第3話
新人歓迎会は来週の木曜日に決まった。会社全体で行うとそれなりの規模になるため、毎年、二、三の部署に別れそれぞれ行っている。僕の部署は、総務部と販売部との合同で駅の近くにある結婚式場を貸し切って行うようだ。
当日は皆早めに仕事を切り上げ、徐々に会場へ向かっていく。僕のその流れに身を任せ溜まり気味の業務に目を瞑り会場へと足を運ぶ。外は生憎の大雨で、八日連続の雨は視界を奪うほど勢いが強く、陽気な足取りの会社員の足元を汚していた。
会場に着くと、机の上を確認しながら歩き回っている人が何人か見える。席は始めから決められていて、名前の書かれた紙が机に置かれているようだ。自分の名前を探しながら、同じように机を順に見ていく。運良く二番目に見た机にそれを発見して腰を下ろす。同じ机に座るメンバーを見ると満遍なく三つの部署の人がいた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。千崎君そういえば何日か前に、部長に呼ばれてたよね」
同じ部署の先輩がこっそり聞いてくる。耳が早い。
「あ、聞きましたか。例のあの件でした」
他の部署の人もいるので少し濁す。
「え、あのって?」
この二つ上の先輩は、育児休暇から先日戻ってきたばかりで、知らないのかもしれない。
「まだ決まったことではないので、ちょっとここでは」
「そっか。じゃあまた会社でね」
「はい」
あっさり引いてくれたことに感謝する。脳に深く刻み込むように、その日の部長の言葉が、繰り返し頭の中で流れている。
「インドに行かないか」
唐突に部長はそう言った。腹の底に溜まっていた『何か』が大きく一度鼓動する。
「うちには提携会社の工場が外国に数ヶ所あることは知っているだろう」
「はい」
部長が何人かに海外転勤を薦めていることは話に聞いていた。まさか、僕にくるとは思いもしなかったので、頬が強張って上手く返事ができない。『何か』が脈を打つたび重くなって、僕を床に埋めようとする。
「新しい分野で挑戦する工場にしたいという社長の意向で、この部署でできる奴を選抜してくれというお達しだ。創立メンバーとして携わってほしいと思う人材を探している」
部長は唇を舐め、捲し立てるように続ける。
「ただ、これは強制ではなく、とりあえずの話だ。まだ工場も出来てないしな」
僕が固まっているのに気づいてか、少し穏やかな口調になる。
「それに、この話はお前だけでなく何人かにしているので、気負う必要はない。決定は本会議で行われるし。とりあえず、お前はどうしたい?」
「え、えっと」
戸惑うほかに手段がない。
「まあ、すぐに答えを出す必要はないから、考えてみて。自分の将来をどうしたいか」
部長はそう言うと僕の肩を軽く叩き、作戦会議室から出ていく。一人残された僕の頭の中は、まとまらない思考がぐるぐると回っていた。『何か』は脈を打つ速度を上げ、僕をその場に生き埋めにしようと躍起になっている。部長は試しただけなのかもしれない。そうだとしたら、今の答えではきっと落第だ。
自分の将来、か。あまりに漠然としていて、想像もつかない。
がやがやとしていた歓迎会会場がいつの間にか静かになっている。ハッとして前を見ると壇上で部長がマイクの前に立っている。そして、お辞儀をして降壇する。
いつの間にか歓迎会は始まっていて、部長によるありがたい歓迎の挨拶が終わったようだ。ほとんどの席が埋まっているのに、前の席はまだ空いている。
「それでは新入社員の皆様に入場していただきます」
アナウンスが入ると右後方の扉から四人の新入社員がこちらに来る。男性三人と女性一人だ。席の隣を通り過ぎた時、その女性の後ろ姿にどこか既視感を覚える。だが、思い出せない。そうこうしている間に四人は机の間を縫うように歩いていき、壇上に上がった。壇上でこちらを向くと渡辺香織さんだと気づく。
壇上には四人が座れるように長机と長椅子が準備され、ちょうど有名人の謝罪会見のように、四人は神妙な面持ちで一様に不安そうに着席する。簡単な自己紹介のあと、毎年恒例のどちらかといえば悪しき風習である新入社員による出し物が行われるようだ。はやく会社に馴染み、即戦力となるためという名目らしい。僕の時はドラマで流行ったダンスを踊って大いに盛り上がったのを覚えている。
今回は見ているこちら側も参加型で、四人の内の誰が辛い物を食べているかを当てる古典的なゲームだった。古典的なものはやはり外れはなく、上司受けがいいので、なるほど、新入社員はよく勉強している。四人の前に少しひしゃげたシュークリームが順に置かれていき、いよいよ始まるようだ。左隅に座る渡辺さんは少し顔を歪めて、それを見つめている。
「それでは食べてください」
掛け声とともに一斉に食べ始める。たかが四人だが、一斉に食べれられるとよくよく観察できない。さらに、全員辛いという意思表示をして攪乱するつもりらしい。彼女は口をはふはふさせながら手で扇ぎ、ときより「辛い」と漏らしていて、もし辛くないのであればなかなかの演技派である。『何か』がほわほわと蒸気のようになって腹の中を満たす。
「それでは皆さん、誰が食べたと思うか、挙手してください」
一人ずつ名前が呼ばれていく。
結局、一番右の男性が食べていたようでまんまと騙された。皆演技が上手かったと思う。四人は称賛と歓迎の拍手を受け、新入社員としての初仕事に幕を閉じた。その後はそれぞれ空いている席に散らばるようで、彼女がこちらに来て、そして僕の前に座る。
「よろしくお願いします」
出し物が終わってホッとしたのか、今度はしっかりと微笑み頭を下げた。
そのあと歓迎会は歓談となり、皆自由に食事を取り始める。ビュッフェスタイルをとった会食は思っていたよりも豪華だ。早速食事を取る列に並び、特に好き嫌いもないので、満遍なく皿に乗せていく。一通り料理を乗せて席に戻ると、正面の席にいるはずの渡辺さんはいなくなっていた。
飲み会の席ではよくあることだが、席が指定されたとてそこに座っているのは始めだけで、ビール瓶片手に酌して回ったり、仲のいい人達で固まったりととても流動的だ。代わりに総務部の近藤さんが座っている。
「あ、千埼さん。お疲れ様です」
入社直後の研修である部署交流という名の会社見学の後も熱心に慕ってくれるのは、正直近藤さんくらいだ。意外に、アナログ派の一人で、いつも僕の机までメモや資料を届けてくれる。
「お疲れ様です」
「千埼さん。たくさん食べられるんですね」
全部の料理を少量ずつ乗せたら、二皿山盛りになっていた。少し取りすぎたとは思う。
「ええ、まあ」
「私はあんまりです。小食なんで」
近藤さんの前に皿はなく、グラスを持っているだけだ。
「仕事は順調ですか?」
「はい。仕事は、とても順調ですけど……」
「それは良かったです」
近藤さんは何か言いたげに、上目遣いに僕を見る。この後輩は、先輩としての僕をどう評価するのだろうか。
「千崎さん、お休みの日は普段何をしてるんですか?」
「えっと」
人は何故か、休みの日の他人の動向を気にする。その日によってすることは違うので、一概にはまとめられない。答えにいつも苦戦する。
「私は、最近小説を読み始めたんです! 確か、千崎さんも本好きですよね?」
賞を受賞したりテレビで取り上げられたりすると、何となく手に取って読んでみたりはするが、好きかどうかは分からない。
「えっと。そうですかね?」
「それで、今度また本屋さんに行って――」
この後輩は食べることも飲むこともせず、延々と話し続ける。言葉が切れないその姿に、口から生まれたというのはこういうことかと妙に納得しながら、僕は二皿分の多国籍料理を相手に奮闘する。話を上手く聞く方法は知っている。同調をすることだ。うんうんと頷きながら、父さんと同じ様なことをしている自分に可笑しくなる。「それで購買部の安部さんが――」
脈絡はよく分からないが、話題は会社に戻ったらしい。話が飛んだり戻ったりはするが、こんなにも話題が尽きない。おしゃべり部の名は伊達じゃない。何となく気になって、視線を動かし周りを見渡す。渡辺さんの姿が目に留まった。彼女は頭を低くしながら、挨拶をしに回っているらしい。部長に進められた酒を一旦断るも結局は飲んでいる。
『何か』がまたほわほわと満たす。しばらくすると僕の斜め前の席が空いるのを見つけて、彼女が戻ってくるようだ。漂っている『何か』が腹全体でドクンと脈打つ。それに驚いてそっと目線をはずすと、近藤さんと目が合った。
「千崎さん、話聞いてます?」
「あ、ああ」
「駅前に水族館ができたんですって」
僕の返事を聞き終える前に、また新しい話が始まる。
「そうなんですね」
「本当にすごくおしゃれでいい感じなんですよ」
「それは行ってみたいですね」
「そうですよね! 雰囲気も良いですし。……彼女さんとかと一緒にどうです?」
「いや、お付き合いしてないので」
「そうなんですか。すっごく意外です。モテそうなのに。私も今、彼氏いないですけど……」
また、上目遣いで探るように僕を見る。何か言いたいのだろうか。
「ああ、同じですね」
「一緒ですね!」
近藤さんは何故か嬉しそうに、ぐっと拳を握る。
「千崎さん!」
「朱美ー。こっち来てー」
近藤さんが何かまた話し出そうとするタイミングで、三つ向こうの席に座る総務部の同僚の呼ぶ声がする。
「え、何?」
一応不服そうに返事をしているが、僕に向けるものとは違い親しみが深く、砕けている。
「千崎さん、すいません。向こうに戻ります」
引き留めたつもりはないが、何度も謝ってから席を立つ。
「また、話しましょう」
向こうの席へ進み始めた身体の向きをわざわざこちらに戻し、僕の耳元に顔を寄せ、秘密の話でもするかのようにこそこそと囁く。それで納得がいったのか、満足そうな顔で今度こそ去っていった。近藤さんが、同僚たちと話し出したのを見届けると、また料理に目線を戻す。後少しで食べ終わりそうだ。
「そうなんですね! 勉強になります」
斜め前に座っている彼女は、先輩と何か話をしているようだ。時折ふふっと笑っている。残りの料理を食べながら、会場全体をぼうっと眺める。幾つもの笑い声や話し声が形のない音として、耳に届いた。『何か』が穏やかな風になって凪いでいる。
宴もたけなわ、部長の締めの挨拶をもって会はお開きとなった。不思議なことだが、終盤になると流動的な動きは鳴りを潜め、皆始めの席にいそいそと戻っていく。どんなに酔っていてもそこは社会人、分別はつくものだ。会が終われば、二次会に行く組と帰宅組で何となく別れ始める。
「二次会行く人ー?」
大半がそのまま参加するが、僕は必ず遠慮する。毎年のことだ。先輩はそれを分かっていてか、始めから僕には聞かない。
「え、渡辺ちゃん帰っちゃうの?」
先輩がすっとんきょうな声を上げる。
「すいません。どうしても用事があって」
「これだね!」
彼女に向けて親指を立てて、そこを強調している。
「え? いえ、まあ」
「隠さなくてもいいのにー」
さっきの近藤さんみたいに、彼女に何か耳打ちしている先輩を引き離して、帰路に着く。
「もう、千崎くんはせっかちなんだから。嫌われるよ。しっかり送っていってあげてね」
文句を言いつつ、念を押されてしまったので、一緒に歩いて駅へ向かう。渡辺さんは緊張して飲みすぎたのか、長い髪を掛けた耳までうっすら赤くなっている。
「暑いですね」
彼女は壇上の上でしていたように手をひらひらさせて顔を扇いでいる。『何か』がまた、ほわほわと腹を満たし、身体に熱を伝える。
「この時期は夜でも蒸し暑いですね」
僕をじっと捉える目が、妙に据わっている気がする。あれほど降っていた雨は上がったようで、身体にまとわりつくような熱気が、日は陰っているのにも関わらず、肌をジリジリと圧迫する。
「それって、わざとですか?」
それの指すものが分からない。彼女は何かに苛立っている様子だ。
「それ、とは?」
「あれで、何で気付かないんですか?」
こちらの疑問は聞き入れられず、尚も聞いてくる。
「あ」
彼女の爪先が歩道の段差に引っ掛かり、転びそうになる。僕の方を見ながら歩く姿が危なっかしい。
「はあ。……鈍感なんですね」
躓いたことなどちっとも気にしていないようで、深く息を吐き出し、歪んだ目を僕に向ける。それから彼女はすぐに前へ向き直り、足早に進んでしまう。腹の中央に収縮した『何か』から手のようなものが生え、思い切り心臓を掴む。それに少し驚き、急いで追いかける。
「あの総務部の……。さっき私の席にいた人で」
追いつくか追いつかないかの絶妙な距離で話し出す。
「ああ、近藤朱美さん?」
「そうです。その人のことどう思ってますか?」
「え?」
「普通に印象とかでいいので。何でも」
「えっと、まあ、あれです」
「何ですか?」
僕の指事語は許してくれないらしい。
「あー、会社の後輩です」
同じ会社に勤めているので、下手なことは言えない。近藤さんは、総務部の部長に気に入られているらしく、いつか部長になるかもと言っていた。
「ああ、そうですか。ふーん」
その答えに対して、何やらぶつぶつと呟いている。歓迎会までの態度と随分違う様子に、少なからず面食らう。彼女は相当酔っているのかもしれない。
「まあ良いんですけど。それでですね。どうしても連絡先が知りたいんです」
「誰の?」
『何か』が心臓から手を離して、その傷を労るように撫で始め、鼓動を促し全身へ血を巡らせる。伝わったきたそれがドクンッと指先で一度鼓動し、それに反応して手が僅かに動く。
「千崎さんですよ。他に誰がいるんですか?」
少し食い気味に言うと、彼女は携帯電話を取り出し、道の端に寄って足を止める。その動きをぼうっと見ている僕を見かねた彼女が、携帯電話を持つ手を上下に振って催促した。
「近藤さんが聞いてほしいと言ってました」
「え、あ、はい」
慌てて渡辺さんに近寄り、ポケットに入っている携帯電話を取り出す。近藤さんが知りたかったなら、先ほど歓迎会で直接聞いてくればよかったのではないか。
「さっき直接聞いてくれればよかったのに。とか思ってます?」
思ったことを当てられて、『何か』がまた反旗を翻し、心臓を握り出す。先程よりもいくらか力が強い。
「え、まあ、そうですけど」
「……当て付けですよ。牽制もあるのかな」
「はあ」
「そういうところです」
落胆を全身で表すかのように、溜め息といかった肩を大げさに落とす。『何か』が徐々に力を入れて、心臓を締め上げる。だんだんと責められているような気になって、言い訳をしなければと考えるが、何度か口を開いてみても言葉は終ぞ出てこない。
「行きましょう」
いつの間にか連絡先を交換した彼女が、再び駅への道を歩き出す。慌ててポケットに携帯電話をしまい、後に続く。役目が終わったからか、渡辺さんはもうこちらを見ることはなく、前を向いて黙々と歩いていく。
駅に着き構内に入ると、渡辺さんが思い出したかのように僕の方を見る。
「千埼さんは何番線ですか?」
「……五番です」
咄嗟に嘘をついた。こんなに淀みなくついたのは初めてかもしれない。
「私は三番なので。ではここで。お疲れ様でした」
渡辺さんは本来乗るべき電車の方を指さす。それから軽く一礼して、足早に僕の前から去っていった。そのまま同じ電車に乗るわけにはいかないので、しばらく時間を潰さなくてはならない。
一応五番線に向かいながら周りを見渡すと、少し先に置かれているベンチに酔っ払いが寝そべっているのが見える。その向こう側は空いていそうだ。何故か重くなった足をそこまで引きずり腰を下ろして、いつの間にか止まっていた呼吸を再開する。
僕の普通でない態度は、大抵呆れられるか、無視されるかが定石だ。しかし、渡辺さんは終始怒っているようだった。昔の彼を思い出す。それは何に対しての怒りだろうか。彼女に言うべき言葉を探して止める。『何か』がグルグルと回って僕を混乱させ、酔っているかのように視界を歪ませる。確かに彼女は僕に『何か』を気付かせようとしている気がした。
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