第7話

 渡辺さんの宣言通り、感情を探す旅なるただ休日を共に過ごす計画は直ぐに始まった。翌週末、映画館に赴き、探し出そうとしているのだから、感情というものが身近に落ちているとでも思っているのだろう。

 先日、有名どころの続編映画が始まったようで、かなりの混雑状況だ。騒々しいロビーフロアには人が詰め込まれ、思わず踏み出した足を引っ込める。ポップコーンの甘い匂いが充満し、朝飯を食べたばかりの腹に不快感を与える。

 幼少の頃父と通っていた映画館は小さな劇場だった。静かなフロアには味気ないチケット売り場のみで、金を払ってしまえば入場は自由で随分放任な会場であった。前の映画が終わる前に間違えて入ってしまい、オチを先に見てしまった記憶がある。

「どれにしますか?」

 ディスプレイに細かい字で表示された映画の時刻表を見上げ、渡辺さんが小首を傾げる。

「どれでも」

「それじゃあ、ダメです。ちゃんと選びましょうよ」

 それでは意味がないと言う渡辺さんも探索に来ているという目的を覚えているようだ。

「あ! 丁度いい」

何かを見つけたようで、人混みをかき分け小走りに壁側へ向かう。

「千崎さんもこっち来てください。ピーンときたの見ましょう」

 僕に手招きをし、張られたポスターを指差す。そこにはキャッチーなフレーズが踊っている。

『この惨劇をあなたはまだ知らない』

『この世界に必ず戻ってくる。君の元に』

『誰も知らないどこかへ―不思議の冒険』

 一面真っ黒なものから、カラフルなものまで様々だ。

『あなたが分かる。それだけで生きていける』

 写っている女性が渡辺さんに似ている気がする。顎のこの辺とか。輪郭と憂いを帯びた眼差しとか。

「これですか! 私も見たかったです。良いチョイスですよ」

 無意識に、ポスターの中の彼女の横顔に手を伸ばしていたようで、彼女は嬉しそうにその偶然に称賛を送る。

「チケット買いにいきましょう!」

 図らずとも彼女の見たい映画を選んだようで何よりだ。


 数年ぶりに大画面の前に座ると、非現実的な空間が広がり、『何か』が余り強くない力で心臓を叩く。映画の内容はよくあるラブストーリーで、記憶を失った少女が、以前恋した少年に再び出会い、また恋に落ちて記憶を取り戻すというようなものだった。上映中、隣に座る渡辺さんを見ると、正面から顔に光が当たり陰影を深く刻んでいて、今まで見たことないくらい真剣さをたたえていた。

 時より手で輪っかを作って覗き込む。これは彼女独特の映画の見方であった。曰く、自分だけの世界を作り、没入するためらしい。最前列に座らない限りは、視界に他人の頭が少しちらつく。視界の端で定まり悪く細かく動くと気が散り、重要な場面で現実に引き戻されるのが嫌らしい。一方僕は上映時間を始めに確認しておき、どれくらい経ったかと時計を際限なく気にしてしまうので、終始没入することはなかった。

 上映終盤に、彼女の目に溜まる感情を見た。程なくして、それは限界を迎え、溢れだし流れていく。彼女の頬を流れる感情が、視界の端でキラキラと光っていた。この映画に、彼女は何を感じたのだろうか。僕は『何か』を感じているのだろうか。腹に手を当てるが何も変化はない。主人公とその恋人が微笑み合う大画面をただ眺めていた。


「感動しましたね」

 渡辺さんは少し赤くなった目の下を何度か擦る。僕の目には何も変化はないだろう。

「そうですね」

「……。本当にそう思いましたか?」

 彼女に合わせて返事をしたのを簡単に感づかれる。

「あ、えっと。グッと来るものがありました」

「どの場面で?」

「えーっと……。主人公が自分の気持ちに気付くところ?」

「確かに! そこはとても良かったですね」

「そうですね」

「……」

 疑いの目を向けられると分からないということが酷く良くないことのように思え、『何か』が渦を巻いて僕に攻撃を仕掛ける。

「まあ、何かを感じていたのなら良いですけど。無理に言葉にしなくても大丈夫ですから」

 一息ついて、歩き出す。

「こんな感じがしたーとかでも」

 置いてかれないように、それに続く。

「多分、誰でも最初はそんな感じです。覚えてないですけど、私もきっとそうです」

 彼女は自分の言葉に賛同するように、ずっと頷いている。

「皆、子供の頃に済ませていることで。千崎さんが気付くのが、すっごーく遅いだけですよ」

 今度はニヤニヤと笑う彼女が、何故か『何か』を宥める。僕よりも彼女の言動に従順なのはどうだろうか。腹を擦っても何も反応を返さない。

「お腹痛いんですか?」

「あ、いや」

「それとも何か感じましたか?」

「ああ、『何か』を感じました」

「ほらっ!」

 渡辺さんは、うははっと嬉しそうに笑う。


「かき氷を食べに行きます」

 道路に洪水ができるほどの土砂降りの中、集合場所に現れた渡辺さんは第一声に張り切って宣言する。珍しく後ろに髪を束ねているせいで、耳から垂れた大きなアクセサリーが強調されている。覗くうなじに『何か』がドンと腹を殴った。

 最寄り駅から北に三駅。近場だが、降りたことはない駅である。生憎の天気で、出歩く人影は見当たらず閑散としている。

「雨、スゴいですね」

 赤い長靴を履いた彼女は、躊躇なく水溜まりに侵入しわざと水飛沫を上げた。防水機能の低いただのスニーカーを履く僕は、濡れないように水溜まりを出来るだけ回避する。

「あ、ここです。ここ」

 店である主張もなく民家のようにも見える建物に間違えではないかと声を掛けようにも、彼女はもう扉に手を掛け躊躇なく開けた。

「いらっしゃいませ」

 鼻にかかった声が中から聞こえる。間違えではなかったようだ。店内は予想通り狭く、若い女性が好みそうな内装だ。全体的に白で統一されているせいか、眩しく『何か』が落ち着かない。

「二名様ですか?」

「そうです」

 赤い革のソファーに、心もとなく細く曲がった足の白い机。そこに案内され腰を下ろす。今のところかき氷屋のかの字も見つからない。

「千崎さん。はい、これどうぞ」

 長細く白い厚紙を手渡され、その真ん中に小さな『こふぇ』という文字が入っている。開いて見るとメニュー表になっているようで、やっと店の名前を知ることが出来た。

「どれにしようかな?」

 渡辺さんもメニュー表を広げ決めかねているようだ。かき氷しかないのかと思いきや、コーヒーとサンドイッチの種類がそれなりにあり、揃えられている料理はどちらかというと純喫茶のそれである。かき氷を除いては。

 かき氷は、かかれた氷の上に原色シロップが掛かっているものだと認識している。それがなんだ、これは氷の部分がよく分からない形状をしている。巨大卵だ。

「エスプーマですよ。泡ですよ、泡」

 見かねた渡辺さんの救い船に、名前を聞いてもさてはて何かは全く分からない。おそらく楕円に盛られた氷の上に粘性をもった白い液体が掛かり、小さな鉢に乗せられ、食べるには難しそうな形状を保っている。それに加え、上部には苺が花弁のように広がり、頂にはまた白いクリームが鎮座している。写真を見るだけで、腹がいっぱいになり、きっと甘いだろうということだけは分かった。

「気になるならそれにしますか? 味は何にしますか?」

「苺で」

 どうせなら一番人気の商品を選ぼうとメニューの右上にある苺を選ぶ。

「私は……これ! やっぱ、期間限定ですよ」

 六月から七月のかき氷で、赤く書かれた限定の文字に吸い寄せられるよう、そこを指差した。限定という文字に弱い人は案外いるのではないだろうか。

「お決まりですか?」

「苺のエスプーマとサクランボかき氷、お願いします」

 タイミングよく注文を取りに来た店員に、渡辺さんは二人分の注文を通す。

「このお店、店員さんまで可愛らしいですね」

 渡辺さんはこの店に入ってからずっと何を見ても可愛いと言っている。終いには店の隅に飾ってある能面まで可愛いと言っていた。切れ長の目に、薄く開いた口から見えるお歯黒。おそらく可愛いというは彼女だけだろう

「可愛い!」

 特大の可愛いが投下されたのは、かき氷が届いた時だった。思っていたよりもかなり量が有る。かき氷の値段が千円を越えることに驚いたが、量がこれでは仕方ない。

「可愛い!」

 渡辺さんは携帯電話を取り出し、色んな角度からかき氷を撮っている。

「こっちも撮りますか?」

「いいんですか?」

 嬉々として僕のかき氷も写真に収めていく。数分で撮影会は終わりを迎え、いよいよ実食となる。スプーンは白い丸に簡単に通り、その精巧な形を崩す。フワフワの氷の中には、赤い苺のシロップと練乳が層になって掛けられ、至る所に苺の肉片が混ぜられている。甘ったるいことはなく、かき氷特有の爽やかな甘みが口に広がった。エスプーマ自体にはほとんど味がなく、食感を引き立てる程度なのかもしれない。

「美味しいですか?」

「ええ、まあ、はい」

 初めて食べるものは興味深いが、それも長くは持たない。

「じゃあ、私にも下さい」

 渡辺さんはそう言うと溶け始めた僕の器を取り上げてしまう。それと引き換えに彼女の器が僕の前に来る。

「交換です」

 躊躇いなく交換された器に、『何か』が思い出したかのように腹の冷えに驚き、温めようと震え出す。

「溶けちゃいますよ」

 急かされて僕もサクランボかき氷に手を付けた。


 帰りの電車の中で、渡辺さんは味の感想よりも見た目についてずっと話している。あれが可愛かった、これが可愛い、と。

「美味しかったですか?」

 そんなに触れないと逆に気になりだして、今度は僕から聞いてみる。

「普通に美味しかったです」

 普通に棘のある言い方だ。

「まあ、今時のスイーツは味よりも見た目なんですよ。結局のところ」

「そんなものですか」

「そうです。そんなものです」

 味を評価されない料理だなんて、体をなしていない気がする。

「あ。そういえば」

 ふいに鞄の中を漁り、長細い二枚の紙を引っ張り出して、目の前にかざす。

「さっき渡そうと思ってたんですけど、次回のチケットです」

 彼女は既に次回の計画を立てているらしい。

「再来週の日曜日でどうですか?」

「まあ、はい、大丈夫ですけど」

 それにしたって頻度が高くないだろうか。僕はまだしも渡辺さんは他に用事がないわけではないだろうに。

「そうですよね。予定とかなさそうですし」

 僕の返事に満足したのか、揶揄う余裕まで見せる。全くその通りであるので、何も言い返せない。

「当日絶対に忘れないでくださいね」

 入場券と書かれたそれには、ジェットコースターの写真が載っている。次回は遊園地に赴くようだ。

「一度行ってみたかったんですよね」

 渡辺さんは出入口の窓から、流れる景色を見ている。天気はいつの間にか回復していて、夕日が雲の切れ間から覗いていた。電車に乗るときには決まって、外が見えるこの位置に彼女は立つ。それを少し離れたところでつり革を握り、同じように揺れる。

「今日は、楽しかったですか?」

 休日の割に空いている電車内で、しっかりとした声は僕の耳に難なく届く。それでいて眠っている若い男女を起こすことはしない。

「あ、はい」

「どうしてそう思いますか?」

 具体的な理由を聞かれ、『何か』がぐるりと腹をなぞるように一回転して、自然と視線が下がる。

「えっと、今日の千崎さんはどんなでしたか?」

 具体的な答えを考えようにも、漠然としていて何も分からない。

「じゃあ、何をしましたか?  朝早く起きちゃったーとか。歩いているときにステップ踏んじゃったーとか。何かないですか?」

 自分で言って想像したのか、クスクスと小さな笑い声を上げている。

「逆に、食事が喉を通らなかったーとか」

 彼女の方を見ると今度は自嘲気味に笑う。確かに、前日に寝付けなかったり、当日早く起きてしまったり、思い返せば僕はずっと遠足前の子供のようだった。きっと僕は楽しみにしていたのだ。彼女と出掛けることを。そう感じていると思いたい。

「そうですね。昨日なかなか寝れませんでした」

「え、それはどっち?」

「どっちというと?」

「いや、こっちの話です」

 慌て始める彼女を見て、『何か』がフワフワと浮き出し、熱を持って僕を温めていく。彼女が楽しそうにしている姿を、僕は見ていて飽きないのだろう。

「渡辺さんが楽しそうで、僕もきっと楽しかったんでしょう」

 その答えに対して、彼女は嬉しそうに、けれど、どこか頼りなさげに笑う。窓から射す赤みがかった橙色の光が、その顔に当たって輪郭を朧気に映す。さっきまでフワフワと落ち着きなく動いていた『何か』が細かく震え、喉の方にせり上がってくるので、思わず身体を震わした。

「それは良かったです」

 彼女はそれっきり言葉を発っすことはなく、『何か』も鳴りを潜めて静まり返る。身体の中に有るはずの楽しいと感じている『何か』が、消えていくような気がする。変わりに、モヤモヤとした『何か』が腹の中に立ち込める。

 電車から降りて見上げた空は、先程とはうってかわって今にも降りだしそうで、天気が回復したのはあの一瞬だけだったらしい。

「降りそうですね」

 渡辺さんも同じく空を見上げている。

「急いで帰りましょう。千埼さん。お疲れ様でした」

「こちらこそ。ではまた」

 少し間をおき彼女は目を細め、頭を軽く下げる。僕たちはそれぞれの帰路に着くため、そこで別れた。何となく振り返る。去っていく彼女の後ろ姿に、どうしてか目が離せなくなり、目線の先から消えるまで見送った。


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