから、簡単に忘れることができるのだろう。何もかもがどうでもいいのかもしれない。今日も空を支配する鈍とした雲のように、『何か』が腹の中にはっきりと生まれる。

 席に座り、パソコンを立ち上げ、重要フォルダを開くと数字が書かれたファイルが並んでいる。この内三つの資料は、今日中に仕上げなければならない。『何か』が頭に自分の分身を投げてきたので眩暈がする。目頭を押さえながら、目を瞑ると少し楽になるような気がした。

「千崎君」

 瞑った目を開き声の方に向けると、どこかに行ったはずの先輩がいる。まだ言い足りないことがあったのだろうか。

「えっと。あれだよ。海外転勤だけが全てじゃないから」

 早口に言いたいことを並べる。

「本社で頑張ってる人もいるからね」

「まあ、そうですね」

 流石にだから何ですかなどと無粋な質問はしない。

「だから、ね!」

 手を大きく動かし全身で先輩が必死に何かを訴えている。その後方には先輩の行く末を見守っている人たちがいて、僕と目が合うと苦笑いで頷き、最終的に目線を逸す。

「頑張ろうね! 千崎君」

 先輩はしかめっ面のような笑い顔で、頑張れとエールを送る。僕はそれをどのように受け取ったらいいのかと考えあぐね、はいともいいえとも取れない曖昧な応答を返すにとどめた。

「あ、あれだからね。千崎君は頑張っているから、将来だって大丈夫だよ」

 意見にブレがある先輩は、何かを誤魔化す様に手を左右に振ると僕の言葉は一言も聞かずに「じゃあ、戻るね」と今度こそ帰っていった。『何か』が腹の中で黒い雨を降らせる。

 深く息を口から吸い一度止めて、ゆっくりと鼻から吐く。誰に聞かれることもなく、ため息は消えていった。身体全体に広がる『何か』がそれに反応して、一斉に動き出す。皮膚の下を蠢くそれをどうにか消したくて腕を擦るが、幾らかましになる程度で消えはしない。

 早く仕事をしなくては今日中に終わらない。無理やり手を動かし、出来ることならまた忘れることにしたい。


「千崎さん?」

 咲ちゃんに呼ばれて、始めて気付く。

「零れてますよ」

 手に持ったジョッキからビールが零れ、スラックスを濡らしていた。太ももにぺたりとある感触が今更不快感を呼び起こす。

「拭くもの持ってきます!」

 厨房に走った咲ちゃんはものの数秒で戻った来た。差し出されたタオルを受け取り拭う。幸い下着は無事のようだ。

「咲の話、全く聞いてなかったんですねー」

 頬を丸く膨らませて、プスプスとわざわざ口で言い分かりやすく怒りを表している。腰に手を当てている風体は、子を叱る母親のようだ。

「咲ちゃん、何してるんですか?」

 奥の方から出てきた店長がスラックスを拭く僕を目に留めると疑いの目を咲ちゃんに向けた。

「ええー。私じゃないですよう。千崎さんの自滅です」

 店長に抗議する咲ちゃんに同調し、自己の事故であることを肯定する。

「そうでしたか。大丈夫でしたか?」

「大丈夫です、むしろすいませんでした。それと咲ちゃん、ありがとう」

「別にいいですよー」

 咲ちゃんは、いつもの笑顔で手を振る。それを見ていた店長が、ふぅと溜め息をついて諭すように零す。

「咲ちゃん。それでも千埼さんに迷惑ですよ」

 咲ちゃんにそれを感じたことはないのだが、店長はどの態度にそれを感じたのだろうか。

「あくまでもお客さんなんだから」

「でも……」

 店長の窘めに、咲ちゃんはなおも食い下がる。譲れないことがあると表情が語っていた。

「千崎さんは、香織さんの特別な人だから!」

 『何か』が曇天を駆ける稲妻のように脳を貫く。その後、その影響で脳の機能が停止し、僕は何も分からない。

「香織さん、最近楽しそうじゃん」

「まあ……。でも、それは理由にならないよ」

 咲ちゃんと店長の声が聞こえない。いや、聞こえてはいるが、役立たずの脳を介さないで、右から左にそのまま抜けていく。その音は意味を持たない。

「咲だってね、分かってます。けど、香織さん、笑ってたじゃん」

 少し嗚咽混じりの声に、脳の機能が戻ってくる。口を尖らせた咲ちゃんが鼻を啜り、店長が狼狽え気味に手を伸ばす。

「そうだけど。無理強いはダメですよ」

 咲ちゃんの肩に優しく手を置き、丁寧さの抜けた小さな本音と人としての理性を吐露する。

「無理強いじゃないです。ねえ、千埼さん!」

 その腕を振り切らんばかりに僕の方へ向き直り、勢いは尚も衰えない。

「香織さんのこと好きですよね?」

「咲ちゃん」

 店長の静止を聞かず、咲ちゃんが僕に問いかける。

「……分かりません」

 好きという言葉があまり好きではない。それを言葉にするととても奇妙なのだが、好きという言葉は良くも悪くも影響力が強い。人に対して使えば、一気に距離が縮まるか酷く遠のくし、物に対して使えば、それに固執し新たな物に目が行き辛くなる。両極端だ。天秤にかけるにはそもそも勇気がいるだろう。分からない僕には特に難しい。

「どうしてですか? あんなに分かりやすいのに」

「咲ちゃん」

「すいません。本当に、分からないので」

 僕の返事に咲ちゃんの顔は落胆の色を濃くする。

「すいません」

 皮膚の下で止まっていた『何か』がまた動き出したので、頭を下げながら腕を擦った。

「やめてください。咲は別に千埼さんを責めたいんじゃありません」

 怒りながらも、しっかりと明確に宣言する。その強い言葉に『何か』が怖気づいて端の方から消えていく。

「香織さんのことを想って、です」

 そう言ってまた少し鼻を啜り、それでも限界を迎えたか、ティッシュを取って乱暴にかんだ。

「千埼さんは、香織さんが嫌いですか?」

 咲ちゃんが落ち着きを取り戻してから、店長が僕に問いかける。先程と同じ様な質問だが、明らかに違う。

「嫌いではないです」

 嫌いでないなら好きというのは早計であるが、きっと嫌いではないだろう。それだけなら分かる。

「なら、これからも仲良くしてくださいね」

 店長の温和な表情に細かく頷き返すと満足そうに彼も頷いた。

「しょうがないですね。今はそれで許しますー」

 いじけたようにまた膨れた咲ちゃんは、「仕事始めますよ」と店長を急かし箒片手に開店準備を始めた。開店前の店内にいることが些か不思議であるが、静かなうちに一人飲むのも悪くない。

 半日休暇を取った僕は、役所や銀行など公共の用事を済ませ、駅前を何んとはなし歩いていたところを咲ちゃんに捕まった。咲ちゃんは駅近くの大学に通っているようで、バイトに行く途中偶然にも僕を見つけ、走って追いかけたとのことである。大学三年生ともなれば隙間時間が増え、バイトや趣味に時間を割けるのだろう。ただ、外見的偏見ではないが、金髪で下着が見えそうな短い丈のスカートをはいた女性に後ろから抱き着かれるようなことをされたら、少し引いてしまうのは許してほしい。そのまま引っ張られるようにして開店前の店に連れていかれ、店長に断り僕を席に座らせたのだった。

「千埼さん、おかわり大丈夫ですか?」

 もう開店するので、追加があれば先に用意しますと至れり尽くせりである。首を傾げる咲ちゃんの右耳につけられた桃色のピアスが揺れ、その存在を主張する。シルバーのハート型が洗練された可憐さを醸し出す。咲ちゃんにピッタリのアクセサリーだ。

「このピアス可愛いでしょー」

 僕の視線に気付いてか、指でそれを大げさに揺らす。

「お気に入りなんです」

「とても似合ってます」

 そう言うと嬉しそうに頬を染めた。

「それで、千崎さん。今度はどこに行くんですか?」

 染めた頬から一変、こちらにやり返すと言わんばかりに、また答えを迫って来る。

「香織さんとですよー。一緒にどこか行くんでしょ?」

「あ、出掛けていること知っているんですか?」

 渡辺さん以外からそのことを聞かれることを想定していなかった。

「咲の情報網を舐めないでください」

 今度はねめつけるように僕を見下す。

「香織さん、千崎さんのことばっかり楽しそうに話してくるので。咲ちょっとジェラシーです」

 箒の柄に手を乗せさらに顎を乗せて少し前屈みに僕を威嚇する。

「咲ちゃん、箒壊れちゃいますよ」

 見かねた店長が声を掛け、それに元気よく返事した咲ちゃんは箒をしまいに厨房の奥へと引っ込む。しかし、それで話は終了することはなく、足早に戻って来て話を掘り返した。

「で、どこに行くんですか?」

「遊園地に行く予定です」

「えーっ! いいなあ。どこのですか?」

 そういえば正確な名称は聞いていなかったし、調べていない。

「分かんないんですか?」

 咲ちゃんの怪訝が怒りに変わる前に、ポケットから財布を出し、目的のものを探す。数枚の札と一緒に少し曲がっていた。渡辺さんからもらったチケットを咲ちゃんに差し出す。

「何時も持ち歩いてるんですか? めちゃくちゃ楽しみにしているじゃないですか!」

「当日、忘れないようにと入れてました」

「楽しみですねー」

 自分が行くわけではないのに楽しそうに笑う。『何か』が心臓を叩く。また前日は眠れないのか。当日朝早く起きてしまうのか。僕が知らない僕がいるのかもしれない予兆に『何か』が笑った。

「店長! 私も遊園地行きたいでーす」

 いつの間にか厨房に移動した咲ちゃんが店長にねだっている。

「機会があったらね」

「えー。それは社交辞令のやつじゃん。行きたいー」

 悲鳴と不平の間の子のような声が店内に響いた。

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