第5話
「らっしゃーい。空いてるところにどうぞ」
看板と同じく達筆な文字が掲げられた暖簾をくぐると、腹を空かせる香ばしい香りが鼻をくすぐった。カウンター席が八つと六畳半ほどの座敷に机が二つあるだけのじんまりとした店内だが、活気に満ち溢れている。
「おねえちゃん、ビールおかわり!」
「はーい。今いきまーす!」
空いていたカウンターに座り、店内を何とはなしにぐるりと見回す。厨房で四十代ほどの男性と若い女性が忙しなく動き回っている。賑わう店内に反して店員は二人だけらしいが、無駄なく働く姿にむしろ効率がいいのかもしれない。男性が焼き鳥をひっくり返すたびに小さな煙が上がる。
一つ空けた右隣の席の男性たちは、仕事帰りなのか揃いの作業服で楽しそうに飲んでいる。月曜の居酒屋は閑古鳥が鳴き、定休日にするところも多いと聞いたが、そうでもないようだ。店内をオレンジ色に照らす光が、雰囲気の温和を助長している。
「いらっしゃいませ」
女性店員から手渡されたおしぼりは、丁度いいくらいに温かい。
「ご注文お決まりですか?」
「ビールと串の盛り合わせと、あと枝豆お願いします」
「盛り合わせは五種と八種がありますけど。どうします?」
「えー、じゃあ、八種類で」
「かしこまりましたー」
黒く強調した目に、明かりを反射する金色の髪。見た目におおよそ検討がつかない丁寧な口調と態度で注文を取り、駆け足で厨房に戻っていく。
店内に心ばかりに流れる歌謡曲。客の話声。焼き鳥の焼ける音。心地いい雑多な雰囲気に溶け込むと先日が回顧される。手持無沙汰になった水族館からの帰り道に見つけた焼き鳥屋。これはあたりかもしれない。
二人で回している割にテンポよく食事が出され、次を待っている時間でさえ、こちらを満たす。それに気を良くして、皆も酒が進んでいるようだ。
「らっしゃーい。おっ! お疲れさん」
本日何回目かの男性店員の挨拶に、いつになく親密さが加わっている。常連客なのだろう。新たな女性一人客は店長に挨拶を返し、空いていた僕の隣へ腰を下ろした。ぐるりと店内を見て回った彼女の目が僕を捉える。腹にいる『何か』が蛙のようにぴょんと跳ねた。
「え、千埼さん!」
渡辺さんの大きな目がさらに大きく見開かれてこちらを見据える。邂逅に思考がついていかない。
「お知合いですか?」
男性店員が僕と渡辺さんを見比べ、にこやかに笑う。手元でひっくり返したもも串が美味そうな声を上げる。
「会社の先輩なんです」
「へえ、ここで同じ会社の人に会うなんて初めてじゃないですか?」
「そうなんですよ! 初バレです」
渡辺さんと男性店員が話している声が、少し遠くから聞こえるような気がする。
「千埼さん、よく気づきましたね。このお店結構奥まってて人目のつかないところにあるのに」
彼女は隠れた名店が近場の人間にバレてしまったことが悔しいようで、口に空気を溜めて頬を膨らめる。『何か』がゆっくりと伸ばした手で心臓を一掴みし、僕はビクッと身体を揺らした。
「他の人には内緒にしてくださいね。特に会社の人には」
人差し指を立て口をふさぎ、ニヤッと笑う。耳に掛けられた横髪で露わになった彼女の目元に化粧気はなく、隈が濃く刻まれている。白目は赤く染まり、重そうな瞼を小さく瞬かせた。それを見た『何か』がそのまま心臓を左右に揺らすので鼓動が乱れ始める。
「お待たせしましたー。八種串盛りでーす」
女性店員が運んできたこの店一番のおすすめが、僕の頭の中を食欲で満たそうと香ばしい匂いをたてようにも、隣ばかりが気になって味がよく分からなかった。
二人の店員は、渡辺さんと随分打ち解けているらしく、女性店員など『香織さん』『咲ちゃん』と呼び合う仲であり、男性店員が店長で、咲ちゃんは大学生のアルバイトだと紹介してくれた。
「そういえば、水族館どうでしたか?」
渡辺さんは白い顔を大分赤くしている。
「感想ですよ。言うって約束しましたよね」
無言を貫いていると嫌に高圧的に問い詰められる。
「一つの水槽の中にいる魚はもちろん岩や水草、隅々まで計算され洗練されていて、そこにいる魚だけではなく、建物全体が一つの芸術作品のようで圧巻でした」
「はあ?」
実に端的にまとめた感想に、渡辺さんはさらに顔を赤く、呆けさせる。少し間抜けで、緊迫した彼女らしさの欠片も感じられない。
「え? それで終わりですか」
「ええっと、、実物のマナティーは迫力がありましたね」
「いや、水族館のことはもうお腹いっぱいです」
話を欲しがるのにこちらが用意するものでは満足できないらしい。彼女は、僕が会社の先輩であることを度々忘れたかのような態度を取る。
「他に何もなかったんですか? 一緒に行った近藤さんのこととか」
「 近藤さんは……途中で体調が悪くなってしまって、水族館を周った後すぐに帰られました」
「ええー、そんなあ」
「それでその後に駅前を散策していたら、このお店を見つけたんです」
「あー。なるほどです」
言葉とは裏腹に目を細め、こめかみを押さえている。雲のように立ち込めていた『何か』がだんだんと渦を巻いて、台風のようにぐるぐると回転しだす。
「帰る前、近藤さんは何か言ってましたか?」
「えっと、イメージと違ったと言ってました」
「ほう?」
「僕も始めはそう思ったんですけど、あれはあれで有りだと思います」
「は? あー。水族館の話、か」
渡辺さんは下がった肩を更に下げて、これ以上は下げられないと分かると今度は項垂れた。
「最後の方は話もせず見てましたし、気に入ったとは思うんですけど」
彼女はもう何も言わず、黙ってジョッキを煽る。
「失礼を承知で聞きますけど。今までどんな感じで女性とお付き合いしてきたんです?」
失礼を気にするような質ではないだろうに。
「えーっと、お付き合いはしたことあります?」
「……学生の頃に」
付き合っていたかどうかは微妙なところだが、告白されて一緒に帰っていれば数にいれてもいいだろう。
「その方とはどれくらい続きました?」
「すぐに振られましたけど」
渡辺さんは質問上戸だ。ここは取調室で彼女に尋問されているような気になる。肘を机に立て顔の前で手を組み、そこに顎を乗せて尋問は続く。
「ちなみに告白したんですか?」
流し目でこちらをチラっと見る。
「友人から言われて、成り行きで」
「なるほど。ちなみに別れの理由は何だったんですか?」
「理解できない、です」
「……。なるほど、なるほど」
なるほどを繰り返し、深く頷く彼女は何かを理解したようだ。『何か』は腹に穴でもあけようとしているのか、回転速度をどんどん上げている。渡辺さんは三杯目のビールをぐっと飲み干すと、大きく息を吸い込んではあーっと項垂れる。
「私の話も聞いてくれます?」
その言葉に反応してか『何か』が回転をぴたりと止め、ドロッとした熱い液体になって腹に流れる。
「私もそんなにお付き合いしたことないんですけど」
もう一度深く息を吸い込んでから、意を決して話し出す。
「……今日。というか今さっき、振られました」
普段からそこまで高くない彼女の声音がより低く、速さも心なしかゆっくりになる。液状のまま『何か』が喉の方まで迫りあがり息が詰まった。
「あ、もう気にしてないんで、あれなんですけど」
「理由はなんですか?」
何を言うべきかと考えながらも、切迫する『何か』のせいで息苦しく頭が働かず、結局口から出たのは、さっき僕が聞かれた言葉だった。
「妻とは別れられない、です」
ひゅっと息を飲んだのか吐いたのか。それを彼女がしたのか、僕がしたのか。
『何か』が喉の入り口に到達し、体を固くする。言葉を紡ぎ出したきり、目も口も何も動かさない彼女に、僕らの周りだけ時が止まったようだ。暫くすると『何か』はまたモヤモヤとした蒸気になって腹を満たす。
ゆっくり瞼を閉じ二秒数えて開眼すると、やっと元の世界に戻り、周りの音が聞こえ始める。
「おかしいですよね」
彼女はははっとわざとらしく声を立て笑ったが、目は空虚を漂っている。僕は相変わらずどんな言葉を掛けたらいいかわからず、沈黙を破ることができない。『何か』は頭にまで侵略してきて身体全体をモヤモヤにする。
「あっ! 店長も聞いてくださいよ」
『何か』に支配された身体は、僕の言うことを聞かない。
「はいはい。あ、咲ちゃん」
店長が洗い物をする咲ちゃんに何か指示する様に声を掛ける。
「本当に最低なんですよ。本当に」
「そうなんですね。大変でした」
「ほんと、何なんですかね? あの人、本当に……」
渡辺さんは誰の相槌にももう興味はないようで一人で会話を進める。暴走列車のように周りをなぎ倒しながらただ進む。
「香織さん、お水をどうぞ」
咲ちゃんがすっと渡辺さんの前にグラスを置く。
「あ、咲ちゃん。ありがとう」
冷水を飲んだら少し落ち着いたようで、さ迷わせた視線をこちらに捉えた。
「どう思いますか?」
今度はゆっくりと話し掛ける。これは答えが欲しい問いかけだ。間違えてはいけない。しかし、僕には正解を探し当てれるほどの引き出しがなく、一つあったそれには何も入っていなかった。
身体中にあった『何か』がぎゅっと凝縮して腹に集まり、一つ鼓動する。意識した途端、だんだんと鼓動の間隔が狭くなり、身体全体に鼓動を伝えるよう大きな収縮と膨大を繰り返す。頭、喉、足、体。至るところに心臓があるようだ。『何か』から蒸気も出ているようで、腹の下部からじわじわと細胞ひとつひとつに熱が伝わっていく。折り曲げた膝の裏に熱がこもって熱い。
「わ、分かりません」
「まあ、そうですよね。……お会計お願いします」
彼女は残りのビールを一気に飲み干すと鞄の中から財布を取り出し、咲ちゃんを呼んだ。会計をする様を僕はただ見ているだけ。
「お先に帰ります。また会社で」
そう言うと立ち上がり、店内から出ていく。『何か』が今度は大きな竜巻になって僕を脅かす。自然と椅子から立ち上がっていた。
「すぐ戻ります」
事態を心配そうに見守っていた店長に断り、僕は彼女を追って店を出る。
『何か』の竜巻の中から核が現れまた鼓動を開始し、さらにそれは分裂して耳の中まで入ってくる。自分の声すら遠い。
「あ、えっと。渡辺さん」
彼女が振り返る。目の前に彼女がいるのに、何故追いかけたのか分からない。そうしなければならないと『何か』が僕に訴える。先程のように言うべき言葉を探すが、結局僕の頭の中にはないのだろう。
「どうかしましたか?」
彼女は少しうつむき加減で、平静を装う。耳に集まった『何か』のせいで、うまく聞こえない。
「では、失礼します」
僕の行動に意味がないと感じたのか、彼女はしびれを切らし踵を返す。行ってしまう。それでも僕はどうしたいのか分からない。何故こんなにも彼女が気になるのか分からない。
「渡辺さん」
彼女の動きが少し止まる。
「僕、またここに来ますので」
これが精一杯だ。
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