第4話
歓迎会の翌日、総務部を通り過ぎる際、僕に気付いた誰かが近藤さんの肩を叩く。それに恥ずかしそうに何か答えてから、こちらを嬉しそうに見て駆け寄ってくる。
「千埼さん! おはようございます」
「……おはよう」
いつにもまして元気な挨拶に気圧される。
「昨日話した水族館に行ってきた人が総務部にいて、話を聞いたんです」
「そうなんですか」
朝早くから会社で話をする内容とは思えない。
「そこに、マナティーが来たんですよ」
昨晩、たまたま見たニュース番組でマナティーの特集をやっていた。灰色の大きな巨体。ゆったりと泳ぐ姿。温和な性格。トドとの違いは終ぞ分からなかった。
「気になりますよね。そうですよね!」
知らぬ間に声がより一層高くなり、近藤さんは握る拳を上下に振っている。
そういえば、今日は朝一で会議に参加しなければならなかったはずだ。腕時計は開始十分前を指している。
「連絡するので、また今度で」
「え? え?」
「あ。渡辺さんに連絡先を聞きました」
「あ、香織ちゃん! そうだったんですね。じゃあ、待ってます!」
近藤さんは目を見開き呆けたが、直ぐににっこり笑うと左右対称にきれいなえくぼができた。最近話し掛けられる頻度が高い。後から連絡して言うほどのことでもないが、釘を刺しておかなければ、今後も面倒になるだろう。
「千埼さん。今日も頑張りましょう!」
拳を掲げて僕を鼓舞し、一礼して駆け足で戻っていく様は、まるで子供のようだ。それを見送り、早足で階段を上る。部署に着くころには何時もに増して息が切れていた。
「千崎君がギリギリで来るなんて珍しいね」
先輩の言葉に頷きながら席に座り、呼吸を整え準備を始める。
凝り固まった目線を上げると、時刻は午後七時を回っていた。今日やらなければならない仕事は、ほぼ予定通り終わっている。窓から見える空は、暗く淀み、今にも降り出さんとしている。椅子の背もたれに身体を預け、両手を上にあげて上半身を伸ばす。ついでに肩も回す。長時間同じ体勢で固まった肩が幾らかましになった。
周りを見渡すとポツポツと残っている人がいて、皆焦ったような形相でパソコンにかじりついている。今日中に終わらせようと必死なのだ。その様子をよそに、パソコンの電源を落とす。背もたれに掛けていたジャケットを手に取り、反対の手で鞄を持つ。
「お先に失礼します。お疲れさまでした」
「お疲れ様でーす」
背中を追ってきた声たちは、一様に疲れを帯び、自分はあと何時間ここにいなくてはならないのだろうという落胆を含んでいる。
意外にも外の空気は重くなく、空も暗くはない。そして少し肌寒い。これだったら家に着くまでに降り出すことはないだろう。珍しく出番のない傘の先が地面を叩く。傘にだって休日は必要だ。
「お疲れ様です。今お帰りですか?」
明らかにこちらに掛けられた言葉に、ハッとして横を見ると渡辺さんがいた。『何か』がビクリと反応し、また心臓に手を伸ばすので、僕は昨日の痛みに身構える。
「ああ。お疲れ様です」
彼女は平坦な僕の声を聞くと、眉を少し下げ口をきゅっと結ぶ。そして、深呼吸してから流れるように頭を下げた。
「昨日は大変申し訳ありませんでした」
「……え?」
昨日から彼女は唐突だ。そして、先が窺えない。
「初めての会社の飲み会で、少し飲みすぎてしまいました。そして、失礼な事を言ってしまいました。すいませんでした」
『何か』が手を引っ込め、細かく分裂してぶるぶる震えだす。
「え?」
耳に掛かった髪が落ちて、彼女の表情を隠す。頭を下げたまま動かない。
「えっと、頭を上げてください。それだけ緊張してたってことですから」
頭を上げた彼女の表情は、少し険しさが和らいでいるものの、依然苦虫を噛みしめているには違いない。『何か』は少し落ち着きを取り戻し、ゆっくり左右に揺れるに留まる。
「それに飲み会は無礼講っていいますし」
「……。いくら無礼講と言っても、本当に無礼を働く人はいないのではないです?」
確かにその通り、忖度の世界である。『何か』が腹を飛び出し皮膚の内側まで出てきて、僕まで震わす。それに合わせて、手を肩くらいの高さに上げ左右に振る。ついでに頭も振る。全身で気にしてないことを表す。
「あ、えっと。いや、僕は大丈夫ということです」
「あ、ありがとうございます」
今度こそ安堵したようで、うつむき加減の顔を上げ、落ちた髪をまた耳に掛ける。その時耳たぶをぎゅっと一度握るのは、彼女の癖かもしれない。
「今日も電車ですか?」
「そうです」
昨日より落ち着いて、渡辺さんの隣を歩く。もちろん、彼女も昨日よりしっかりとした足取りだ。『何か』は震えるのをやめ、一つに集まって定位置に戻っている。
「そういえば、あの、連絡しましたか?」
駅まであと少しの所で、彼女がまごつきながら話し出す。
「あの……?」
「昨日の。総務部の近藤さんですよ。目の席に座っていた」
「ああ、近藤さん」
そういえば、近藤さんに連絡をすると言ってそのままだったことを思い出す。自分で言い出しておきながら、しないのはやはり人としていけないだろうか。
「ああ、連絡するって言ったんですけど……」
「えっ? 会社で早速話をしたんですか?」
「毎朝話しかけられるので」
「あー。……必死ですね。でも、千崎さんもそこは積極的なんですね。いいじゃないですか」
渡辺さんは途中苦笑するも、連絡を取り合うことに対して何故か嬉しそうに喜んでいる。『何か』がぶくぶくと膨れ、沸騰した水面のように、ぷすぷすと蒸気を吐き出すので、それを宥めるように腹を擦る。
「もう連絡したんですか?」
「いや、まだです」
「後回しにすると結局忘れちゃいますよ。今、送りましょう」
有無を言わせない渡辺さんの提案を押し返すことはできない。
「えっと……」
「ちなみに、何て送るんですか?」
「『朝、会議がある日は、時間に余裕がないので、私語は慎んでいただけるとありがたいです』」
「は?」
彼女を見ると、小さな口が大きく開いていた。瞼も大きく開かれ、大きな目玉が零れそうだ。驚いているのだろう。
「少し固すぎますか? 」
「へ? えっと、そういうことではなくて、水族館に行くって話はどうしたんですか?」
「水族館に行くんですか?」
最近、近藤さんが水族館という言葉を多用していた。それと関係があるのだろうか。いや、きっとあるのだろう。彼女から返事がないのがいい証拠だ。何度か大きく深呼吸をし、顎に手を当て思案する。
「それは送らなくて大丈夫です」
暫くして、彼女の中で答えが出たようで、僕にぞんざいに投げて寄こした。
「いや、連絡すると言ってしまったので」
「私が言っておきますから。その返事はやめてください」
また頭を下げ懇願させてしまう。後輩に、しかも入ってきたばかりの社員に頼むことではないが、彼女の熱意に絆されてしまう。それに承諾しない限り、渡辺さんは頭を下げ続けるだろう。直接近藤さんに言ってパワハラと言われるくらいなら、女性である渡辺さんからやんわりと言ってもらったほうが会社的にもいいかもしれない。
「じゃあお願いします。ありがとうございます」
感謝を表して軽く頭を下げる。頭を上げて見えた顔は、また何とも言えない表情をしている。
「まあ。それはいいですけど。水族館に行こうって誘ってあげてくださいね」
脈絡が分からない話に返事をしないでいると彼女は尚も言い募る。
「交換条件です」
増して強かで、彼女の中での無礼の線引きが、僕には分からない。
「わかりました」
観念して頷くと、渡辺さんも満足そうに頷いた。近藤さんはどうしても水族館に行きたいのかもしれない。あんなに慕ってくれているのだから、たまには付き合うのもいいだろう。
「私、実は近藤さんとは高校の同級生なんです」
「え、そうなんですね」
入社したてなのに随分仲がいいとは思っていた。中途採用だと、転職先に先輩として同級生がいることもあり得るのか。
渡辺さんは近藤さんとの昔話を淡々と話してくれた。蒸気になった『何か』がその温度を上げ、身体を熱くする。彼女は主に近藤さんの事を話したがったが、どちらかというと二人の話を聞きたかった。相当仲がいいのだろうということが伝わってきた。それに、話は簡潔で分かりやすかった。
「では、また」
彼女はそう言うと三番線に向かって行く。僕も乗る予定の電車である。
「あ、僕もそれです」
「五番じゃないんですか?」
「あの日は用事があったので」
苦し紛れの言い訳に疑問を持つことなく、二人同じ電車に乗る。いつもより早く電車は進み最寄り駅に到着するのが惜しい気がした。
「私はここで降りますので」
「僕も同じです」
渡辺さんはもう驚くことはやめたらしい。落ち着いた口調で切り返す。
「千埼さんこの辺なんですか?」
「歩いて十五分くらいの所です」
「いいですね。私は車で二十分くらいです」
もしかしたらどこかですれ違っていたかもと笑いながら言う彼女に尾を引かれながらも、僕たちはそれぞれの家に向かう。『何か』が心臓にくっついて脈打ち、鼓動を意識させる。
「お疲れ様でした。水族館の感想教えてくださいね」
最後に、悪戯っ子のようにニヤリと笑う。それに合わせるよう『何か』がより一層大きく速く僕を打った。
六月吉日。梅雨がこれから最盛期に突入するという中、第四日曜日に水族館へ行くことになった。約束通りに近藤さんを誘うと、急な日取りであったにも関わらず快く了承してくれた。それほど行きたい所だったのだろう。
駅の南側に新設されたビルの一部に水族館が入ったようだ。来ている客の年齢層は幅広く、小さなお子様から年配の夫婦までがビル内を隙間なく埋めている。あいにくの天気に皆室内で遊ぶことを考えているようだ。
ビルの真ん中に吹き抜けているエスカレーターで、水族館がある最上階へと上がっていく。一番上までくると、看板も表札もない言われなければ水族館とは分からないようなシンプルな入り口があった。自動ドアが開くと、二人ならんだ受付嬢が同時にお辞儀をする。水色の魚の柄の入ったスカーフを首に巻き、ベレー帽を被っている。いずれも細身で容姿端麗だ。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「はい。そうです」
「本日、白イルカのマジカルショーが十三時から行われます。カップル席もあるのですが、いかがでしょうか?」
受付嬢がテーブル上の料金表に滑らかに手を添える。
「えーっと。どうします?」
近藤さんは顎に手をあて小首を傾げてこちらを見上げた。委ねられた判断に、どうしたことかと思いながら、受付嬢の後ろの壁にある洒落た時計に目を向ける。時刻は午前十時十分である。
「それは、まあ、結構です」
「畏まりました。では、大人二名様で四千三百二十円になります」
財布から丁度二千百六十円出して支払うと、近藤さんは今度は首を少し伸ばして僕の顔をじっと見てくる。
「……細かいのないんですけどね」
吐き捨てるように言って、僕の払った金を取って五千円札を場に出した。
「こちらがチケットになります。では、こちらからお進みください」
「千崎さん、早く行きましょう」
急かす近藤さんに引きずられるように館内へ潜り込む。薄暗い館内はいい具合の涼しさに調整されていて、一時的に梅雨の暑苦しさを忘れられる。そして、その空間は僕の知っている水族館とはまるで違った。小学生の時に訪れた水族館は、薄暗い中に直線的に並べた水槽があり、ただ魚を眺めるだけのものだった。この水族館も同じように薄暗いが、所々に蛍光があり、青、白、紫、と床に色を落とす。その光は鼓動し、海の中にいるかのような幻想的な雰囲気を醸し出している。海の中から太陽を見上げると、太陽の中心から白い光が放射状に広がり、瑠璃色の深海の神秘をより強調して僕たちの目に映し出すというのを聞いたことがあった。
「小さい魚さん、可愛いですね」
カクレクマノミが泳いでいる。水槽は直線的に並べられているだけでなく、見える範囲で上下に配置したり、大きな水槽を様々な角度から見れたりとかなり趣向を凝らしている。ベンチが岩場のようになっていたり、水の流れをイメージさせる音楽を流したり、客自身も海の中をさ迷っているような感覚にさせる。もちろん、それぞれの魚の説明も補足されていて、しかし、景観を損ねないよう細心の注意が払われている。
「千埼さん! あっちにマナティーがいますよ」
近藤さんが少し離れたところから僕に声を掛る。
「行きましょう」
近藤さんがこちらに戻ってきて、僕の袖口を軽く二回引っ張った。その手を取ってマナティーの所へ向かう。やはり看板動物なだけあって、人気はすごく人だかりができている。これを見るために来たといっても過言ではない以上、近くで見なければ意味がないので、最前列で見れるよう行列の最後尾に並ぶ。しかし、皆、携帯電話やカメラを取り出し写真を撮っていてなかなか前に進まない。
「千埼さん」
やっとマナティーの目の前に来た時、近藤さんが焦ったように呼ぶ。先程から握りっぱなしだった。気づかなかった。
「すいません。大丈夫ですか?」
手を放すと近藤さんは「あっ」と小さく声を上げた。ずっと手首のところを握ってしまっていたし、それに少し強く引っ張てしまったかもしれない。
「大丈夫です、大丈夫です」
手首を軽くさすりながらこれまた小さく答える。心なしか顔が赤いような気がした。
「わっ! マナティーって意外と大きいんですね。それに色が……」
マナティーが客に魅せつけるかのように、目の前をすまし顔で泳いでいく。
「次、行きましょう」
今度は近藤さんから引っ張られる。袖口が伸びないか心配だ。後ろにはすでに長い行列が出来上がっていた。
「なかなか素敵でしたね」
水族館を堪能して、ビルの中にあるデパートを歩く。その後もいろいろな種類の魚や海獣などを見て回り、ビルの中の一施設にしては、見ごたえがあるのではないかと感じた。近藤さんは要所要所で僕の名前を呼んだり袖口を引っ張ったりして、僕を先に進めた。一人で来ていたらもっと時間がかかってしまっただろう。一日かけても回り切れなかったと思う。
「近藤さんと来れてよかったです。ありがとうございました」
「……。私はイメージと少し違いました」
「そうですね。僕も違いました」
「え?」
「というか昔知っていたものとはだいぶ違いました。良い意味で裏切られた感じです」
「はあ、」
近藤さんは細く息を吐いて、軽く目を瞑る。歩き回ったので、少し疲れが出ているようだ。
「少し座りますか?」
「貧血のようなので今日は帰ります。すいません」
「えっと、送りましょうか?」
「タクシーを拾うので大丈夫です」
「あ、はい。それではお大事に」
「……。すいません」
近藤さんは腹を抱えるようにして、そそくさとビルの出口に向かって行ってしまった。その後ろ姿を見て、器用に歩いているが、十センチメートル程の高いヒールの靴を履いて、薄いピンク色の丈の短いワンピースを着ていることに初めて気が付く。自分の足元を見ると、何年も履き崩した見慣れたスニーカーが目に入った。もう少し気を配るべきだったのかもしれない。
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