第6話

 連日降り続く雨は、歩道に川を造り急ぐ人達の歩みを幾分か遅くする。

 信号が青になるまで足を止めていると、傘から伝ってきた滴が左肩を濡らしているのが妙に気になる。それは僕自身にも染み込んでいて、毎日ちょっとずつ量を増やし、身体を鈍らせる。信号が変わり、皆一斉に歩きだす。それの最後尾から続くが、日に日に地面を蹴る足が上がらなくなっているような気がする。腹に居座る『何か』が重たい。

「あ……」

 アスファルトに僅かに溜まった水に足を取られ小さな水飛沫が上がった。革靴の中に水が入り、靴下が濡れたのが分かる。『何か』が最近鬱々とした空気になって常に僕を責めている。そこからは出来るだけ水飛沫を上げないように、細心の注意を払いゆっくり歩いて行くことを心に決める。急いだところで、良いことは何もない。

 しかし、僕の歩みが余りに遅いせいか、横を通りすぎる人の傘が苛立ちげにぶつかってくる。少しよろめいて何とか踏みとどまるも、また水飛沫を上げてしまった。今度はスラックスの裾に染みを作ってしまう。もうこの際、気にしても仕様がないので、濡れるのも構わず進むこととする。

 頭上に広がり、雨を降らせているどんよりとした空は、僕の中の『何か』に呼応して僕を責めているようだ。


 焼き鳥の看板を目に捉え、やっと着いたと腕時計を確認すると、会社を出てから随分時間が経っていることに気付く。

「いらっしゃいませー。あ、お疲れ様でーす」

 暖簾をくぐると、店内にいつもの活気はなく、咲ちゃんが一人手持ち無沙汰にしていた。店長は厨房の奥にいるようで姿は見えない。

「お好きな席にどうぞー」

 誰も座っていないカウンターの真ん中に座るのもどうかと思い、一番隅、入り口から一番遠い席に腰掛ける。

「注文承りますね」

 咲ちゃんはやっと来た仕事に食い気味だ。今日初の客かもしれない。

「この前と同じですね」

先日と同じ注文に、咲ちゃんはそう言うと注文票に整った文字を並べ厨房へ戻る。一週間ほど前に一度来ただけの客の注文を覚えているなんて、彼女はかなり有能なのかもしれない。

「店長ー。焼き鳥はいりました」

 奥に声をかけ、票を上に掛けてから手を洗う。冷やしてあるビールジョッキを取り出し、サーバーの注ぎ口に斜めに押し当てるように注ぐ。ジョッキの残り三分の一になった時、徐々にジョッキを真っすぐに立てることで泡を作る。タイミングを間違うと泡の配分が可笑しなビールが出来上がる。

「はい。お待たせしましたー」

 目の前に置かれたビールは手本のように泡がたてられ、見事な配分だった。

「千崎さん? ですよね?」

 飲み物と小鉢等の簡単な調理のみ任されている咲ちゃんは、これで役目を終えたらしい。三角巾からこぼれた茶色の髪が少し揺れる。

「はい。そうですけど」

「香織さんと今日は一緒じゃないんですか?」

 やはりというべきか、相当印象に残っているようだ。

「同じ会社なんですよね? 私、香織さんと超仲良しなんです」

 華やかな顔に似合う綺麗な笑い方をする。腹の底で寝ていた『何か』がもぞもぞと動き出す。あの日、泣きはらしたであろう渡辺さんの泣きそうな顔が脳裏に浮かぶ。

「ただ同じ会社で働いているというだけですから」

「まあ、そうでしょうけど。そういう雰囲気ではなかったですから」

 指示語を的確に使用する咲ちゃんに言わんとすることは分からない。

「けど、千崎さんは香織さんのこと普通に好きですよね?」

 腹の中の『何か』が急に背中側に動いて、椅子ごと後ろに倒れそうになる。その後熱を帯び、背中からじわじわと身体が熱を帯びていく。

「分かりやすいですね」

 渡辺さんのように意地悪く笑いながらも、口元に手を添える仕草には上品さを感じさせる。揶揄われているのだとしても、咲ちゃんは嫌味を与えてはこない。

「咲ちゃん。口ばっかり動かしてないで手を動かして」

 突然現れた店長に、開きかけた口は音もなく閉じる。咲ちゃんの興味が逸れ、その話題を続けなくていい口実が出来たことに、少なからずほっとした。

「店長が遅いからですよー」

「千埼さん。いらっしゃい」

 不服は申し入れされず、店長に対し頬を膨らめ子供のようにいじけている。そして、僕の方に向き直る。

「私、応援してますよ。頑張ってください。あ、あと咲ちゃんって呼んでくださいね。千埼さん」

 最後に妙に決まったウインクを足し、厨房の奥へ下がっていく。


 雨は強くなる一方で、静かな店内には咲ちゃんが洗い物をする音と雨音だけが聞こえている。今週もまた雨は続きそうで、梅雨明けには程遠い。

「こんばんわ。まだ大丈夫ですか?」

「いらっしゃいませー。香織さん! 待ってました。香織さんならいつでもいいですよー」

 僕が認識するより速く、咲ちゃんが本日第二号の客に駆け寄っていく。渡辺さんだからか、二人目が来たからか、理由は分からないが、咲ちゃんは彼女の周りをウサギのようにぴょんぴょん跳ねている。

「らっしゃい。大丈夫ですよ。香織さんならいつでも」

 店長も咲ちゃんと同じで歓迎ムードだ。一人しかいない客の存在を知られないわけもなく、数秒後には彼女の目が僕を見つけた。『何か』が急に真ん中に収縮し脈打って、また熱を帯びる。

「あ、お疲れ様です」

 渡辺さんは少し固まった後、ぎこちない足取りで近づいてきて、律儀に小さく挨拶をしてから隣に座る。彼女の左肩もまた雨で濡れているようだ。『何か』がもう一度ドクッと脈打ち、身体は足の先まで熱くなっていた。知らず知らずのうちに浅くなった息を整え、動き出しそうな手を腿に押し当ている。

「もう来ないかと思いました」

 彼女は僕が言葉にしようとして飲み込んだことをあっさりと言う。

「来るって言ったんですけど。最近忙しかったんで」

 帰りに寄れなかったと弁解しようとしたが、言い終わる前に彼女が小さく笑う。

「深く考えたら、負けなのかな」

 そう言って今度は豪快にわははっと笑う。それに『何か』は気を良くして、煩かった鼓動を少し和らげる。そして、温かな液体を腹に注ぎだした。

「咲ちゃん、ビールください。泡少なめで」

 注文をする声にこの前までの悲壮感はなく、何かを振り切った顔は無理をしている素振りを見せない。

「すでに、ここに!」

 咲ちゃんは先回りして、ビールを入れていたようで直ぐ彼女の前に出す。

「さっすが、咲ちゃん!」

「ありがとうございます。どうですか?」

 ジョッキに注いだだけの咲ちゃんが、味を気にしているらしい。

「うーん。美味しい!」

 やったねと二人でハイタッチしている様子に僕と店長は苦笑いを返し、楽しそうな姿に雨が少し弱まった気がした。


 話上戸である渡辺さんに酒が入るとプライバシー保護とは縁遠いものになる。隣に座っているだけで彼女について幾分も知ることが出来るのだ。会社ではそれを隠し聞き役に徹しているせいで、さらに口は回ってしまうとのことである。飲み干したジョッキが何度も下げられ、その都度新しいビールが咲ちゃんによって投下されることも達者な口に拍車をかけていた。

 実家の近所の井戸端会議で聞いた野良犬の話に差し掛かった時、ポケットのスマートフォンが忘れていた本来の役目をまっとうせんと振動した。短い応答は恐らく着信ではないだろう。

「彼女ですか?」

 酒で感覚が鈍っているだろうに渡辺さんは目敏くその振動に気付き、法杖をつきながら僕を見てくる。

「誰ですか?」

 連絡を確認して内容を答えるまで追及は止まらないだろう。仕方なく取り出し画面をなぞる。

「……小学校の同級生です」

 そこには卒業以来会うことのない元友人からの急な連絡があった。

「へえ。意外です。仲いいんですか?」

「いや。卒業以来です」

「……ああ、それはあれですね」

 得意の指示語を並べ、渡辺さんはジョッキを煽った。連絡は他愛無い会話から近況を話しつつこちらの状況を聞いてはいるが、果たしてその真意は一文に全てが集約されている。

「結婚したそうです」

「やっぱり。そうだと思った」

 何故か彼女は得意顔で、しかし、直ぐ苦虫を噛みしめるよう歪める。

「同級生から急に連絡が来たら、だいたい結婚式への参加要請ですよ。それか金の無心」

 百パーセントそうであれと半ば強引な推理である。しかし、その割合が高いことは否めないだろう。

「 私も最近、それが来始めたんですよねえ」

 語尾が掠れ目を細めて、店の壁で見えないはずの遠くの景色を見ている。

 確かに、二十六歳の誕生日を迎えた辺りから、同級生の祝福話は尽きない。増してや今年三十歳になろうものなら六歳離れた会社の後輩すら先へ進んでいく。結婚が別に全てだとは思わないが、していないと世間の目は厳しい世の中に身を置いていることは事実である。渡辺さんは今年二十七歳になる年らしいので、結婚連絡繁忙期なのだろう。

「まあ、幸せなことじゃないですか!」

「そうですね」

「そこに呼んでいただけるなんて!」

「まあ、はい」

 自棄の入った肯定を連呼する渡辺さんの口角が片方だけ上がっている。

「喜ばしいことですよ。とても!」

 今日はとことん絡み酒のようだ。

「千崎さんは結婚について、どう考えてますか?」

 急に僕に向けられた矛先は、鋭利で研ぎ澄まされている。彼女の絡みは時より質が悪い。

「結婚が全てだとは思わないですけど……」

「けど?」

「しなくてもいいのかなと」

「え? 嫌ってことですか?」

「そういう訳ではないんですが。出来ないと思うので」

「どうしてですか?」

「僕には、分からないので……」

 僕の答に『何か』が腹の中で震え出す。

「何をですか?」

「思っていることとか? 普通の気持ちとか?」

「何ですか、それ。……」

 小ばかにするように微笑した後、僕の顔を見て軽く瞠目した。渡辺さんは目線を厨房の方に戻し、ゆっくりと一度瞬きをしてから、何かを体の中から出す様に深く息を吐く。彼女が黙ると店全体が静まり返るような気がする。震えていた『何か』に沢山の足が生え、腹の中を蠢いている。

「どうしてそう思うんですか?」

 前を向いたまま。ゆっくりとした口調で、小さな子供に話しかけるように僕に問い掛ける。

「そういうものが希薄で。理屈としては分かっているつもりですが、共感はできない。それでは共同生活は厳しいでしょうから」

『何か』が後頭部にまで手を伸ばして、そこを撫でるので身体が小刻みに震え出す。

「それに、それを覆す程、他人に興味を持ったこともないですから」

 渡辺さんは僕の返答を聞いても何も返さない。僕がそうしたように。暫く厨房を睨んだ後、冷めた焼き鳥を食べ始めた。

「これ食べてください」

 不意に焼き鳥を渡してくる。

「おいしいですか?」

 唐突の行動にも大分慣れてきた。反論もせず受け取り、そのまま食べる。

「おいしいです」

「そういうのは分かるんですか?」

「これがおいしいってことだと思ってます」

「うーん?」

 渡辺さんは肘を立て顎に手をやって考え込む。本当においしいのかと突き詰められると途端に分からなくなる。その程度の感覚だ。

「これは?」

 今度は僕のほうに手を伸ばし、腕をつねる。

「痛いです」

「それは分かるんですね」

「まあ、多分」

 僕の中には感覚も感情もあまり無いが、どちらかというと感情の方が薄い気がする。他人に違うと言われれば、自分の感情も全て信用できなくなるくらいの不明確さでしかない。あってないようなものだろう。

「それって気付いてないだけじゃないですか? 実際ここにあるんですから」

 彼女は僕の鳩尾の辺りを指差す。指差された『何か』は落ち着きなく動くのを止め、固まってしまった。

「だって千埼さん、他の人のことは分かるじゃないですか。自分の事だけ全く感じないなんて可笑しいですよ」

 言葉を進めるたび口調がきつくなり、遂には憤慨して、まるで目に見えぬ何かと戦っているようである。『何か』が羽になって優雅に腹の中を舞う。他人のことが分かると思ったことはないが、彼女がそう言うならその可能性もあるのかもしれない。

「そうだ!  今度探しに行きませんか?」

 彼女はいつだって唐突だ。

「きっとありますよ!」

 綺麗な好奇心に満ちた目。渡辺さんは秘境の地に冒険に出かける子供みたいな勢いで、僕との予定を立てていく。フワフワしていた『何か』が肥大し、太陽のように煌々と僕の腹を照らす。

「それに、他人に興味ないって話は嘘ですね」

「え、どうしてですか?」

「それは、……今は教えません」

 もったいぶる割には何も言わず、満足気にニヤニヤと笑う。意地が悪い。

「ちなみに、この事って誰かに話したことありますか?」

「ないですね」

「……じゃあ、どうして私に言ったんですか?」

 先程までの勢いは何処へやら、少し躊躇いながらこちらを伺う。どうしてだろうか、それも分からない。そんな事を言ったらまた怒りだすかもしれない。

「渡辺さんの話を聞いたので。話したら聞いてくれるような気がしたから? ……ですかね?」

 この前とは打って変わってすんなりと、今までずっと準備していたかのように言葉が口から滑り出る。『何か』が持っていて、口の方へ投げて寄越したのかもしれない。しかし、その言葉は渡辺さんの脳まですぐに届かなかったようだ。

「……。それは、買い被りすぎです」

 数秒のタイムラグの後、発した言葉は尻すぼみに消えていく。怒ったり、泣きそうになったり、笑ったり、馬鹿にしたり、静かになったりと渡辺さんはとても忙しい。

 腹を照らす光がだんだんと強くなり『何か』が僕の身体に浸透して、皮膚を内側から沸騰させる。体中から今にも湯気が出そうだ。

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